力になりたい
本当は愛加の服だけ買って、自分の服はゴミからあさりだせばよかったけど、俺ひとりがそうしようとすると、頑固に愛加は「私もいらない」と言う。そんなわけで、俺もまた黒のTシャツを新調し、愛加はデニムのスカートを買った。
今日も愛加はそれを穿いていて、上半身は縹色のブラウスを着ている。俺は段ボールハウスの奥でごろごろと自分の体温に酔っていて、愛加はこちらに背を向けて、ネオンを頼りに髪をといていた。
大収穫だったあの引ったくりから、一週間以上過ぎていた。デイパックやらは捨てさせてもらったけど、財布は残してあった──もう用無しに近かったが。申し訳程度の小銭と、どうせ使い道のないカード類だけだ。
それでも、満腹を望まなければ、明日くらいまで持つだろう。俺は小銭をジーンズのポケットにやると、これは捨てるか、と折畳の財布を脇に置いた。
「おにいちゃん」
その声に顔をあげると、いつのまにか愛加が隣にやってきていた。「起きてたの」と言われてうなずくと、愛加の頭に手を置く。愛加は財布をちらりとすると、「捨てるの」と長い睫毛を一度上下させた。
「もうほとんど空だしな」
「じゃ、またやらなきゃね」
「そうだなー」
「ねえ、おにいちゃん」
「ん」
「私、には、いつさせてくれるの」
「は?」
「その、盗むとか」
薄汚い段ボールの中で、愛加に目を開く。愛加は真剣に俺を見つめている。俺は思わず噴き出すと、「そんなの」と愛加の頭に置いていた手を引いた。
「愛加にはさせないよ」
「何で」
「『何で』って。危ないだろ」
「私、いつも、おにいちゃんがやってるの見てるよ」
「見るのとやるのは違うの。愛加のことは、俺が面倒見るんだ。愛加は何もしなくていい」
愛加はお預けを食らった子犬のようにむくれた顔になり、「私だって役に立ちたいよ」とつぶやいた。
私だって──か。現実的に考えれば、俺の身にいつ何が起こるか分からない、というのはある。もちろん愛加が言ったのは、そういうときのためでなく、俺の負担を軽くしたいという想いからのものだろう。愛加はそういう思いやりを失っていない子だ。
唸ってため息をつくと、甘いかな、と思いつつも、「そうだなあ」とぼんやり視覚を泳がせた。
「じゃ、今日やってみるか」
言ってみたそのひと言に、愛加は顔をあげた。俺も愛加を見て、「とりあえず万引きだ」と壁にもたせかけていた体勢を正す。
「万引き」
「いきなり引ったくりはきついだろ。できそうか」
「ん……ちょっと怖い」
「じゃ、万引きだな。万引きができりゃ、まあひとりになっても死ぬことはない」
「ひ、ひとりって」
「俺に一生、何にもないとは限らないだろ」
たちまち愛加は泣きそうな顔になって、俺は笑って愛加の頭を撫でる。
「きっと、愛加自身が俺から離れていくときが来るよ」
「そんなの来ないよ」
「愛加は優しいから、俺に依存しつづけるなんてずうずうしいことはできない」
「で、でも」
「それは縁が切れるって意味じゃないぜ? いつでも手土産持って俺を訪ねてきたらいいさ」
愛加のぱっちりした瞳に微笑み、「よし」と段ボールハウスから這い出した。愛加は身を引いて立ち上がり、俺も空っぽの財布を手に立ち上がった。せぐくまっていた軆を、背伸びしてほぐす。
「じゃあ、これ捨てて、コンビニでも行きますか」
「何か買うの」
「愛加の不良デビューだよ」
愛加はまばたきをしたあと、急に不安そうになって俺の手をつかむ。
「ど、どうやったらいいのかな」
「そうだな、ポケットに隠せるぐらい小さいものから慣れろ。ガムとかな。いきなりパンとかは無理」
「ガムじゃお腹いっぱいにならないよ」
「まず盗むことに慣れたほうがいいの。まあ、お菓子とかなら、ポケットに入るのもあるんじゃないか」
「そっか。うん、お菓子……」
「でも、やっぱ心配だから、俺が何か買ってレジふさいどくよ。棚いじってる店員にだけ気づかれないように、先に外に出ろ」
「いいの」
「俺みたいに、ひとりでやらなきゃ誰も助けてくれないってわけじゃないんだし。ちょっとは甘えてやってくれよ」
