柔らかなシーツ
そんなわけで、弓弦は店までの通勤時間や間取りを、またリュックから出てきたノートとペンで走り書きして、該当しそうな部屋を見つけておくと約束してくれた。予約方法は、客が弓弦に電話を入れて、希望日時を聞き、それを弓弦が店に伝えるというかたちになった。
「直接店に予約とかじゃないんですね」
「予約なくても、店に来て店にいる子を選んだりもあるぜ。売れっこになったら、予約一本でやれるけどな」
話しているうちに、弓弦にはコーヒー、俺にはコーラ、愛加にはガトーショコラがやってきていた。
売れっこにはなれそうにないな、と内心つぶやき、俺はストローを噛む。そんな俺に、「不安?」と弓弦は心を透かし読んでくる。
「ん、まあ……、自分が男に受けるか分からない」
話しているうちに、弓弦にもタメ口になっていた。愛加はおとなしく、俺の隣でメニューの写真をめずらしそうに眺めている。
「そのへんは、日向さんが取りはからってくれるさ。まずは名前を憶えてもらうことだな。予約は待ってるだけじゃ入ってこない。店でなるべく待機しておけば、気に入ってくれる客にも出逢っていけるさ」
「はあ。技術とかも……。その、日向は『やっちゃって構わない』とか言ってたけど、やっぱあるのかな」
「エステとか言っといて、ほんとにエステやってる店のほうが少ないのは事実だな。ホテヘルなら、本強当たり前だし」
「ほんきょう……」
「本番強要」
俺は若干蒼ざめ、日向のにこにこ笑顔に一発入れたくなった。どうしよう。男と本番とか。そんなの俺にできるのか。
──なんて思っても、もう後戻りできないところまで話は進んでしまった。隣の愛加の細すぎる手首を見る。チョコレートも満足に食べさせてあげたことがなかった。もっとふくよかにしてやって、これからの季節、温かい部屋にもいさせてやりたい。
やはり、俺はやらなければならないのだ。
「じゃあ、そんな感じで」
「部屋はあさってまでには決めておく。決まったら店に顔出すよ。とりあえず、今夜はホテル用意してやる。もう道端では寝れないからな」
「えっ、あ──でも」
「大丈夫。俺が日向さんに請求して、日向さんが希織の給料から天引きする」
「……はあ」
「じゃあ、そのホテルまで送るよ。っと、ちょうど二十三時前だな。少し急ぐぜ」
俺と弓弦が席を立つと、愛加はガトーショコラの最後のひと口を口につめこんで続いた。「うまい?」と弓弦に訊かれて、愛加はうなずく。
「じゃあ、また兄貴にここ連れてきてもらいな」
そう弓弦は微笑み、こちらを見あげた愛加に、「連れてくるよ」と俺も咲ってそのさらさらの髪を撫でた。
そんなわけで、その夜は弓弦が案内したホテルに泊まることになった。「喘ぎ声が筒抜けじゃ愛加が可哀想だからな」という理由で、防音はしっかりしたところだった。が、ダブルベッドとユニットバスくらいしかない、シンプルなモーテルだ。
それでも、ベッドで寝るなんて初めての俺と愛加は、きょろきょろしてしまう。そんな俺たちに、このあともう一度日向を訪ねたほうがいいこと、そして外出方法を告げて、弓弦は去っていった。ベッドに横たわって「ふかふか」とはしゃぐ愛加に、「愛加は休んでおくか」と苦笑しながら俺はベッドに歩み寄る。
「え」
「何か、今日いろいろあって疲れただろ。元はといえば、愛加に万引きさせるだけだったのにな」
「あ……、万引き、できなかったね。そのせいだよね、全部。ごめんね」
「謝るなって。日向はよく分かんねえけど、弓弦のことは信頼してよさそうだし。俺、ちゃんとやるよ」
「ん……」
「愛加は何も気にすんな。で、俺、今から日向に会いにいくけど。来る?」
愛加は、困ったように首をかたむけた。俺は微笑し、「休んでるか」とその心をすくいとってやる。
「いいの?」
「働くのは俺だしな。いいよ、休んでて」
「ん、じゃあ……。早く帰ってきてね」
「分かった。部屋借りたってベッドなんかいきなり買えないし、今のうちに味わっとけ」
愛加は照れたように咲ってこくんとし、俺はその頭を撫でると、「なるべくさっさと戻るよ」と残して部屋をあとにした。
そのモーテルから店──〈SPRING〉までそんなに距離はなかったが、踊る光彩と飛び散る雑音、残暑とすれちがいざまの人間のにおいの中を歩いていくのは変な感じだった。俺はいつだって、路地裏しか歩いてこなかった。こんな通りに出たって、やることは引ったくりくらいで、すぐ路地裏に戻って金を数える。
それにしても、日向には服を買ってもらったし、弓弦にはモーテルを用意してもらったが、せめてそのぶんだけでもきちんと返せるのか──いまだ不安に思いつつも、俺は〈SPRING〉が入った一階が薄気味悪い雑居ビルに到着した。
「お、新入りくんおかえりー」
そういやあいつここにいるんだろうな、とふと思ったが、さいわい日向は〈SPRING〉にいた。例のリビングのような待機室で、のんきに男娼たちとゲームをやっている。
「何やってんだよ……」
「ん、『エバグリーン』の新作。『エバグリーン』知らない? すごいおもしろいよー。って、あれ、妹ちゃんは」
「ホテルで休んでる」
「ついにそういう関係に」
「ついにって、お前とは今日知り合ったんだろ。弓弦がもう道端では寝れないだろって用意してくれたんだ」
「して、そのホテル代は──」
「お前が俺の給料から引けばいいだろ」
「お、稼げる自信ついてきたんだね。えらーい」
日向はにっこりして拍手すると、「まあ、妹ちゃんいても所在なかったかな」とコントローラーを放って立ちあがった。そして、ポケットからケータイを取りだすと、何やら操作をしてこちらに向けてきた。
「……何だよ」
「『何だよ』ってガンつけないで、咲ってごらん」
「何でだよ」
「パネルの写真は写メなんだよー。もちろん光飛ばして数倍美しく撮りまーす」
男娼たちがにやにやと観察する中、咲えと言われて咲える俺じゃない。どうもかえって顰め面になっていると、「まったくー」と日向はケータイをおろした。
「じゃ、妹ちゃんといるところを盗撮するよ」
「……勝手にしろ」
「まさかのOK。あ、じゃあ次は──そう、君に男娼のいろはを教える子を決めたからねー。帰ってきたら紹介するよ。今いないよね、奏音」
「いなーい」と数人の男娼が返し、「ふむ」と日向は腕を組んだ。
「じゃあ、残るは……男を受け入れられるかだねー」
「……受け入れられるか」
「精神的にも、肉体的にも。精神的は分かるよね。肉体的っていうのは、まあぶっちゃけ痔とかー」
「痔、は、ないかと」
「どっちにしろ、テストは受けてもらいまーす。明日、弓弦と何か約束した?」
「え、別に。いや、部屋決まったら顔出すとは言ってた」
「じゃあ、もし来たらボーイが対応することにする。で、明日、男と一回やってもらうね。はい、じゃあ今日はおしまーい」
日向は再び拍手して、ぽかんとする俺を放って男娼たちとゲームを再開した。
俺はごくりと生唾を飲みこむ。男、と──。
何だかほうけたままモーテルに戻ると、愛加はすっかり熟睡していた。そっと髪を梳いてやると、今までになく指通りがなめらかだった。
愛加はただでさえ黒目がちの瞳が大きいのに、睫毛もカールしている。伏せられると、その長さがよく分かる。でもやっぱり、こけた頬や折れそうな腕、浮いた鎖骨で素直に「美少女」とは呼べない。
ずっと、この子のために生きてきた。愛加を育てることで、自分を保ってきた。男娼という仕事が正解か不正解かは分からないけど、やってみよう。愛加のためだ。俺の支えであるこの子を守ることなら、何でもやってやる。
そう心に決めて、俺も愛加とあいだを置いてベッドにもぐりこみ、初めて柔らかなシーツの中で寝た。
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