まちばり-5

喫茶店にて

 俺たちはここまで来た道を逆に抜けて、エレベーターホールまで行った。エレベーターを待つあいだ、俺と愛加は顔を合わせた。
 会わせたい人。世話をする人。どんな人だろ、といまひとつ想像がつかずにいると、エレベーターがやってきて俺たちは一階に到着した。
 一階はやっぱりポストと自販機しかなくて、闇が薄気味悪かった。念のため愛加は後ろにやって日向についていくと、ビルの出入口の壁にもたれる人影があった。「いたいた」と日向はつぶやき、その人影に手を振る。
弓弦ゆづるくーん」
 楽しそうに声をかけられた人影は、体重を脚に戻して振り返った。長めの前髪、その隙間に隠顕とする鋭く黒い瞳、無駄のない頬から顎の線──吸っていた煙草を弾くとスニーカーでにじり、煙たい息を吐いて肩を竦める。
「いい加減、くん付けやめてくれませんかね」
「そちらこそ敬語やめてくれませんかね」
「年上は敬うものです」
「僕こそ、天下の弓弦様を呼び捨てなど。あ、世話してほしいのこの子たちね」
 日向は俺の肩をたたき、弓弦とやらの視線がこちらに来る。その暗がりを縫う視線の鋭さに、俺も愛加もつい硬直する。
 すごい美青年だ。二十代半ばぐらいだろうか。華奢な日向と違って筋骨がしっかりしていて、かといってごつい印象はなく、さらりとシャツとジーンズを着こなしている。肩には黒いリュックを連れていた。
 モデルみたいだな、と視線をおろおろさせそうになると、弓弦とやらは噴き出して視線をやわらげた。
「そんなに怯えなくてもいいよ。この男が俺をどう紹介したか知らないけど」
「は、あ……」
「えー、僕はそんなやましいことはしないよ?」
「はいはい。じゃあ、とりあえず、この子ら借りますね」
「入れ込みはうちでやるから。住む部屋とか予約の流れとかよろしく」
「オッケーです。──じゃあ君たち、はぐれないように俺についておいで」
 弓弦は手招きして、光も音も騒がしい通りに混ざった。俺と愛加は手をつないで、慌ててそれを追いかける。日向を振り返ると、やっぱり奴は笑顔で、この弓弦という男を信用していいのかどうか、手がかりにはならなかった。
「この街、来たばっかり?」
 ごみごみとうるさい人混みの中でも、夜になると、ほのかに夜風を感じられるようになっている。その風に髪を揺らしながら、弓弦は穏やかな低音の声で問うてくる。
「え、あ……いや、長いです」
「今いくつ」
「十七。六歳で、この街に捨てられて」
「ふうん。その子は妹?」
「あ、はい。っていっても、血はつながってないです」
「義理とか」
「いや、何か……捨てられてるとこを、俺が拾って育てたんです」
 弓弦はこの街の太陽である摩天楼を仰いで、「すげーなあ」と笑う。そしてこちらを振り向き、愛加の頭に手を伸ばす。
「君はいくつ?」
「え、えと、九歳、です」
「そっか。よかったな、いい兄貴に出逢えて」
 愛加は睫毛をぱちぱちさせたあと、はにかんで咲うとこくんとした。弓弦はそんな愛加になごやかに微笑むと、俺に目をやった。
「君もすごいな」
「お、俺は、……ひとりじゃまともじゃいられなくて」
「俺もそうだよ。今年二十四なんだけど、十六、七のとき出逢った今つきあってる奴に逢うまで、おかしかった。昔は今ほど病気がどうこうもなくて、めちゃくちゃだったよ」
「めちゃくちゃ、ですか」
「はは、つまんない話だから省くけど。そういや、そんなにこの街長いなら、買われた経験とかも」
「ないです。全部、万引きとか引ったくりとか」
「そっか。えー、じゃあ、それが何で急にエステ? やってることホテヘルだけど」
「やるつもりはなかったんです。さっきの男に『やってみろ』って誘われて」
 弓弦は噴き出すと、「っとに、あの人はつかめねえなあ」と笑いをこらえる。
「日向さん、怪しいとは思わなかった?」
「……ちょっと」
「だよなー。俺も信頼するの時間かかった。何だろうな、あの人のノリは」
「信頼して、いいんですよね」
「いいと思うよ。根はまじめな人だから」
「まじめ……」
「どこがって思うだろうけどね、初めは。あー、でも、じゃあ淫売はやる気なし?」
「いや、まあ……俺、それくらいしかできないし」
