笑顔が咲く
俺が〈SPRING〉で本格的に男娼を始めて、一週間が経った。
愛加のため。それを支えに、男と肌を重ねるのを潔癖症を治すように軆になじませていった。早くも予約もいくつか取っている。
事が終わってシャワーを浴び、鏡の中に自分を見ると、ちゃんとした食事や生活で、白黒写真がカラー写真になったように、艶や色合いを帯びてきている。
ぼさぼさで、たまに適当に切っていた髪は、日向の命令できちんと美容室で整えてもらった。服もなるべくホモ向けに、ぴったりしたものを選ぶ。煙草も酒もやらずに来たから、よく客には声がなめらかだと言われる。この声に喘がれるのがいいらしい。そのまっさらな声に合わせ、香水とかはつけず、石鹸の匂いを心がけている。季節の変わり目で、夜の思いがけない寒さに体調も崩さないようにしていた。
「希織も看板の仲間入りするんだろうね」
俺と一緒にネットサーフをやりながら、奏音はこちらをちらっとして含み咲う。
「俺は最低限の収入があればいいんだけど」
「服とかブランドにしたら」
「ホストじゃん」
「似たようなもんでしょ」
奏音はマウスを動かしてクリックし、さっきから異常犯罪のサイトをめぐっている。俺はPCとかよく分からないし、隣から覗いているだけだ。この〈SPRING〉で一番親しい仲となった奏音は、こういう系統のサイトや本をよく見ている。「そういうの好きなの?」と何気なく訊くと、「共感するかな」と奏音は答えた。
「え、加害者に」
「どっちにも」
「どっち、にも」
「あ、希織、この事件知ってる? 男が殺した女の子とそのままずっと生活してたって」
「知らない」
「十年くらい前の事件だね。これ確か、発見されたとき、腐った女の子とその男、添い寝してたんだよね。で、逮捕されたら留置所で首吊り自殺」
「……狂ってるな」
「そう? 俺は何だか愛を感じちゃうけど」
奏音を見ると、瞳と笑みがちょっと発狂している気がした。俺はそばのペットボトルの烏龍茶を飲みこんで沈黙を作ったあと、「奏音はさ」と前々から気になっていることを訊いてみる。
「この仕事、どのぐらいやってんの」
「ん? 十五からだよ」
「その前は」
「養ってもらってたね、親に」
「親……は、知ってんの、この仕事」
「さあ。俺、高校行きたくなくて家出したから」
「高校」
「俺ってルックスが女々しいから、小学校も中学校もさんざんイジメられたんだ。だから、学校なんかもう行きたくないのに、親はそれを分かってくれないから全部捨てた」
訊いたくせに何と返せばいいのか困っていると、奏音はそんな俺を見て噴き出した。くせ毛が一緒に揺れる。
「俺には、希織の生い立ちのほうが強烈なんだけどなあ」
「お、俺は、別に、この街じゃ普通だよ」
「この街でだろ? 外だったらとんでもないよ」
「そうなのかな。分かんないや。外とか記憶にないし」
「いいよ、知らなくて。外に出たら穢れる」
「穢れる」
「頭悪い奴ばっかだよ、ほんと」
奏音は毒を飛ばすように嗤って、いつも思うけど、こいつはいろんな笑い方をするなあと感じる。
「で、希織のほうはどうなの」
「俺」
「例の女の子」
「ああ、愛加は部屋でゆっくりしてるよ。こないだふとん買ったんで、それをかなり喜んでる」
「ふうん。そろそろやった?」
「は?」
「いや、セックス」
烏龍茶を飲もうとしていた俺は咳きこんだ。奏音はにやにやと、また色の違う笑みを浮かべる。
「するわけないだろっ」
「何で?」
「何でって、そんな、妹にそんなになれるか」
「希織ってストレートだよね」
「男に発情しないからたぶんな」
「ロリコンじゃないってことかな……」
「いや、だから、」
「胸とかふくらんできたら抑えられる?」
「抑えるも何も、湧いてくるものねえよ」
「そんなもん?」
「奏音は女とはどうなんだよ」
「俺は顔がそのへんの女より女らしいから、男と見てくれればいいや」
俺はため息をついて、「愛加はほんとにそういう対象にならない」と改めて言っておいた。
「彼女のほうは」
「同じだと思う。兄貴にそんな気分になれるかよ」
「世の中にはブラコンというものが、」
「愛加はない」
「そうかなあ」
「愛加はちゃんと、自分の足で立ちたいっていつも思ってる子だよ。俺に依存したりしない。もともと、愛加が自分も盗みできるようになりたいってので、日向とも知り合ったんだしな」
