うたたね-11

告白

「仕事がしたい」と申し出たときは、さすがの弓弦も面食らっていた。まだ俺はふらつくのを続けると思っていたのだろう。俺もそう思っていた。
「働かなきゃいけなくなったんだ」と俺は弓弦に言った。弓弦は俺を眺め、本気なのを悟ると親身になってくれた。
 弓弦の名前に甘えさせてもらって、部屋を提供してもらった。「ボロアパートでいい」と言ったら、本当にそうだった。適当な名義と保証人をでっちあげたのだそうだ。「ばれてるだろうけどな」と弓弦は言っていた。固めて演技するのもつらいだろうと推したのだそうだ。
 そんな部屋を取ったのは、もちろん水香を休ませておくためだ。市販の妊娠検査でも、水香の反応は陽性だった。
「子供のこと、弓弦くんに言った?」
 絞られた腰に床に伏せっていた俺は、水香の質問に首を振った。水香はそばに座りこんで、俺の柔らかい髪をいじっている。
「言ったら」
「訊いてこないし」
「言いたくないの」
「いや──。お前はいいのか」
「あたしはどっちだって。あんたは隠してんのきついでしょ」
「………、まあな」
「正直」と水香は笑う。俺はたたみを這って水香の膝に近寄った。
 強い朝陽がうなじに射しこんでいる。梅雨が明けた太陽は、いっぱいに空を制圧している。
「『ふざけんな』って言われそうで」
「そう?」
「あいつ、あれで古風なとこあるし」
 目を細めて水香の腹に触る。「何」と水香はくすぐったがる。
「俺の子供なんだよな」
「疑ってんの」
「いや。実感がなくて」
「それはあたしもだよ」
 俺はたたみに頬を当て、「ちゃんと育てられるかな」とつぶやいた。水香は俺の頭を撫で、「大丈夫だよ」と言う。
「あんたは、この子に復讐しようとする人間にはなってないよ」
「……うん」
「まあ、もし殴ろうとしたら、あたしが先にあんたを引っぱたく」
 俺は笑った。水香ならやりそうだ。
 引いた右手を左手で包んだ。触れていた彼女の肌の向こうに、俺の命を受けて発生した命がある。不思議だ。こう直面すると、やっぱり子供ができるのには神秘を感じる。
 疎む気持ちはなかった。あるのは、弓弦への気持ちや水香への気持ちとはまた違う、縹渺としたものだ。俺は水香に引っぱたかれずに済むだろう。すでにこの子を愛している。
 自分の一部ともできるその子を想っていると、何でだろうと思ってしまう。何であの両親は、俺に対してこんな気持ちになれなかったのだろう。両親は俺を憎んでいた。たぶん生まれる前も憎んでいた。
 あのふたりが俺を作った理由が分からない。暴力を振るい、傷つけるために作ったのか。そのために堕ろさなかったのか。今でこそ生まれたことを感謝しているけれど、あんな人間が親だったのはいまだに理不尽だ。
 あそこは家庭じゃなかった。憎み合ういくつかの人間が、ひとつの空間に押しこめられていただけだった。あの場所に家族なんていなかった。だから誰も誰かを愛せなかった。
 あんな凍え死にしそうな地獄に還るのはまっぴらだ。自分の子供にあんな悪夢は見せたくない。水香を愛しているし、子供にも愛情がある。それで包んでやれば、子供は満ちたりた命の中で育てるだろう。
 あの両親のようにはなったりしない。なったり、できない。
 俺が微睡んできたのを見取ると、水香は毛布をかぶせてきた。自分もその中に潜りこんでくる。水香を丁重に抱きしめた。水香の髪は腰に伸びていて、たたみに流れると朝陽を受けて陸離としていた。俺はまぶたを下ろす。
 俺が親になろうとしているのを知ったら、弓弦はどう反応するだろう。あいつに理解してもらえなかったら、苦しいところだ。「避妊はしろ」とたびたびしかられていた。もちろん避妊していればとはちっとも思っていないし、責任を取りたい。
 弓弦はどう思うか。分かってほしい、と思うし、弓弦なら分かってくれる、とも思う。けれど、甘いだろうか。この場合、「冷静になれよ」と諭してくるのが妥当なのは否めない。
 次に仕事をもらったとき、「話がある」と弓弦に時間を割いてもらった。少し歩いて、そのへんの道端のビル沿いの花壇に並んで腰かける。
 肌にまといつく夏の空気に、行き交う人間の服装には半袖やタンクトップが多かった。それでも、かっちりしたスーツもいたりするのがこの街だ。
 景色を眺めて、心の準備に時間稼ぎをしていると、「何かいい感じ」と弓弦は言う。弓弦はいつのまにか声変わりを済ましている。
「何で」
 俺の声はまだガキだ。
「お前とふたりってずっとなかったじゃん。水香がいたし」
「悪かったな」
「っとにな。ま、いいよ。何、話って」
 端的に口火を切ろうとして、迷って、深呼吸にしてしまう。上昇した気温に、とっくに息は色づかなくなっている。喉が硬くなった。
 弓弦に反対されたら。そう思うと怖い。俺たちは常に理解しあってきた。それに亀裂が入るかもしれない。
 弓弦は言いよどむ俺を観察している。俺は息を入れ替えた。ここは、自分とこいつの友情を信じるしかない。
