流し落として
「このビルの三階が、僕が経営する〈SPRING〉っていう男の子によるエステだよ」
「エステ」とくりかえすと、日向は「実際はホテヘルだけどねー」とにこにこした。
「はあ? ホテヘルって、そんなもん、何されるか分かんねえじゃん」
「本番は一応禁止だけど、まあやっちゃって構わないから」
「あのなーっ」
「まずは、設備してるバスルームで軆洗ってー。ほら、妹ちゃんも特別に使わせてあげるから」
悠長な口調の性急な説明に、俺と愛加は顔を合わせつつ、仕方なく日向についていく。一階は薄暗く、ポストや自販機、あとはエレベーターしかなかった。自販機の唸りが、ちょっと気味悪い。
エレベーターが来ると、俺たちは狭苦しいそれに乗りこんで、日向の細い指は『3』のボタンを押した。俺は愛加を不安にさせない程度にいらいらしていて、日向はそんなのは承知している上でにこにこしている。
三階に到着すると、左右を観葉植物に構えた〈SPRING〉と書かれたガラスの自動ドアがあった。が、日向はそこは通らず左に折れ、『関係者立入禁止』の灰色のドアをあける。
すると、ソファやらテレビやらPCやらが置かれた、リビングのような部屋が現れた。たぶん男娼なのだろう、何人か少年が自宅にでもいるようにくつろいでいる。
視線は、俺より愛加に集まった。
「日向さん、その子、何?」
「女も導入?」
「まさかー。ただのこの男の子の荷物だよ」
さらっと言われて「荷物っててめえ、」と突っかかりそうになると、少年たちがげらげら笑い出す。
「怖そー」
「ほんと怖いよねー。誰かに手懐けてもらうからねー」
日向は笑いながら、さらに奥の部屋に進む。次は冷蔵庫やシンクがあった。「ほとんど住みこみみたいな子もいるから」と日向は冷蔵庫を開けて、適当にペットボトルを手に取った。マジックで名前が書いてある。
「こんなふうに、自分のものには名前書いておいてねー。じゃなきゃ、食われるか捨てられるから」
そして、その次のドアの向こうに、ユニットバスがあった。「これからの時期、あんまりここ使わないんだけどねー」と日向はビニールカーテンをめくって白いバスタブを見せる。
「夏は汗かくから、気になる子が使ったりするけど、まあ、ホテルで浴びてくる子がほとんどだしねー」
「はあ……」
「じゃ、まずは──そうだ、君の名前まだ訊いてなかったね。教えてくれる?」
俺は口元を突然頬に冷たいものをあてられたようにこわばらせ、しばらく言いよどんだのち、うつむいて答えた。
「……ない」
「ない」
「俺は、六歳のとき、この街に捨てられたから」
日向は初めて真顔で俺を見つめた。俺はいい加減に息をつくと、「だから」と鬱陶しい前髪に隠れた。
「何とでも呼べよ」
「ぽち」
「ざけんな」
「そうだなー、じゃあ考えておくよ。とりあえず、君からシャワーで綺麗になっておいで」
俺は吐息をつくと、愛加とつないでいた手を離した。愛加は手を胸に押しあて、不安そうにこちらを見あげてくる。「すぐ済ますから」と優しく言い置き、日向にはきっと目を向ける。
「俺がいないからって、愛加に変なこと吹きこむなよ」
「はーいはい。あ、着替えがないね。適当に買ってくるよ」
「愛加のぶんも買ってこい」
「もう君、立派にうちの男娼だね」
「どこがだよ」
「洋服代なんて、天引きに決まってるでしょー」
舌打ちすると、「しょうがねえな」と汗の臭いがするTシャツを脱いだ。
「高いもん買うなよ」
「安物ね。妹ちゃんは、リクエストあるかな?」
「え」といきなり話しかけてられてびくっとした愛加に、「かわいい服」と俺が代わりに答えた。
「お、おにいちゃん」
「レースとかついた、女の子らしい服」
「お姫様系?」
「この子をかわいく見せる服なら何でもいい」
「了解。じゃ、さっそく買いにいってくるねー」
日向は背を向け、手をひらひら振ると、あんまり広くないここを出ていった。
俺は長い息をつき、愛加は心配そうに俺を見あげる。「おいで」と言うと、ぽん、と愛加は頭を俺のみぞおちに預けた。
「ほんとに、そんなお仕事するの」
俺はトイレのふたをしめて、そこに腰かけると、愛加を膝に乗せた。
「何か、あいつのけむに巻かれたって感じだな」
「やりたくなければ、今、逃げられるよ」
「たぶん、あいつもそれ分かってるよ」
「逃げないの」
「………、売りなんか、一生の仕事にはならない」
「じゃあ、」
「でも、そろそろガキっぽい盗みじゃやってられなくなる」
愛加は首を曲げ、長い睫毛を押しあげて俺を見つめる。