「つまんないね」
「いいんだよ、つまんなくて」
「俺はやっぱり、こういう異常愛に惹かれるなあ」
奏音はリンクをクリックして、母親を犯して父親を殺した少年を紹介するページに飛ぶ。「この少年Kって、この街に逃げこんだんだよね」と楽しそうな奏音に息をつき、俺は冷たさの抜けてきた烏龍茶を飲む。
俺たちがそんな話をする周りにも、いろんな少年たちが待機している。テレビを観たり、ゲームをしたり、ケータイをいじったり、漫画を読んだり、数人で閑談したり──そんな少年たちの中には、奏音の話によると、あの弓弦が連れてきた少年もいるという。「あの子とか」と指さされた少年は、日本人ではない場合もある。片言ながら、日本語は会得しているようだが。弓弦に連れてこられた少年じゃなくても、彼が顔を出すと、みんな楽しそうに遊んでもらいたがる。
どうでもいいかもしれないが、弓弦の恋人が男だと知ったときには仰天した。ぜんぜんそんな匂いはしなかった。大切な人がいるらしいことは初めて会った日にも言っていたが、まさかそれが同性の恋人だったなんて。
その恋人はタウン誌のライターのバイトをしつつ、主にペーパーを制作して発行しているそうだ。そのペーパーは〔こもりうた〕といって、読者のいろんな体験談を淡々とした印象の文章で綴っている。ヘビーな体験談が多くて、「ついていけねえ」とつぶやくと、「君もじゅうぶんヘビーだから」と弓弦に突っこまれた。
「おっ、弓弦くんが来てるねー」
ちょうどそのとき、日向にも鉢合わせた。こいつは一応ここのオーナーのはずだが、あんまりここにいることはない。気紛れにふらっと現れ、金だけチェックすると、またふらふらしにいく。
「あ、そういえば」
初めての客にもらった二万円のことをまだ誰にも訊いていなかった俺は、そのときついでに日向に訊いてみた。すると、日向は長い前髪の奥でにこにこして、「うーん、いいこいいこ」と俺の頭を撫でてきた。小バカにされたのは分かっていらっとすると、「何だよっ」とその手をはらう。
「そんなの、黙ってふところにおさめておけばいいのにー」
「………、じゃあ次からはそうする」
「そうだねー。まあ、僕にまわってくる金はカウンターでもらってるから、それは希織のものでいいと思うよー」
「……あとで、不正とか言わないだろうな」
「もらえるか分かんないチップにまで口出さないよー」
というわけで、俺はそういう二万円やら料金の取りぶんやらで、ふとんや冷蔵庫を順調に揃えていくことができた。鍋や包丁も買うことができて、愛加は家事を担うようになっていった。
愛加のぶんの金もきちんと渡し、その中から愛加はまずレシピ本を買い、近所の二十四時間スーパーで買い物にも行くようになった。愛加ひとりで夜道を歩かせるのは不安だったが、愛加は「おにいちゃんががんばってるみたいに私もがんばる」と譲らなかった。
「ただいま、愛加」
奏音が予約で出ていったのとほぼ同時に、俺にも指名が入った。奏音以外の少年とは打ち解けきっていない俺は、ほっとしながらその客の元に向かった。
その仕事が終わって〈SPRING〉に戻ると、また待機だ。結果的に今夜は三人の客を取り、「腰痛てえ」とかつぶやきながら、冷えこんだ明けがた近くに愛加の待つ部屋に帰ってきた。
「おかえり、おにいちゃん」
愛加はちょうど台所に立って、何やらふんわりとおいしそうな匂いを作っていた。俺は捨てるみたいにスニーカーを脱ぐと、「何作ってんの」と歩み寄る。
「シチューだよ」
「すっげ、俺初めて食べるかも」
「私も食べたことないから、味自信ないけど。でも、ルーで作ってるし、大丈夫だと思う」
「そっか。まあ、あったまりそうでいいじゃん」
愛加はこくんとして、鍋をゆったりかきまぜる作業に戻った。
俺は背伸びをしながら狭いリビングに行く。俺と愛加のふとんを敷いたら、もうフローリングは見えなくなるぐらい狭い。それでも、路地裏にひそんでいた俺たちにはじゅうぶんな部屋だ。
まだ気候は気にならないけれど、しばらくしたらストーブを買ったほうがいいだろう。隅にたたんでいたふとんを引っ張り出し、愛加の場所は残してそれを敷くと、「あー」とか不明瞭に声を垂らしながらうつぶせになった。
