まちばり-3

怪しい男

「あれー」と何やら気の抜けた声がして、靴音が近づいてきた。俺は男の胸ぐらをつかむまま、その声に鋭い眼をやる。長い前髪をセットして、妙にのほほんとした目つきの男が暗闇から近づいてきていた。
 知った顔ではない。俺は男をそいつのほうに押しやると、「こいつの仲間か」と吐き捨てた。男はそいつの顔を認めると、「何だ」と息をついた。
日向ひゅうがか」
「『何だ』はないだろー、西浦にしうらちゃん」
 そいつは俺を見ると、人を食った笑顔を向けてきた。俺は胡散臭く眉を寄せる。
「あんた、このおっさんの知り合いか」
「まあ、顔見知りかな」
「なら、今すぐこいつとどっかに消えろ」
「ずいぶん口の汚い子だねー」
「あんたがいらいらさせてんだろ。バカにしやがって。行くぞ、まな──」
 そいつの脇をすりぬけようとすると、がしっと腕をつかまれた。俺は顔をあげる。その男は、乱暴に俺の顎をつかんだ。
「ふうん……」
「てめえ、」
「磨けば光るな、こりゃ」
「何言ってんだよ。離せっ」
「西浦ちゃん、この子、もらっていい?」
 俺はぎょっと目を開き、そんな俺の肩を日向と呼ばれた男は抱き寄せてくる。そんな奴に、西浦と呼ばれた男は仏頂面になった。
「お前は女に用ないだろ」
「そうだねー。女の子のほうは、ぶっちゃけ邪魔かな」
「じゃあ、女の子は──」
 俺はしなやかな腕の中をもがき、「ふざけんなっ」と何とか日向とかいう男を押しのける。
「てめえら、勝手に話つけんなっ。何なんだよ。この子には絶対妙な真似させねえからなっ」
「彼、この女の子の何? 彼氏?」
「兄貴らしい」
「へえ。じゃあ、おとうさんとおかあさんは?」
 日向はこちらをぐっと覗きこんできて、俺はその生温い水のような目をきっと睨みかえすと、その顔に唾を吐きかけた。入りこんだネオンに、頬にヒットした唾液が光る。
「俺には親なんかいない。いたって、てめえらみたいなクズだ。必要ない」
 日向は俺を見つめて、たおやかに微笑んだと思ったら、突然強い力で俺の胸ぐらをつかんできた。
「調教しがいがありそうだ」
「離せっ」
「まあ、選ぶなら僕だね。西浦ちゃんはロリ専門だから、君は用なしだ。僕のとこに来たら、君は職が見つかるし、その子は奥にでも引っこんでおいてもらってもいい」
「は……?」
「僕、君のこと気に入ったから、ほんとは女の子なんてどうだっていいけど、まとめて面倒見てあげる」
「日向、そんなことなら──」
「西浦ちゃんは黙ってて。ねえ、どうする? その様子だと、どうせろくな帰る場所もないんじゃない?」
 日向とかいう男を見つめる目に、実際みすぼらしい俺はとまどいをちらつかせてしまう。
 日向は俺の胸ぐらを離すと、指で頬の唾をぬぐって舐め取った。俺の背筋に、嫌な予感が走る。
「あ、あんた、ホモ……なのか?」
「ん? 僕? 僕はある女性に片想い中だ」
「じゃ、じゃあ、その女を口説きにでもいって──」
「かわいい男の子を並べるのも好きだけどねー」
 冷水をかぶったように蒼ざめる俺の服の裾を、愛加がきゅっと握りしめる。舌打ちが聞こえて振り返ると、西浦とかいう男が両手をあげていた。
「日向には逆らえねえからな。俺は引くわ」
「そう? じゃあ、この兄妹に会いたくなったら、いつでも我が〈SPRING〉に」
「行くわけねえだろ」と吐き、西浦はそのまま路地裏のいかがわしい奥へと消えていった。俺は困惑を隠せないまま日向を見上げ、目が合うと日向はにっこりとした。
「ではでは、ようこそ、男娼宿〈SPRING〉に」
「だ……ん」
「男娼」
「って、そんなん……」
「もう決まりだよ。まずはそこでゆっくり説明しよう」
「い、いつ俺がそんな仕事やるって言ったんだよっ」
「じゃ、さっきの西浦ちゃんに、かわいい妹ちゃんを渡すのを選ぶ?」
「どっちも選ばねえよっ。じゃあなっ──」
 愛加の手を引っぱってすれちがおうとしたら、日向は俺にヘッドロックをかましてきた。俺はいい加減いらいらして、「できるわけねえだろっ」とへらへら笑ったままの日向を再びにらむ。
「俺は盗みでも引ったくりでもやるけど、それだけはやらないって決めてるんだ。始めたら、……堕ちるから」
「堕ちる? 何が?」
「とにかく俺はやらないっ。売りなんか、しかも野郎相手なんか、冗談じゃ──」
「じゃ、仕方ないねー」
 日向は俺を解放し、スラックスのポケットからケータイを取りだした。どこかに電話をかけはじめる奴に、俺は早いところこの場を離れようとした。が、聞こえてきた話し声に立ち止まる。
「あ、西浦ちゃん? やっぱり──」
 俺は引ったくりの要領で日向のケータイをぱっと取りあげ、「ざけんなっ」と声を荒げた。
「何なんだよ。俺にそんな仕事できるわけないだろ」
「ふむ。意外と卑屈だ」
「そうじゃなくて……。やりたくねえんだよっ。それは俺の自由だろうがっ」
