まちばり-14

本当の家族

 そこには、ウェディングドレスみたいに真っ白でレースがたくさんついた服の愛加がいた。女なら着るだけで幸せになりそうな服なのに、愛加は俺を認めた途端、わっと泣き出して駆け寄ってきた。
 俺はひざまずいて愛加を抱きしめた。柔らかな体温が腕を満たし、嗅いだことのない、いい匂いがした。「何もされなかったか」と訊くと、愛加はこくんとして、「でも」としゃくりあげながら俺にしがみつく。
「怖かった」
「うん」
「何かね、男の人たちがね」
「うん」
「無理やり部屋に入ってきて」
「うん」
「手と足を縛られて、車に乗せられて」
「うん」
「ここに着いて、そしたら、この女の人がいて……」
「……うん」
「私があなたのおかあさん……って」
 俺は愛加のなめらかな髪を撫でる。愛加は俺の服をぎゅっとつかんだ。
「それで、お風呂とか入れられて、服もこんなの着せられて、ごはん持ってきてくれたけど、食べられなくて」
「俺も食べられなかったよ」
「え」
「愛加に何かあったら、俺、もう生きてられない……」
 愛加は口をつぐむ。俺は少し軆を離し、愛加の手を取った。手首には、縛られた痕が残っている。
 俺は女を睨めつけた。
「てめえ、いまさら愛加に何の用だ」
「その子の名前は“繭”よ」
「うるせえ。引き取るなんて言い出したら、ぶっ殺──」
「希織、落ちつけ」
 女を押しのけて、弓弦は俺の言葉を途中でちぎる。そして、俺の耳元でささやいた。
「言っただろ」
「え」
「切り札があるって」
 弓弦はぱっと軆を起こすと、女に歩み寄った。メイドが何人か集まってきて、愛加が怯えた様子で俺にしがみつく。俺は愛加を擁し、弓弦を見守った。
「あざみさん、でしたっけ」
「……ええ」
「彼女を引き取ることは、おとうさんはご存知で?」
 あざみとかいう女は白けた様子で嗤い、「知ってるけど?」と高飛車に言い放つ。ダメじゃん、と俺は思ったが、弓弦はまだあきらめた顔はしていない。
「今度結婚する人が、軆が弱くて子供を作れないの。捨てたのは元彼で私じゃないし、孫ができたって喜んでるわ」
「そうですか」
「もし疑うなら、おとうさまをここに呼んだっていいのよ。どっちにしろ、ここで会わせる予定だったし」
「じゃあ、今から呼んでもらえますか? 本当におとうさんが愛加──繭を歓迎したら、俺たちはおとなしく帰ります」
 俺は目を剥いて立ち上がり、弓弦の肩をつかんだ。
「ふざけん──」
「愛加のそばにいてやれ」
「だって、」
「いいから」
 俺は苦々しく弓弦を見たあと、不安そうな愛加をメイドがつかまえる前に腕の中に守った。
 というか、弓弦は何を考えているのだ。あざみの父親が喜んでいるというのは、嘘のようには見えない。もしその親父が愛加を気に入ったら、俺たちはこの子を置いて引き下がるのか。危険すぎる賭けだ。
 俺がはりつめた表情をしていると、愛加の大きな瞳が雫に揺れた。
「……だよ」
 俺は愛加を覗きこむ。愛加はぶんぶんと首を横に振って、涙を流しながら叫んだ。
「やだよ! 私もおにいちゃんとあの街に帰る。私の家族はおにいちゃんだけだもん、私はおにいちゃんがいるから生きてるんだもん!」
「愛加──」
「こんなとこやだ、早く帰りたい。おにいちゃんと帰りたい」
 俺は愛加をきつく抱きしめた。
 ダメだ。やっぱり置いていったりできない。
 俺は弓弦を見た。弓弦は余裕を保ったまま、「とりあえず玄関からは移動させてもらえますか」とあざみを向いた。
「……そうね。でも、繭は──」
「援交で似非淫売やる手で愛加に触るな」