セックスってやっぱ運動なんだな、とため息がもれる。疲れるというか、体力を消耗するというか。下腹部がじっとり重い。
早くもこれまで何人客を取ったか忘れたが、その中には、あの初めての客のように飯を食わせてくれる奴もいた。それでもやっぱり、やることはやらなくてはならない。けれど、嫌悪感の喉を切り、“演じる”ことができるようにはなってきた。
女との経験がなくて、かえってよかったのかもしれない。責める快感を知っていたら、屈辱感がぬぐえなかった気がする。今でも、オプションで学ランのコスプレとかさせられると、何やってんだ俺、と思わなくもない。でも──
俺は愛加をちらりとして、楽しそうに料理をしているすがたに、つい微笑んでしまう。
奏音の話がよみがえる。愛加を女として見ることはないのか。ないよなあ、と思い返しても即答する。だって、赤ん坊の頃から面倒を見てきたのだ。もっと幼かった頃は、愛加のはだかなんて普通に見ていた。おむつだって変えてやってた相手に、どうときめけばいいのか。
俺は仰向けになると、頭の後ろで手を組んで、白い天井と見合った。白い電気が虹彩に焼きつく。
「なあ愛加」
「うん?」
「愛加は、男に理想とかあんの」
「えっ」
俺の唐突な質問に、愛加はとっさに返答につまる。しばらく沈黙が流れ、俺はこらえきれずに笑い出してしまう。
「なっ、何で笑うのっ」
「いや、愛加には早い質問だったかなー、と」
「そんなことないよっ。んっと……まあ、おにいちゃんみたいな人はやめておく」
「ほう」
「おにいちゃんは、私を守ってくれるけど、守らせてくれない」
「そうかー?」
「そうだよ。今の仕事だって……ほんとは嫌なんでしょ」
今度は俺が言葉に詰まり、何となくごろんと軆を横に向けてしまう。
「愛加は、路地裏のほうがよかった?」
「そんなことはないけど。おにいちゃんが無理するのは嫌なだけ。そういう仕事を、おにいちゃんが楽しんでるならいいけど」
「淫売を楽しむっているのかな」
「それは分かんないけど。おにいちゃん、仕事に出かけるときはいつもつらそうなんだもん」
「慣れてきたつもりだけどなあ」
「嫌なら嫌で、絶対嘘つかないでね。そうなったって、私はおにいちゃんの味方だよ」
俺は空に向かって笑むと、「うん」と柔らかい声で答えた。
シチューのいい匂いがただよってきている。十月になって急に冷えこむようになったが、その匂いは温かい。
俺はただ、愛加には自分のようになってほしくないのだ。きちんとした男と結ばれて、穏やかな家庭を持って、そのシチューのように温かな料理を振るまう幸せをつかんでほしい。俺は、俺の夢であるその愛加の未来のための、“つなぎ”でいられればいい。そのためなら、何でもしたい。
「愛加」
「うん」
「俺は平気だから」
「………、」
「いつか、愛加の彼氏と酒でも飲ませてくれよ。あー、俺、酒飲めないな。まあ、烏龍茶で」
愛加はやっと咲って、「そんなこと言って、反対しないでね」と焜炉の火を止める。
「そっちこそ、反対されるかもとかで隠すなよ」
「んー、分かんない」
「何だよ。信用ないな」
「おにいちゃんに反対されたら、自分の気持ちが分かんなくなりそうだもん」
「じゃあ、俺に紹介できる男に出逢うまで、ゆっくりたくさん恋愛してください」
愛加は咲ってうなずくと、水切りに並べっぱなしだった茶碗にシチューをよそいはじめる。
「おにいちゃんは、彼女作らないの?」
「俺はなあ。そんな女、できそう?」
「私がいる限り無理なような」
「はは。じゃ、そのためにも愛加には早く恋を知ってもらわないとな」
「がんばります」と愛加はくすくす笑い、俺はその頭を軽く小突いてやりたくなる。
やっぱり、日向についていってよかったとは思う。路地裏にいた頃より、愛加は精神が安定している感がある。いつも俺の後ろで怯えていたのに、今ではあんなに笑顔が増えた。
淫売という仕事にうんざりするときがあるのも確かだ。けれど、愛加のためなら多少の不快感は耐えられる。何だかんだ言って、俺も奏音と過ごしたりするのを楽しんでいる。
「シチューできたよ」という愛加の声に身を起こし、ひとまず俺は、その熱で疲れた軆を癒すことにした。
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