「何か、始めなきゃいけなかったんだ」
「けど、こんな仕事、」
愛加の小枝のような軆を抱きしめた。本当に、ちょっと力加減を間違えれば、折れてしまいそうだ。
「もう、愛加は淫売だってやれるんだ。言われただろ」
「う、うん」
「そこまで成長した子を、段ボールの家が守ってくれるか?」
「───」
「愛加には、安全な部屋が必要なんだ。俺も路地裏で生きていくのには疲れた。あの日向とかいうのが信頼できるかは分からなくても、いい機会だったんだ」
「無理、してない?」
俺は愛加の瞳に、触れるようにそっと微笑み、うなずいた。愛加はぱたんと俺の胸に顔を伏せ、「私も早く働けるようになるね」と言った。
「売りはダメだぞ」
「おにいちゃんはやるのに」
「愛加は将来、いい男と知り合って、恋愛して、幸せな家庭を持つんだ。そのときのために、淫売なんて過去は残すな」
愛加はちょっと俺を仰いで、また視線を泳がせると、小さくこくんとした。「よし」と俺は愛加をクッションフロアにおろして、自分も立ち上がった。
「愛加からシャワー浴びるか」
「おにいちゃんからでいいよ。あの人も言ってたし」
「分かった。じゃ、まあ……そのへんにいて。つーか、あの男が戻ってくるまで、服なくてあがれないじゃん」
ぶつくさしながらスニーカーを脱ぎ、バスタブに踏みこんだ。そして、ビニールカーテンを引くと、服も脱ぐ。その汗の染みついた服をカーテンの隙間から外にやると、適当に温熱調節をして、コックをひねってシャワーを出した。
飛沫の音が、カーテンやバスタブに反響する。コインシャワーのように急ぐ必要もない。どうせならお湯を張って浸かってみたかったけど、そこまでくつろいでいいのか分からなかったので、やめておいた。
シャンプーやボディソープも清潔なものが並んでいて、濡れた髪や肌はいい匂いに包まれていった。こんなにしっかり軆を洗うのは、生まれて初めてかもしれない。どうしても黒ずんでいた肌を、ふわふわの泡とちょうどいい温度のお湯が絡めとっていく。あぶらっぽかった髪も、コンディショナーでしっとりまとまっていった。
きゅっとシャワーを止めて、そういやタオル、と気づいた。愛加にカーテン越しに訊いてみると、常備されているものがあったのか、カーテンの隙間からさしだしてくれる。それで水分を取っていると、がちゃっとドアのひらく音がした。
「名無しの権兵衛くーん」
いうまでもなく、日向の声だ。俺は一瞬黙ったあと、「権兵衛は嫌だ」と白いタオルに水分を移していく。
「名無しっていったら権兵衛でしょ」
「何だよそれ」
「うわ、知らないの。ジェネレーションギャップ感じるなー」
「どうでもいいから、服よこせよ」
「新入りくんは生意気だなー。あ、妹ちゃん、向こう向いててくれる」
「愛加に命令すん──」
な、という前にばっとカーテンが開かれた。
俺はぎょっと目を開いて硬直し、日向はそんな俺の全裸を観察する。「ふむ」とつぶやいた奴は、「まだ道端から拾ってきたって感じかなー」と失礼な感想を述べた。
「わ、悪かったなっ。つか、そんなに見てんじゃねえよ」
「とりあえず、じゅうぶんに栄養を採ることからか。うーん、でもシャワー浴びただけにしてはなかなかになったね」
「だから、」
「あ、服ね。こっちが君のぶん。これは妹ちゃんに」
日向はふたつ持っていた紙ぶくろを、俺と愛加にそれぞれ渡す。愛加は壁際を向いているものの、俺のはだかが隠れていないことは察しているようだ。俺はさっさとカーテンを引きなおそうとしたが、その手を日向が止めた。
「妹ちゃんもシャワー浴び終えたら、まず会ってほしい人がいるんだ」
「い、いきなり客とか言うなよ」
「君たちの面倒を見てくれる人だよ」
「………、それは、あんたの仕事じゃないのか」
「僕の仕事は、君たちが稼いできたお金を数えること」
胡散臭くて眇目になると、日向はにっこりとした。
「もちろん、君たちが安全にお仕事できるサポートもするけどね。住む部屋を用意したりするのは専門外」
「え、部屋って、もう見つかったのか」
「さあね。そういうことは会う人に訊いて。妹ちゃんがお姫様になった頃、ちょうどその人も来るよ」
俺は愛加の背中を一瞥して、「とりあえず服着る」とカーテンを閉めた。「オッケーだよー」とどうやら日向は愛加に声をかけている。
俺は紙ぶくろの中を覗き、下着まで揃っているのを認めて、ひとまずそれを身につけた。「妹ちゃんも働きたいなら、いい店紹介してあげるよー」とか言っている日向を、「ふざけんな」とさえぎったりしながら、俺は赤と黒のラグランTシャツと、細身のジーンズすがたになってカーテンを開けた。
