まちばり-11

生まれたこと【2】

「さっきも言ったけどね、笹本ちゃん」
 うずくまる笹本は身動きせず、ただ荒っぽい呼吸だけしている。
「僕、約束を破る奴は信用しないんだ。なのに、どうしてもって金も積んだから会員復帰させてあげた。で、結果がこれだ。どうなっちゃうか、分かるよねー?」
 笹本はやっと顔をあげた。見る見るうちに、泣きそうな顔が浮かびあがる。
 日向に飛びつくようにすがろうとし、日向はそれをひらりとかわすと、ドア付近で待機していた少年たちに目配せした。以前の俺にも近い少年たちは、日向の合図に笑みを交わしあい、ナイフを取り出してこちらに迫ってきた。笹本はあとずさってベッドの向こう側に落ちたが、それは袋小路と一緒だ。少年たちは笹本にたかり、ナイフで威して動きを封じながら、がつっという骨の砕けるような音で暴行を加えはじめた。
「ナイフ使うなら血痕残さないようにねー」と日向はあっけらかんと忠告すると、俺の肩に手を置いた。俺は生々しい暴力から目をそらして、破られた服を見おろすと、「着替えたい」とぽつりとつぶやいた。
「一度帰る?」
「……愛加に心配させたくない」
「じゃ、店に行こうか。服はボーイに買ってこさせればいいし」
 答えずにうつむいた。少年たちは容赦なく笹本の嗚咽を蹴りつけている。何というか、それが言いようもなく耐えがたかった。
「ここを出たい」とだけ返すと、日向はリンチを一瞥したものの、俺につきそって部屋を出てくれた。
「希織も運がないね。僕につかまったり、あんなのにつかまったり」
「……一応自覚あるんだな」
「どうする?」
「え」
「仕事続ける?」
 ぎょっと日向を見あげる。さすがに笹本の再犯には参ったのか、日向はまじめな表情で前髪をかきあげて息をついている。
「仕事、辞めたら……」
「またストリートキッズだね」
「………、弓弦が、別の仕事もあるようなこと言ってたけど」
「それもありかも」
「今の部屋には──」
「あのアパートはうちの寮も兼ねてるから、いられないねー」
 またうつむいた俺は、「まあまあ」といつもの調子に戻った日向に背中を軽くたたかれる。
「とりあえず、店に行こうよ。特別に僕がお茶でも淹れてあげるからねー」
 日向を見あげ、とりあえずこくんとした。閉ざされたドアの向こうで笹本がどうなっているのか、気になったけど考えたくなくて唇を噛んだ。すいすいと歩きはじめている日向のあとについて、ひとまず俺は〈SPRING〉に戻った。
「希織!」
〈SPRING〉に到着して、日向につきそわれながら待機室に入ると、すぐさまそんな声がかかった。
 見ると、確か今日は休みのはずの奏音だ。いつもよりラフな格好の彼に目をぱちぱちとさせると、奏音は立ちあがって駆け寄ってきた。
「希織っ、よかった。怪我とかはないね」
「え、えと……奏音、今日休みじゃなかったか」
「ケンからメールが来てさ。希織が襲われたって」
「ケン……」
 普段そんなに親しくはないケンに目をむけた。照れた様子でケンはそっぽを向く。
「大丈夫だった? 何にもされてない? 服ちょっと破れてるね」
「ん、んーと、ちょっとやばかった」
「そっか。俺、笹本さんに買われたことないけど。柿原さんはあってね。さっきまであっちで話聞いてたよ」
「あれあれ、柿原ちゃん来てんの」
 日向がひょいと首を突っこみ、「まだ待合室にいますよ」と奏音はカウンターにつながるドアをちらりとする。
「じゃ、希織、おしゃべりの前にちゃんとお礼言わないとねー。行っておいでー」
「う、うん」
「僕はお茶淹れとくねー。奏音、説明聞きたいならついておいでー」
 俺と奏音は目を交わすと、話はあとまわしにすることにする。俺はカウンターへのドアに歩き出し、日向と奏音は奥のキッチンに向かった。
 ドアを開けると、ボーイが振り向いてきた。事情は察しているようで、小声で「大丈夫?」と首をかたむけてくる。俺はうなずき、「柿原さんは」と訊いてみる。ボーイは男娼の写真ファイルなどが散らかっている待合室をしめし、そこでは柿原が顔をうつむけていた。
 俺はカウンターを出ると、柿原に近づく。
「柿原さん」
 俺の声にはっとした様子で柿原は顔をあげた。俺を認めた顔の頬は、若干腫れぼったくて胸がぎゅっと痛んだ。柿原は立ち上がると、優しく微笑んで俺の頭を撫でた。
「無事だったか」
「はい、一応」
「よかった……。ごめんね、守ってやれなくて」
「いや、悪かったのあいつだし。俺こそごめんなさい。えと、このあと──」
「まさか。君が無事か、心配で待ってたんだよ。……それに、この顔じゃ家に帰れない」
「え、何で」
「僕には、妻子があるからね。殴られた痕なんてあったら、家族を混乱させるから」
「……結婚してたんだ」
「上司の勧めを断りきれなくてね。それに、結婚しないと周りに怪しまれる」
 柿原は秋風のように寂しく笑い、腰をかがめてもう一度俺の顔を覗きこんだ。
「殴られたり、ほんとになかった?」
「うん。服が、ちょっと破られたけど」
「今度、服をプレゼントしてあげるよ。お詫びだ」
「えっ、あ、まあ……うん」
 どうしても遠慮したくなってしまうが、こういうときは素直に甘えたほうがいいと奏音に助言されている。でも本当に、コートのボタンがちぎれたくらいで、シャツもいまだにブランドものだったりしないし、困らないのだけど。