愛加はようやく咲って、「分かった」とうなずいた。俺も咲い、愛加の肩を優しく押した。
骨が分かるその肩に、こんなのはもっと先でもいいんじゃないかとも思った。けれど、実際、俺にいつ何が起こるか分からない。愛加をこんな生活から救って幸せにするまで、死んでも死にきれないけれど──
道の途中にあったゴミ箱に財布を放ると、ネオンの中で、ひと際白く明るいコンビニにたどりついた。
俺と愛加は一度顔を合わせ、先に俺がコンビニに踏みこんだ。「いらっしゃいませー」といういい加減な挨拶と、肌をなだめるクーラーが届く。
無造作に商品を手に取ったりしながら、奥の食品コーナーで立ち止まる。最近パンが多くて米食ってねえなあ、とおにぎりを見ていると、またやる気のない「いらっしゃいませー」が聞こえた。
ちらりと目をやると、愛加だ。
合う前にわざと棚に目を戻し、無難な鮭をえらびとる。ふたつ買っている余裕はないし、俺も愛加もそんなに胃が大きくない。ペットボトルのコーナーに行く途中で、愛加がお菓子の棚で迷っているのを認めた。
ここなら横目で愛加のこと見守れるな、とどのドリンクにしようか決めかねるふりをしていたときだ。
「お腹が空いてるのかな?」
ふと、そんなしゃがれた声がして、振り返った。愛加の頭に手に置く、小太りでいかにも怪しい男がいた。
俺はすぐさま、冷たい扉を開けかけていた手を離す。愛加はパニクった様子でおろおろとこちらを見た。
そうだった、と俺は自分の間抜けさに舌打ちして、そちらにつかつかと歩みよる。
そう、俺と愛加には大きな違いがある。年齢ではない。経験でもない。性別だ。ここは、愛加みたいな原石を持った“女の子”を放っておく街じゃない!
「こいつに何か用ですか」
俺が割りこむと、男はこちらを向いて露骨に顔を顰めた。
「こいつは俺の妹なんで、何かあるなら──」
男は俺を無視して愛加に目を戻すと、その手を取って歩き出した。
「お、おい──」
「話はここを出てからだ」
愛加を引きずって、レジの店員の怪訝そうな目も気にせず、男は店を出ていこうとする。俺は手にしていたおにぎりをそのへんに置いて追いかけた。
やたら明るかったコンビニを出ても、ネオンが水飛沫のように闇夜にあふれている。男は人の流れに逆らって向こう岸に行くと、愛加を路地裏に引きこんだ。やべえ、と俺も素早くそれを追い、暗く湿った臭いの路地裏に進んだ。
「やっぱり。いけない子だねえ」
男は愛加の軆をまさぐり、ポケットから何かを引っぱりだした。スティック状になっているクッキーだ。栄養補給食品なので、俺もたまに盗んでくる。
「君、これ盗む気だったよね? ていうか、盗んじゃったね?」
「てめえっ、」
「男に用はないんだよ。引っこんでろ」
男はこちらを見もせずに言い捨てる。愛加には蜂蜜よりべたべたした甘い口調を使うくせに、俺には野良犬を追いはらうような声だ。甘い声を出されたところで気色悪いけど、と俺は愛加を肩ごと抱きよせた。
愛加はすでに混乱して泣いている。男は細目をさらに眇めてこちらを見やった。
「邪魔しないでくれよ」
「何の用だ」
「その子には、いい値がつきそうなんでね」
「こいつは売りもんじゃない。失せろ」
「じゃあ、言い触らさせてもらうよ」
「勝手にしろ。この街なら、万引きくらい──」
「ふん、たとえ万引きでも、できなくなったら生きてもいけないくせに」
俺は男を睨みつけた。男はひるまず、愛加の髪をぐしゃっとつかむ。
「ほんとに兄妹? ずいぶん似てないけど」
「手え離せ」
「まあ、この子が君のものっていうなら、ただでとは言わないよ。十万円でどうかな」
「離せっつってんだろっ」
「十万円あれば、君だって──」
俺は愛加から男の手をはらった。さっと愛加を背後にやると、俺の背中が愛加の涙に濡れる。
「金なんかもらっても渡さない。失せろ」
「どうせ、売るために養ってるんだろ。今のうちだよ、そんな小汚い子が十万円なんて」
「てめえ、とっとと失せねえと──」
不躾すぎる言葉に、俺が男の胸ぐらに手を伸ばしたときだった。
【第三章へ】