「もし別の仕事がいいなら、紹介してあげるよ」
「えっ」
「そうする? それとも、何か言われれてる?」
「え、いや……。……あ、」
 そういえば、元はといえば、愛加を売り物にしようとされたところを、日向は助けてくれたのだ。いまさら淫売はやめておくとか言うと、愛加の身が危なくなる気がする。それに、あの店で淫売をやるから、部屋なども取りはからってもらえるのだ。
 かぼそく「淫売でいいです」と言うと、弓弦は何かあるのは察したようでも、何も言わずに俺と愛加を一軒の喫茶店に連れていった。
 自動ドアには、〈POOL〉と書かれていた。踏みこむ前に弓弦は腕時計を覗き、「二十二時か」とつぶやく。
「俺もいろいろとあるんで」
 言いながら、弓弦は自動ドアを抜ける。
「あんまり、ゆっくりできないけど。まあ、今日は住む部屋の希望聞いて、予約方法の説明だけしとくよ」
 弓弦は、慣れた様子で店内を進む。道端で育った俺たちは、喫茶店なんて入ったこともない。盗むものが陳列されていない店なんて用がない。まばゆいぐらいの照明にどぎまぎしながら、弓弦のあとに続き、カウンターに一番近いテーブルの席に落ち着いた。
 俺と愛加は店内を見まわした。床は木目調で壁は白く、わりと広い店内に、仕切りを駆使して席が並んでいる。入口に観葉植物、レジがあり、そのレジを通じてカウンターがあった。
 カウンターの中にいたしっとりした美人に、「もう帰りましたよね」と弓弦は首をねじって問う。
「十九時前に帰ったわ」
「あー、最近時間合わせてやってねえなー。何でこんないそがしいんだよ」
「弓弦は愛されてるのよ」
 どこか妖艶に咲うその美人は、口紅以外は化粧っけがなく、服装もざっくりしている。彼女は俺たちの席にやってきて、氷の浮かぶ水を持ってきてくれた。にっこりとされて、俺も一応咲ってみたら、引き攣ってしまった。
 何だか恥ずかしくてうつむき、水をがぶりと飲む。そしてその冷たさとおいしさにびっくりする。水ってこんなにうまいものだったのか、とか思っていると、「日向さんに紹介された子なんです」と弓弦は美人に俺たちを紹介する。
「そうなの。日向さんも、お見合いでもすればいいのに」
「ミキさんがいいんですよ」
「私は誰かとつきあったりしないわ」
 弓弦は去っていく美人に苦笑しながら、長い指でメニューを取って広げた。
「何か食べたいものある?」
「え、あー、金ないんで」
「おごるよ。ここけっこうメニュー多いんで、ゆっくり悩みなさい」
 いいのか、と思いつつ、隣で愛加が俺を見上げてくるので、まずは愛加にメニューを渡す。「ケーキとかもあるよ」と弓弦はくすくすと微笑ましそうに言って、「いいんですか」と愛加は頬を紅潮させる。
「もちろん。ケーキじゃなくても、お菓子けっこうあるよ」
「私、チョコレート食べてみたいです」
「チョコ。食べたことないの」
「ちょっとしか」
「そっか。じゃ、おにいさんがプレゼントをあげよう」
 弓弦は黒いリュックをあさり、新品の板チョコを取り出した。「はい」と弓弦にそれをさしだされ、愛加は目をしばたく。
「え、と……」
「徹夜のときとかのために持ってるんだ。疲れたら甘いもの」
「いいんですか」
「うん。俺はまた買えばいいから」
 愛加はそろそろと腕を伸ばして板チョコを受け取り、俺を見上げた。「もらった」という愛加に俺は笑い、「よかったな」と頭をぽんぽんとする。
「すみません、何か」
「いやいや。仲のいい兄妹って憧れなんだ。あ、そういや、名前聞いてないけど」
「あ、俺は希織……らしいです」
「らしい」
「俺、今まで名前ってなくて。さっきの奴につけてもらいました」
「名づけ親」
「……あいつなのが複雑ですけど」
 弓弦は笑いを噛み、俺は「で、この子は愛加です」とメニューを一生懸命見る愛加の頭に手を置く。
「マナカ、ね。その名前も日向さん?」
「いや、俺が。何か、まあ……いろいろこめてつけました」
「そっか。かわいい名前だ。さて、じゃあ──まずは、部屋の希望から訊いていこうか」

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