べたつく嫌悪
モーテルまでの道のり、正直気が重くて、食ったものは全部吐きそうだったけど、一抹の理性で笹本には若干引き攣った笑みをしていた。笹本はそれを初めての緊張と取ったらしく、穏やかに微笑んできた。俺の腰に手をまわし、「そんなに怖がらなくていいんだよ」と甘やかすような声で耳元にささやく。別に、怖くはないけど──ただ、喉元がもやもやする。
モーテルに休息でチェックインすると、いよいよめまいがしてきた。パネルで選んだ四階の部屋の鍵を手に入れると、俺と笹本はエレベーターでふたりきりになった。
ほんとにこれでいいのか俺、と自問していると、突然笹本の腕が伸びてきて、俺を抱きしめてきた。
「えっ、あ、あの──」
「やっぱり、もう少しふっくらしたほうがいいね。こんなに細いなんて」
「あ、ああ──これから食べていくんで。というか、」
「でも、いい匂いだ……。きっと、君はあの店で売れっこになる。そうなっても、僕が初めてだったことを、忘れないでいてくれるかい?」
とりあえずうなずいていると、笹本の生温い唇がうなじに触れて、思わず押し返そうとしてしまう。でもその衝動を必死にこらえて、視覚をさえぎって目をつぶった。
何で、おっさんってこんなに臭いのだろう。嫌だ嫌だ嫌だ──そればかり頭は連呼して、もう、笹本が何を甘ったるくささやいているのかは聞こえなかった。
エレベーターが四階に着くと、ひとまず笹本は俺を解放した。死ぬかと思った、と嫌悪感の名残に息をついていると、部屋に招きいれられる。
気重に笹本についていくと、橙々の照明の元、ダブルベッドや冷蔵庫、テレビなんかがあった。右手の扉は、バスルームに続いているようだ。奥はバルコニーになっていて、たぶん、いい値段の部屋だ。さっさとやることやって別れたい俺としては、雰囲気なんてどうでもいいのだけど。ひとまずベッドに腰かけようとしたら、その前に笹本が俺を抱きしめてきた。
う、と硬直してしまうと、笹本は俺を覗きこんで、ひたいに口づけてきた。それから、まぶた、頬、唇──舌を練りこまれて頭は真っ暗になり、応えなきゃとは思っても軆が言うことを聞かない。
笹本は顔を離すと、「一緒にシャワーを浴びよう」と頭を撫でてきた。
「え、あ──ひ、ひとりで入れるよ」
「一緒に入りたいんだ」
「あ、そ、そう……です、か」
「嫌かい?」
「えっ、い、いや、別に」
「ふふ。たとえシャワーは別でも、君の軆は、もうベッドでじっくり見ることになってるんだよ?」
焼肉をおごってきたときより、何かエロい口調で笹本は俺の頬に手を添える。その手は湿っぽくて熱い。俺は何とも言えない上目遣いをして、笹本と目を合わせると、観念して睫毛を少し伏せた。
「じゃあ、シャワー……」
そこまで言うと笹本は軆も離し、「いい子だ」と俺の髪を梳いてバスルームに向かった。
白で統一されたバスルームは、異様に広かった。なぜ、と思ったが、よく考えたらふたりで泊まるモーテルなのだから、ふたりで入ってくださいということなのか。
服を脱ぎはじめる笹本に、俺ものろのろと服に手をかける。そして全裸になると、手を引かれてタイルのバスルームに踏みこんだ。
俺は笹本の引き締まらない軆を盗み見た。今から、この軆にご奉仕するわけか。別に、笹本の体型に文句はない。ただ、やっぱり、ちょっと勃起しかけているそれを口にふくむとか、命じられれば足にも口づけるとか、尻に侵入されるとかへの抵抗が完全にぬぐいきれていない。慣れていけるもんなのかな、と汗をざっと流すと、俺と笹本は、バスローブを羽織ってベッドに移動した。
笹本は俺をベッドに優しく押し倒し、腰の結び目をほどいてバスローブを広げた。俺の裸体を愛おしそうに眺め、さっそく唇を這わせてくる。俺も何かしなきゃいけないのかなあ、と思っても、笹本はまだ俺の軆を味わうのに夢中だ。感じている声でも出しておこうかと思ったとき、笹本の手が俺の性器を捕らえた。
「っ……」
さすがにうめきがもれてしまう。そんなところ、俺は人に触られたことがない。常に愛加が一緒だったから、自慰もしたことがない。こんなおっさんに、と思っても、どうしてもぞくぞくと襲ってくる快感を否定できない。
「もしかして──」