 あざみの頬がぴくりとして、メイドがわずかにざわめく。「うるさいわねっ」とそちらを一喝したあざみは、俺に視線を刺してきた。
「いい加減なこと言わないで。分かったわ、おとうさまが来たら二度と会えないものね」
 愛加がきつく俺にしがみつく。俺は愛加の背中を撫でてやりながら、「ちょっと移動しよう」と優しく言った。愛加はうなずき、俺たちはリビングに通された。
 白いレースカーテンがエアコンの風に揺れる、涼やかな広いリビングだった。黒い革のソファが並び、大型テレビと向かい合っている。このリビングと、俺と愛加の部屋だったら、後者のほうが狭いだろう。
 あざみはケータイで父親を呼び出しながら、二階に行ってしまった。
 弓弦はケータイをいじっていて、「一日、街空けただけでこんなだぜ」とすごい数の着信がある画面を見せてくる。「ごめん」と何となく言うと、「何とかなるもんだけどな」と弓弦は笑った。しかし、やっぱり大変な様子で、「ちょっと何件か電話してくる」と弓弦はいったん席を立った。
 あざみはいなくても、わりと年増のメイドひとりが無表情に俺たちを監視している。
「おにいちゃん」
 俺の膝に座る愛加が顔を仰がせてきて、「ん」と俺は覗きこみかえす。
「どうした」
「ん……」
「ソファに座る?」
「ううん、ここがいい」
「そっか」
「………、あの人……」
「え」
「あの人が、私のおかあさんなのは、ほんとなの」
 俺は何秒か口ごもったが、「みたいだな」と愛加の頭を撫でる。
「……そっか」
「やっぱ、嫌か」
「嫌、とかは分からないけど、……哀しい」
 愛加は長い睫毛を小さく伏せる。俺は愛加の頭に顎を乗せた。
 哀しい。そういうものかもしれない。あの女に、愛加に対する愛情は感じられない。婚約者とやらが子供を作れるなら、死ぬまで忘れていた気がする。都合よく母親面されているのは、愛加だってじゅうぶん察しているのだろう。
「大丈夫だよ」
「え」
「一緒にあの部屋に帰ろう」
「でも……」
「弓弦を信じよう」
「………、うん」
 弓弦はカーテンの脇で電話をしている。「すみません」という言葉が聞こえるたび、申し訳なくなった。あの街において、俺が消えるのは大したことではないが、弓弦が欠けるのはとても厄介なことなのだ。
 誰も信じられなくなった奴が、最後に信じるのが弓弦だ。でも、俺には弓弦の言う“切り札”が何なのか分からない。それさえ分かれば、弓弦には先に帰ってもらっても、何とかなるのかもしれないけれど──
 ただ、秒針が鼓動のように響くそこでじっとしていた。会話もほとんどなかった。電話を片づけた弓弦は、今度はメールで仕事をしている。死体が腐っていくみたいに、悪い逆睹ばかりがよぎって頭を侵略して、唇を噛みしめた。
 愛加を連れて帰れなかったら──同じ不安をかかえているのか、愛加のまぶたが震えているのを見つめていると、不意にチャイムが鳴った。
 俺も愛加も、弓弦も顔をあげた。ばたばたと騒がしい音が二階からおりてきて、無論それはあざみだ。「おとうさまがいらしたわ」という言葉に、心臓に毒矢が刺さったように硬直してしまう。
 あざみが玄関に行ってしまうと、弓弦はケータイを閉じて「さてと」と脱いでいたオーバーを羽織った。「何」と俺が眉根を寄せると、「愛加、連れて帰るんだろ」と当たり前のように言われる。
「え、いや、そうだけど。あの女の親父が──」
「おとうさま! あの子が繭よ。やっと見つけたの」