「お前、ってさ」
「うん」と答える弓弦は煙草に火をつけている。
「俺が急に働く気になった理由、訊かないよな」
「あ、ああ。まあ」
 弓弦は長い前髪の奥で、わずかに表情を曇らせた。その様子で、秘かにそれを気にしていたのが窺える。
「そっちが話そうとしないし、訊かないほうがいいかって」
「知らないんだ」
「知らないな」
 膝の上で指を絡ませた。こめかみや胸に複雑な汗がしたたっていく。すぐ前をさまざまな脚が通り過ぎていく。
「実は、さ」
「うん」
「水香が、妊娠したんだ」
「は?」
 顔を上げた。弓弦はぽかんとしていた。鋭い目が大きく点になり、歳を重ねるにつれ完成度の高くなる顔が、無防備になっている。
「水香の腹に、俺の子供がいる」
「………、冗談だろ」
「ほんとだよ。あいつ生理来ないって言ってきてさ。調べもしたんだ。病院ではなくても、ほら、売ってるじゃん。陽性だった」
 弓弦は顔つきを取り戻してくる。形作られた面持ちは、懸念だった。
「働く、っつうことは、お前──」
「うん」
「本気かよ」
「大変なのは分かってるよ」
「大変どころじゃないって。お前らガキだろ。できちまった命を壊したくないっていうのは分かるけどな、情に流されてあとで後悔したら不幸になるのはその子供だぜ」
「情には流されてないよ。そりゃ、殺すなんてできないっていうのもあるよ。でも、それより俺はその子に生まれてきてほしいんだ。後悔はしない」
 弓弦は俺を見つめる。眼つきがいつになく厳しい。軽蔑や猜疑でなく、俺を見定めている。
「感傷的かもしれないけど」
 視線を下げた。脳裏がきしみ、色彩を失いつつある悪夢がよみがえる。家庭とはあんなものだとは思っていたくない。書き換えたい。報われなかった幼かった自分に、柔らかな土をかけてやりたい。
「その子を自分の埋め合わせにしてるんじゃないよ。ぜんぜんないとは言わなくても、それだけではないんだ」
 弓弦は無言で煙草をふかした。煙の匂いが舞い散り、雑多な空気に飲みこまれる。
「俺がその子に生まれてきてほしいのは、その子が大切だからだよ。すごく、大切なんだ。生まれたその子にとっては、こんなのいい環境とは言えないよ。はっきり言って、迷惑だろうな。謝る覚悟はできてる。謝ってでも、俺はその子に生まれてきてほしいんだ。お前を愛してるって伝えたい」
 弓弦を見る。弓弦は天を仰いでいた。聞くのを拒否しているふうではない。
「俺、子供を守るよ」
 弓弦は俺を一視する。突き刺しあうように視線がぶつかる。
「弓弦が正しいのは分かってる。俺は嫌だ。どうしても堕ろせって言うなら、俺は弓弦からもその子を守る」
 弓弦は目を開いた。ついで気の抜けた顔になって、ため息をついた。膝に頬杖をついて煙草を吸う。
 俺はそんな弓弦を見つめた。痛むほどに心臓がすくんでいた。弓弦を敵にまわしたかもしれない。本当はそんなのは嫌だ。本来、弓弦と子供は天秤にかけられるものではない。
 弓弦は俺を見ると、仕方なさそうに咲った。
「弓弦──」
 弓弦は煙草を地面に捨てて踏み、俺の頬をつねる。
「泣きそうな顔しやがって」
 黙って上目使いをする。弓弦は手を離すと、めずらしく穏やかな一笑をした。
「俺だって、お前に嫌われるの、困るよ」
 つねった俺の頬を軽くたたき、弓弦は手を下げた。俺はうつむいて、「ごめん」と言った。弓弦は俺を小突く。
「謝るのは俺。正しいのは俺じゃないよ。お前だぜ。父親だったらそう思うよな。ごめん。そのへんの奴みたいなこと言っちまった」
「生ませても、いい?」
「俺に断ることか。お前がしたけりゃ、そうしろよ。俺はいつでもお前の味方だぜ」
「……うん」
「もちろんお前が間違ってたら、反対して引きずり戻すけどな。今回はお前が正しい。お前なら大丈夫だよ」
「そ、かな」
「臆面なかったしな」
 仏頂面になった俺に、弓弦はいつもの高笑いをした。
「大事だぜ。本気になると恥ずかしいことも口走っちまうよ。もし羞恥心でかっこつけてたら、俺は賛成しなかったね」
「キザだったかな」と俺はつぶやいた。弓弦はにやにやとして「かなり」と答えをよこす。俺にはたかれて弓弦は笑い、「無茶はすんなよ」と続ける。
「そこそこにな。水香だっているんだ。完璧に面倒見てやらなくても、ガキは勝手に育つもんだぜ」
 俺はうなずいた。それは俺も弓弦もよく知っていた。育てられず、虐げられて。それでも俺たちは、今、生きている。
 そのあと、弓弦は仕事に戻り、俺も弓弦に紹介された仕事に行った。店で時間通りに客と落ち合い、モーテルにもつれこむ。
 弓弦に理解してもらって気分がよかった。弓弦も別れ際、「話してくれてよかった」と言ってくれた。これでもう、俺は自信をもって子供を迎える心構えが整った。

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