ちょっと涙目になりながら、俺をしごく笹本を見ると、奴は変態的な笑みを浮かべてきた。
「女の子とも、経験ないの?」
ない。が、言い返すために声を発したら、こいつを挑発する荒い息遣いが混じってしまいそうだ。ただ目をそらすと、「そうか」と笹本は嬉しそうに俺の先走りを指ですくった。
「じゃあ、今日僕が君を全部もらってあげるよ」
笹本は俺を口にふくみ、その濡れた感触にひくついた呼吸がもれる。俺は手を口に添え、声が出ないように指を噛んだ。
何で。何で俺はこんなので気持ちよくなっているのだろう。バカみたいだ。情けない。俺はどうしてこんなことを──
笹本とは、ひととおりの交わりを何とかこなすことができた。笹本はチップとして二万円をよこしてきた。腰をだるく感じながら、これって一応店に申告すんのか、とよく分からなくて奏音あたりに訊いておくことにする。
別れ際、「がんばってね」と笹本はさっきまでのねとねとした印象と打って変わって、さっぱりと咲った。
「僕のこと、忘れないでね」
嫌でも忘れられねえよ、と心中毒づきながらも、俺はただ咲っていた。
何だろう。何だか、無感覚だ。息を吹き返したい。店に戻る気がしなかった。俺は知らないうちに、愛加の待つアパートを目指して歩き出し、早足になり、駆け出していた。
きらびやかな街並みに飛び散る人混みを、よけたりぶつかったりしながら縫っていき、アパートの群衆にたどりつく。このへんはわりと暗くて、でも怒鳴り声だの泣き声だの騒々しい。俺はたった数時間ぶりの部屋のドアにすがりつくと、鍵を取り出してドアを開けた。
まっすぐの廊下があって、左右にユニットバスへのドアや簡易キッチンがある。愛加はその奥のリビングで、ヒマつぶしに買ってやった本を読んでいた。俺が立てた物音にびくりとした様子で振り返り、「おにいちゃん」と聴きなじんだ幼い声と駆け寄ってくる。
「ど、どうしたの」
「愛加……」
「何かあったの」
「……愛加、俺──」
愛加の無垢な瞳を受けると、俺は玉葱でも染みたみたいに涙がこみあげてきて、その場にしゃがみこんでしまった。愛加も同じ目線になり、心配と不安を綯い混ぜて俺を窺う。
「愛加……」
「う、うん」
「愛加は、ずっと俺のそばにいてくれる?」
「えっ。あ、うん。当たり前だよ」
「俺が必要なくなるときなんか来ない?」
「来ないよ」
「ほんとに」
「私のこと分かってくれるの、おにいちゃんだけだもん」
俺は腕に愛加を抱き寄せた。そうだ。俺にはこの子がいるのだ。この子を養っていく。育てていく。支えていく。だから、俺の感情なんか唾みたいに吐き捨てていい。愛加のためなら、俺は何だってやると誓った。
しばらく、玄関先で俺たちは抱きあっていた。冬の日に路地裏でそうしていたように。愛加の体温が心臓に流れこんでくる。俺は、ゆっくり愛加と軆を離した。
「……ごめん、いったん店戻らないと」
「えっ。だ、大丈夫」
「うん。愛加の顔見たら落ち着いた」
俺はようやく心から咲って、愛加の長い髪を撫でた。愛加は俺を見つめたあと、こくんとして体勢を正す。
「じゃあ、行ってくる」
「うん」
「少なくとも今日は金入るからさ、いろいろ買っていこうな」
「うん」
「愛加に苦労はさせないから」
「無理しないでね」
「大丈夫。愛加がいるなら、大丈夫だよ」
愛加はつらそうな瞳をしたものの、小さくうなずいた。俺はその場を立ち上がり、愛加も立ち上がる。「じゃあ」というと愛加はもう一度うなずく。
「朝には帰ってくる。眠くなったら寝ろよ」
愛加は答えの代わりに微笑んで、俺はその頭ぽんぽんとすると、だいぶ靄が排出された胸をかかえて部屋を出た。とりあえず、この二万円はそのまま受け取っていいのか、店の取りぶんになるかだ。二万円も入ったら、いろいろ買える。それがなかったとしても、今日は稼げたのだ。
愛加のために、がんばろう。あの拒絶感も、やっていくうちに処理できるようになるだろう。ならなければならない。あの子のためなら、俺はやれる。大丈夫だ。
「よし」とつぶやいて涙の痕をぬぐうと、俺は〈SPRING〉に向かって足を進めはじめた。
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