「お、商品っぽくなってきたねー」
満足そうな日向を無視してバスタブから出て、スニーカーも紙ぶくろから出した新しいものを履いた。ちょっと大きいけど、あとで靴紐を締めればいいだろう。「じゃあ」と日向は愛加の肩をとんとたたいた。
「ゆっくり磨いておいで」
愛加は日向を見あげ、小さくうなずくと、紙ぶくろを抱きしめるままバスタブに入った。水音が聞こえてくると、壁にもたれて相変わらずにこにこしている日向をちらりとして、蓋の閉まったトイレに腰をおろす。
「いくら?」
「うん?」
「洋服代。今、そんな持ってねえけど」
「出世払いでいいよ」
「………、ほんとに、俺にそんな仕事できるのかな」
湿った髪がまだ雫を落とすので、タオルで雑に拭きながらつぶやくと、日向は余裕をかました笑みを浮かべた。
「妹ちゃんのためだ」
「愛加……?」
「支えのある君がうらやましいよ」
日向を見あげた。さっきまで腹黒いものを持っているんじゃないかと思わせていた笑みが、何だか空っぽに見えた。でもすぐそんな影は消して、日向は腕を組むと俺を見下ろす。
「名前、考えたんだけどね」
「え、ああ。……変なのやめろよ」
「変かは分からなくても、“希織”ってどうかな」
「キオリ」
「希望を織るって書いて。僕は君に期待してるからねー」
その言葉が本音か嘘なのか、とにかく人に読ませない奴だ。膝に頬杖をついて、「期待ねえ」とつぶやく。
「俺、マジで男誘うとか分かんねえんだけど」
「そんな低級な商売はさせないさ。ちゃんと予約制だよ。日時とか指定だから、記憶力悪いなら、手帳とかケータイとか持ってねー」
「……百均で手帳買っとく」
「そうそう、パネルに載せるための写真を撮らなきゃね。ほかにもいろいろ手順あるし、まあ実際に働きはじめるのは今月末くらいと思ってて」
「今、何月だっけ。九月か。今日何日?」
「二十日」
「十日で始められるもんなのか」
「風俗っていったら、本来その日から働けるもんだよ。君はちょっと野性的すぎるから、商品になってもらわないと」
「お手数かけますね」
「まったくだねー」
日向はやはりにこにこしている。まあ悪気はないらしいな、と俺は伸びをした。
カーテン越しに、愛加のシルエットが窺える。まだ量感があるわけではなくも、確かに危うい年齢にはなってきた。
寝ているあいだに愛加をさらわれるより、ずっといい。そう、愛加は俺の生きる支えだ。あの子が自立するまで見守ってやることが、俺の生きがいだ。そのためなら何だってやる。きっと、日向も俺のその意思が男娼の糧になると見たのだろう。
俺も俺でドライヤーで髪を乾かしたりしていると、シャワーの音が止まって、がさがさと紙ぶくろをあさる音がした。妙な服だったら一回こいつ殴らなきゃな、と思っていたが、カーテンをめくって現れた愛加に、俺は目をみはった。
白い毛織の薄手のセーターにピンクのカーディガン、アンサンブルのピンクのスカートの裾には白いレースがついている。カーディガンも袖や裾に同じくレースがあしらわれていた。しっかり洗った肌も白く透き通り、全体的に淡く、儚げな印象を持たせた。愛加は靴下を履いて茶色のローファーも履き、そわそわしながら俺を見た。
「な、何か……私、こんなの似合──」
「似合うよっ。すっげえかわいい。何だよ、趣味いいじゃんおっさん」
「僕、まだ三十五なんだけどね」
「……え、二十代じゃないのか」
「僕は今、深く傷ついたよ」
「まあいいや。髪乾かそうぜ。やってやるよ」
「うん」と愛加は嬉しそうに咲って、洗面台の前に行く。俺はその後ろにまわり、慣れた手つきで愛加の長い髪を根気よく乾かしていった。
愛加の髪はいつもよりはるかに艶々と柔らかに仕上がって、俺は「かわいい」を連発しまくってしまう。しまいには「もういいよっ」と愛加にはたかれたが、それでも「かわいいなーっ」と愛加の頭を撫でる。
「兄バカだねー」と日向が相変わらずにこやかに言ったところで、奴のケータイが鳴った。
「はいこちら日向ー。──ああ、そう。──ゆっくり話せるとこがいいだろうね。──了解」
俺は日向を向き、俺の腕の中から愛加も日向を見る。日向はケータイを閉じると、こちらに屈託なくにっこりとした。
「来たみたいだよ。“会わせたい人”」
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