 明るく言いながら、リビングに戻ってきたあざみのあとから入ってきたのは、若干前髪が寂しいことになっている、小太りで背広すがたのおっさんだった。愛加は俺の胸に顔を伏せ、俺はそのおっさんをストリートキッズだった頃の鋭さでにらみつける。
 しかし、おっさんの視線は愛加でも、俺でもなく、「やっぱり、有馬さんでしたね」とにやりとした弓弦に向かっていた。
「お会いするのは久しぶりですね。いつもケータイ連絡だったんで」
「な、何で君がここに──」
 え、ときょとんと俺は弓弦とおっさんを見較べる。
 いや、でも、そうだ。そういえば、弓弦の知り合いの中の“有馬”だと──
「おとうさま? こんなチンピラとお知り合いなの?」
 あざみが怪訝そうに問いかけると、「バカ者っ!」とおっさんは唐突に怒鳴った。
「何がチンピラだ! この人は俺なんかと較べものにもならん!!」
 怒鳴られたあざみはびくっとしたまま固まって、おっさんは「すまない、弓弦くん」と弓弦に頭をさげる。弓弦は軽く咲ってそれを制すと、「お孫さんができるそうで」と愛加を一視する。おっさんはようやくこちらを見て俺に気づき、「彼は」と弓弦に向き直る。
「繭ちゃんのおにいさんですよ」
「何っ──」
「血はつながってませんけどね。捨てられてた繭ちゃんを拾って、ずっと彼が育ててきたんです」
「そ、そう……なのか。じゃあ、君にも礼を──」
「礼なんかいらねえ。この子を返せ」
「っ、そ、それは、」
「あと、有馬さん。繭ちゃんですが、この子は娘さんの彼氏じゃなくて、援助交際でできた子ですよ。捨てたのも立派に彼女自身です。それはご存知で?」
 おっさんはあざみを振り返った。石像みたいになっていたあざみは、その父親の目に慌てて顔をゆがめ、「嘘よ」とおっさんの腕を取ってすがりついた。
「そんなの、デタラメだわ。私はほんとに、無理やりされて──」
「何なら、援交相手のおっさんと今すぐ電話つながりますけど」
 おっさんは、娘と弓弦のあいだで板挟みになる。これが切り札か、と俺は愛加を抱く腕に力をこめる。
 デタラメと言い張る娘か。援交相手をさしだせる弓弦か。
 このおっさんは、意外と頭が悪くないみたいだった。腕をつかんでいたあざみをはらいのけ、すぐさまその頬を引っぱたいた。
「おとう──」
「せっかくっ……せっかく、あきらめかけていた孫ができると思ったら、ふざけるなっ。お前など、もうこの家にはいらん! 今すぐ出ていけ!」
「そ、そんな、そんな男のことを信じるっていうの」
「彼は信頼できる男だ。それに、本当に電話をしてもらってもいいんだぞ」
 あざみはいつのまにかぼろぼろと涙をこぼし、化粧が剥げていっていた。彼女がその場にくずおれると、弓弦が大きく息をつき、「じゃあ」と俺の肩をたたいた。
 俺は立ち上がり、愛加も俺の膝をおりる。愛加を見るおっさんの目は、本物のような気がした。
「いいですよね、この子、いただいても」
「……弓弦くんには逆らえんよ」
「ありがとうございます。今後もよろしくお願いしますね」
 おっさんはうなずき、涙でもこみあげたのか顔をそむけた。あざみの薄汚れたすすり泣きがいい加減鬱陶しくて、「行こうぜ」と俺は愛加の手を取って歩き出す。「その前に」と弓弦はおっさんに歩み寄った。
「車一台貸してください」
 車。そうだ。オートバイで来たので、愛加が乗せられない。おっさんは、惜しげもなくいくつもある車のキーを一本弓弦に渡し、「門につけてある車だ」と言った。うなずいた弓弦はにっこり笑い、「じゃあ帰ろうか」と俺と愛加の背中を押した。

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