「じゃ、妹ちゃんはやっぱり──」
「何で、俺も愛加もこのまま放免って選択肢がないんだよっ」
「それは、僕が目をつけちゃった宿命というか」
「何だよそれ。とにかく、ほっといてくれ。俺は男娼なんて──」
「お、おにいちゃんっ」
 突然愛加が俺のTシャツを引っぱり、「あ」と俺も冷静になる。愛加の前では、俺はわりと切れやすいこの性格をひかえているのだった。「ごめん」とゆっくり頭を撫でてやると、「大丈夫だよ」と手にしている日向のケータイを閉じる。
「愛加にはそんなの、」
「わ、私ががんばるからっ」
「は?」
「ほう」
 俺は無言で日向にケータイを投げつけた。
「がんばるって、愛加──」
「おにいちゃんと離れるのは嫌。だから、さっきの人はダメだけど。この人は、一緒にいさせてくれるんでしょ?」
「妹ちゃん、物分かりいいね」
「いちいちうるさい。あのなあ、愛加」
「私が、“ダンショウ”っていうのやるから」
 俺はぽかんと愛加を見つめた。愛加はその大きな黒い瞳で真剣に見つめ返してきた。沈黙を裂いたのは日向の爆笑で、俺は奴に険しい眼を突き刺した。日向は気にした様子もなく、ケータイをポケットにしまう。
「この街で育ったにしては、ずいぶん純粋だねー」
「………、愛加、男娼は分からなくても、売りなら分かるだろ」
「えっ、あ、……うん」
「男娼っていうのは、それの男版だ。男が男に軆を売るんだ」
 愛加は長い睫毛を上下させ、俺と日向を交互に見た。「そゆこと」と日向は俺の頭に手を置き、俺はさっとその手を振りはらう。
「だから、愛加はどっちにしろ無理だ」
「そ、そうなんだ……」
 愛加は頬を染めてうつむき、「おにいちゃんが大好きなんだねー」と日向はのんきに笑う。
「まあ、さっきのおじさんについていけば、もう君はじゅうぶんできるんだよ。淫売」
「愛加に変な言葉吹きこむな」
「失敬。じゃあ、行こうか」
「だーかーらっ」
「お、おにいちゃんの役に立てるなら、私──」
 俺は目を剥いて、「バカっ」と愛加の頼りない肩をつかんだ。
「絶対ダメだ。俺が許さない。何のために、俺はここまで愛加と生きてきたんだ。そんな道に踏みはずさせないためだろ」
「おにいちゃん……」
「愛加の気持ちは嬉しいけど、それは受け取れない。俺はいくら汚れたっていい、愛加はダメだ」
 肩を引き寄せて、愛加の小さな軆を抱きしめた。「ごめんなさい」と愛加は声を震わせ、俺は愛加の伸びた髪を撫でおろす。
 そう、この子のためなら。愛加のためなら、いくら汚れたっていい。だというのなら──
 俺は愛加と軆を離し、こちらをにこやかに観察していた日向と向き合った。
「本当に、愛加に害はないんだな」
「そうだねー。うーん、君が僕のところでがんばるなら、ひとつご褒美をあげよう」
「ご褒美」
「アパートの一室を用意してあげるよ」
「えっ」
「もちろん、家賃は給料から引かせてもらうけどねー。大丈夫、君は稼げる」
「………、」
「君が働いてるあいだは、妹ちゃんはその部屋でくつろいでるといい」
「はあ……。つーか、俺、男とやったことなんてないけど」
「ま、そのへんは先輩に教えてもらうんだね。まずは店に行こう。どんな宝石も、まずは磨かないとねー」
 宝石ね、と自覚なく息をつくと、愛加と手をつないだ。愛加は心配そうに俺を見あげ、俺は微笑んでその瞳の中の緊張をやわらげる。そんなふうに気丈に見せていても、マジかよ、という早くも後悔のようなものがプランクトンみたいに胸に繁殖していた。
 男娼。俺だって、伊達にこの街で十年以上ストリートキッズをやっているわけではない。千円でどうだとか誘われたこともあるし、似たような境遇の知り合いには、踏みこんで病気になったり、ヤク中になったりして“堕ちた”奴らもいる。だから、売りだけはやってはいけないと思ってきた。
 でも、愛加を人質に取られているようなこの状況では、どうしようもない。まあ、“店”というくらいだから、立ちんぼのような危険はないだろう。だから、ついてきてやっているのだ。
 それに、アパートを仲介してもらえるのも正直ありがたい。ひとつ夢をかなえてもらうのと同じだ。まあいい感じでボロアパートなんだろうけど、と日向の華奢な背中を見る。
 さっきは暗がりではっきりしなかった日向の容姿を、ネオンやショウウインドウの光が照らしだす。白いシャツ、灰色のスラックス、茶色の革靴──髪は長くおろした前髪を器用にセットし、軆の線は細く、能天気そうな裏で腹黒いんじゃないかと思わせる笑みを絶やしていない。
 ほんとにこんな奴信じてついてきてよかったのかな、と不安になっていると、「ここ」と日向は雑居ビルの前で立ち止まった。

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