「じゃあ、僕はホテルにでも泊まるよ」
「え、あ、ホテルに行くなら、俺、ほんとに──」
 柿原は目尻に皺を混ぜて咲うと、軽く俺を抱き寄せて背中をとんとんとした。「気にしなくていいからね」と言われて、なぜか目頭が熱くなった。でも雫が生まれるのは我慢して、ただ柿原の背中に腕をまわす。
 すると柿原はまた咲い、「断ったのにお持ち帰りしたくなるから、そろそろ」と軆を離す。
「奏音にもよろしく。話を聞いてもらって、楽になったよ」
「そっか。うん。伝えとく」
「じゃあ、また今度、必ず指名するよ」
 俺はうなずき、「ありがとう」と精一杯の笑顔を作った。柿原はもう一度俺の頭を撫でると、ボーイに目配せの挨拶をして、〈SPRING〉をあとにした。
 俺がため息をついていると、ボーイのひとりが歩み寄ってきて、「今日はもう休む?」と訊いてきた。俺はちょっと考えたあとうなずき、「ごめん」と言う。ボーイは物柔らかに微笑むと、「謝ることなんてないよ」と肩をたたいてくれる。俺は彼に笑みを向けたあと、待機室に戻った。
「あ、希織」
 待機室では、日向と奏音がテレビの前で一緒に何か飲んでいた。ドアから俺が顔を覗かせると、奏音が真っ先に気づいてくれる。
 俺は何だか弱気な微笑をこぼしてしまって、「何か言われたの」と奏音は眉を寄せる。俺はかぶりを振りながらふたりに歩み寄り、床に腰をおろす。
「何か……さ」
 何とも言えない感情に口ごもる俺に、奏音は長い睫毛を上下させ、日向もこちらを見ながら紙コップの中身を飲んでいる。
「希織──」
「何というか……何で、あんなに優しいんだろ」
「え」
「俺なんか、ゴミクズみたいに育ったのに」
 奏音は日向と顔を合わせる。日向は仕方なさそうに笑い、紙コップを置くと立ち上がる。
「まあまあ」
 言いながらいつもの笑みを浮かべ、「希織は、愛されることに慣れてないからねー」と俺の後ろにまわる。
「でも、 “愛される”ってことは、誰でも持ってる権利なんだよ? 大丈夫。ここにいる男の子たちは、みんな愛されていいんだ」
 首を捻じって、日向を見上げる。「僕はその権利を売ってるんだけどねー」と日向は邪気のない笑顔で俺の肩を揉み、やっぱこいつはこうだ、と俺は息をついて肩の手をはらう。
「希織、これ。まだあったかいよ」
 奏音が紙コップをさしだしてきて、俺は受け取る。紅茶だ。もう湯気はないが確かに温かく、柔らかな香りも失われていない。ひと口飲むと、甘味と苦味が混じった、ここで初めて飲むようになった味がした。
「奏音、休みなのに来てくれたんだな」
「まあね。どうせ休みなんてヒマだし」
「彼女とかいないのか」
「俺は女にも嫉妬で嫌がらせされてたからなー。あんま恋愛に興味ない」
 本音なのか気を遣ってくれたのか分からなかったが、「そっか」と納得しておく。
「できたこともないのか」
「それはあるけど。あー、恋愛か。何かもう、女なんて買えばいいって感じ」
「はは」
「そう言う希織はどうなの」
「俺は──」
「希織は童貞なんだよねー」
 俺は日向を睨みつけ、「そうなんだ」と奏音は自分のマグカップを手に取る。
「あ、恋愛といえば、日向さんはミキさんとどうなんですか」
「うーん、相手にしてもらえてないねー」
「ミキさん落とした男って見たことない」
 俺は眉間に皺を寄せ、記憶をたぐってまた日向を見上げる。
「前に、片想いしてるとか言ってたよな」
「言いましたよー」
「……マジだったのか」
「マジで悪い?」
「あんたなら、いくらでもいるだろ」
「嬉しいなー。僕をイケメンあつかいしてくれるんだね」
「顔しかないだろ、あんた」
「いやいや、僕はレディファーストの紳士だよー。ミキは分かってくれないけどねー」
「俺も分かんねえよ」
 そのやりとりに奏音は噴き出して、「何だよ」と俺は仏頂面を向ける。
「希織って、日向さんに負けてないよね」
「こんなのに負けてたまるかよ」
「違うよ、奏音。僕と希織は仲がいいんだ」
「冗談──」
「はは、そうかも」
 俺はむくれて紅茶を一気飲みした。一気飲みしながら、たぶんふたりとも気を遣ってくれているのだろうと思う。
 どうしてだろう。俺はついこのあいだまで、道端で軽蔑されながら生活していた。盗みに失敗したときは、半殺しにもされた。そんな俺が、今、ここでは大切に想われている。こんなに温かい、泣きたいぐらい温かい許容は、生まれて初めてだ。
 俺はずっと、自分は愛加のおまけだと思っていた。愛加が幸せになるように、そう考えてやってきた。自分の幸せなんて、考えたことがなかった。
 俺の照れ隠しの一気飲みを笑う日向と奏音を盗み見る。こいつらのおかげで、俺は硬く凍結していた“自分”を手に入れて、血を通わせはじめている。それはとてもくすぐったいものだけど、何といえばいいのか──ただ、本当に温かい。
 これでいいんだよな、と思った。愛加も大切だけど、自分自身も大切にしていこう。そうすれば、俺の大切な人たちも幸せになるのなら。
 日向と奏音に割って入って、いっぱい笑いながら、俺は初めて生まれてきてよかったと思えた。

第十二章へ

error: