初めての仕事
ようやくぎらつく暑さがうすらいできたような十月に入った日、俺は〈SPRING〉の待機室で算数の勉強をしていた。
俺は勉強という勉強をしたことがない。「オプションとかのときのために、足し算とかかけ算ぐらいできないとね」と俺の教育係になった奏音という男娼に言われ、毎日座卓で数字の羅列と格闘している。
奏音はくせのある髪を耳にかけながら、俺が問題を解いているあいだは、ケータイをいじっている。
いちいち筆算しながら問題をとく俺は、奏音を盗み見る。茶髪のくせ毛、大きな瞳のせいか中性的な顔立ち、口元はおっとりした笑みが似合っている。でもけっこう軆つきは華奢というより、適度に筋肉もあってしなやかな感じだ。性格は快活で、別に俺に嫌がらせもしない。むしろ、よく面倒を見てくれている。これで、たった俺のひとつ年上でしかない。
「あのさ」
解けない問題を一分ぐらい見つめたあと、奏音に顔をあげる。「ん」と奏音は首をかたむけてくる。
「解けた?」
「いや、まだ。ちょっと質問」
「なあに」
「奏音くらいになると、予約とかいっぱいなんじゃないの。俺の相手とかしてて平気」
「あー。俺は自由出勤だから、予定とか組まないんだよね」
「それで稼ぎになるのか」
「なるよ。出勤してる日には、こうやってメール送ったりしてるし」
「はあ」と細い指でケータイをあやつる奏音を眺め、日向は俺には予約制としか言わなかったよな、と思う。どのみち、俺にはケータイがないけれど。そのへんを言うと、「希織は寮でしょ」と奏音はぱちんとケータイを閉じる。
「寮というか──まあ、部屋は用意してもらったかな」
「家を知られてると、すぐ連絡がつくからつかまりやすいんだよ。だから、あんまり自由じゃない。だからもう、予約制ってことにしたんじゃないかな」
「ふうん」とあんまりよく分からずに問題に向き直る。奏音は俺の手元を覗きこんできて、「ここ間違ってるよ」と指さしてくる。「え」と俺はその問題に目を戻し、こんなのも解けないとは、と恥ずかしくなる。
奏音は立膝に頬杖をついて、俺はちょっと躊躇ったあと、「何かごめん」とか言ってしまう。奏音は俺にまばたきをした。
「何か、こんな──日向に頼まれたからって」
奏音は俺を見つめると、微笑を浮かべて俺の頭をぽんぽんとした。
「俺は、希織のこと好きだよ」
「……はあ」
「きっと俺より才能がある。日向さんに見初められたんだからね。もっと自信持ちなよ」
俺は奏音に上目遣いをすると、「うん」と間違った問題に改めて挑戦した。
ズブの素人からこの〈SPRING〉に招き入れられた俺は、こういう場所の洗礼か、嫌がらせもけっこう受けている。あんまり気にせず、親しくしてくる奴もいる。もちろんスルーの奴もいる。「嫌がらせはそのうちなくなるから」と奏音には言われている。
「希織は綺麗だからね。嫉妬だよ」
「嫉妬……ですか」
「回数重ねて実力さえつければ、誰も文句言わなくなるよ」
そんなもんなのか、と思って、今までが今までだっただけに、そんなに嫌がらせにはこたえていない。俺は三日間何も食えなかったときもあるし、寝てるあいだに虫にたかられたこともあるし、引ったくりに失敗してぶん殴られたこともある。
「そういえば、希織って今日からサイトに載るんだっけ」
間違いと言われた問題が解けずにいらいらしていると、奏音は空を眺めてつぶやく。
「え、ああ。また写メ撮られた」
「はは。じゃあ、今日が本格デビューかな。きっと指名来るよ」
「そうかな」
「うん。ま、気楽にやってきたら。一応試験も通ったんでしょ」
「……まあな」
掘られた試験はあんまり思い出したくない。
まさか日向にやられるのか、と蒼ざめていたら、さいわいそれはなかった。が、奴は壁にもたれて相変わらずにこにこしながら、連れてきたあんまり堅気っぽくない男に掘られる俺を観察していた。下腹部を圧迫する初めての痛みに唇を噛んでいると、「喘ぎ声オッケーだよー」とか言われて、睨みつけてしまった。それでも、何とか試験はクリアして、写メも撮られて、マニュアルもたたきこまれて──最後に今日、〈SPRING〉のサイトに『新人の希織が入りました』と発表された。
奏音も言う通り、俺も今日が初日の心構えでやってきた。出勤前、愛加は心配そうに俺を見つめていた。
ちなみに、俺と愛加はおとといから弓弦があてがってくれたアパートの一室で生活を始めている。それまではモーテルだった。ボロアパートを想像していた俺は、ボロじゃない代わりに狭いが、わりあい綺麗な部屋に驚いた。
簡易キッチンやユニットバスもついて、リビングになる部屋もフローリングで、ただ前述どおり狭い。しかし、路地裏で暮らしてきた俺たちには、狭さなんて何てことはない。とりあえずふとんなのかなあ、とか思いながら、フローリングに直に寝転がっている。
ほかの男娼がゲームをしたり、漫画を読んだり、何か食べたりくつろぐ中で、俺はやっと解けた問題に奏音に丸をもらう。じゃあ問題の続きを、と取りかかろうとしたときだ。
黒服のボーイが、店内につながるほうのドアから顔を出した。
「希織。ご指名」
俺は顔を上げて、「え」とか言ってしまう。完全にほうけた返事に、ちょっと失笑がささめいた。奏音も例にもれなかったが、とん、と優しく肩をたたいてくれる。
「大丈夫だよ。深く考えずにやればいいから」
奏音を見て、その微笑に「うん」と小さく答えると、シャーペンを座卓に置いて立ち上がった。何となく静まり返る中、ひとつ小さく息をつくと、よし、と腹をくくってボーイのほうへ歩いていった。
「こちらでよろしいですか?」
そのドアを抜けると、照明がぐっと落ちて、カウンターの中だった。右手に雑然とした待合室があり、何人かの男がファイルをめくっている。あれに写真とか載ってるわけか、と思っていると、ボーイがカウンター越しに“客”に俺をさしだした。
三十代後半ぐらいの男だった。軆はあまり引き締まっておらず、セットされた髪も後退しつつある。でも顔立ちはそんなに崩れていなくて、昔はゲイバーでも行けばナンパしてもらえただろう。
俺が何とか笑みを作ると、彼は意外と柔らかに微笑み返した。
「ああ。この子だ」
「あまり経験がありませんが、よろしいでしょうか」
あまりっていうかぜんぜんなんだけど、と内心つぶやく。
「かまわないよ。じゃあ──」
男が支払いをしているあいだ、俺は別のボーイにエスコートされて、カウンターから出た。そして、男のかたわらに連れていかれる。こちらを一瞥した男はまた微笑み、俺は生唾を飲みこんでから咲った。
この男に今からやられるわけか、と陰鬱なため息をこらえる。自分が男を受け入れられる男なのは分かったけど、かといって男の喜ばせ方までは分からない。適当に喘いでおけばいいのか。でもあの下腹部の重みを思い出すと、普通に痛いんだよ、と舌打ちしたくなる。
「じゃあ、行こうか」
肩を抱き寄せられてはっとして、慌てて男と並んで歩き出す。ぎこちなくなりそうなのを何とかなめらかにして、えーと、とマニュアルを思い出そうとする。でも、頭が真っ白だ。
「今まで、あの店にはいなかったね?」
エレベーターでビルを出て、ネオンとざわめきが交差する雑踏に混じると、男はそう俺を見た。肩抱かれてると暑い、とか思っていた俺ははたと顔をあげる。
「うん──いや、はい。いなかったですね」
「別の店から乗り換えたのかい?」
「え、あー、いや」
「ああいう店で働いたことは」
「ない、ですね」
「じゃあもしかして、僕が初めての客?」
初めては試験なわけだが、あれは数に入らないだろうと、俺は気まずくうなずいた。すると、「そうか」と男は満面の笑みを浮かべた。
「嬉しいよ、僕が初めての相手なんて。僕は笹本っていうんだ。憶えておいてくれるかい」
「あ、はい、笹本さん、ですね」
一度目で客の名前なんか憶えてられるか、と心で吐き捨てていると、「よし」と笹本は俺の顔に顔を近づけた。ちょっと息が臭い。
「じゃあ、まずはお祝いをしよう」
「お、お祝い?」
「何か食べたいものはある?」
「は?」
「君はちょっと肉づきがたりないから、焼肉でも食べにいこうか」
「え、いや、俺、金がないっていうか──」
「はは、もちろん僕がはらうさ。まずはおいしいものを食べよう。いやあ、僕が初めてなんて、本当に嬉しいよ」
そんなもんなのか、とぽかんとしつつ、焼肉、と反芻した。もちろん食べたことなんてない。愛加にも食べさせてあげたい、とやはり俺がまず思うのはそれだけど、仕方がない。
人混みを抜けて飲食店が集まっている通りに出ると、笹本は大理石が高級そうな一軒に踏みこみ、掘りごたつのボックスに俺を招いた。
「何か、焼肉とか初めて」
笹本の厚意にちょっと緊張がやわらいでくると、網の下の火を調節するスタッフを横目に、俺はそうつぶやいた。あんまり自分のことは話すな。そういえばマニュアルにあったけど、まあ、焼肉食ったことないぐらいいいだろう。
「初めて?」
「うん」
「ふふ、今日は初めてがたくさんだね」
網が少しずつ熱されて、ゆらゆらと空気ににじむように熱気が立ちのぼってくる。頼んだ肉がやってくると、笹本は慣れた手つきで肉を並べ、すると一気に香ばしい煙と音が舞いがってきた。網の熱気に汗ばんできても、どうしても、ごく、と唾を飲みこんでしまう。
しかし、この仕事にはこんなのもあるのか。モーテルに行って、やることやって、金をもらったらおしまいだと思っていた。そんなに悪い仕事じゃないのかも、と俺は生まれて初めて、蕩けそうな肉を箸ですくいあげた。息を吹きかけてから、そろそろと口に運び、頬張ってみる。
「おいしいかい」
笹本は笑いをこらえながら言って、口の中に広がった未知の美味に、俺は何度もうなずいた。
何だこれ。盗んだ金で買った、コンビニの焼肉弁当とはぜんぜんちがう。これ肉なのか。肉って噛みちぎるもんじゃないのか。とろとろに柔らかくて、旨味が口の中に鮮やかに広がる。
「や、焼肉ってこんなうまかったんだ」
「たくさん食べていいよ。これから好きなものを頼みなさい」
笹本はメニューをさしだし、受け取った俺は、カルビとかホルモンとか、耳にするだけだったものがずらりと並んでいるそれに感動すら覚える。「すげえ」とかつぶやく俺を、笹本はにこやかに見ていた。
仕事中というのも忘れ、三日ぶりにパンを愛加と半分にしてを食ったときぐらい、がつがつと肉を食っていると、ふと笹本が時計を気にしはじめているのに気づいた。俺は口の中のものを飲みこむと、「何かあんの」ともう完全にタメ口で訊いてみる。
「うーん、そうだね。君へのご馳走はこれくらいにしておこうか」
「え、あー、ごめん。食いすぎちゃって」
「いいんだよ。じゃあ、今度は──」
笹本は手を伸ばして、俺の髪のあいだに指を忍ばせてきた。
「僕が君をいただこうか」
「は……?」
「大丈夫だよ、優しくしてあげるから」
笹本に頬をさすられ、箸を取り落としそうになった。その手つきには、確かに性的なにおいがした。
これで終わりじゃない──よな、とのんきになっていた自分を初めて自覚する。笹本は掘りごたつから出ると、革靴を履いて俺に手をさしだした。俺はそのぶあつい手を見つめ、しばし躊躇ったものの、握り返して立ち上がった。
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