普通
仕事を始めると、時間が経つのが一段と早くなった。
水香のつわりはけっこうひどくて、男の俺が見てもつらそうだった。思わず、吐き気の元の赤ん坊を吐いちまうんじゃないか、などとくだらない心配をしてしまった。
仕事をひかえて水香につきそった。俺がそばにいると、水香は精神的には落ち着いてくれた。痛ましい時期が過ぎると水香の腹はだんだん目立ってきて、いるんだよなあ、と実感する。
弓弦に出逢って、水香に出逢って、俺は三人目のかけがえのない人間を手に入れようとしている。
俺は稼ぎは良くて、部屋に最低限の生活用品は揃えられた。カーテンやふとん、小型冷蔵庫が狭い部屋に収まっていく。けれど、なくてもどうにかなる電化製品はまだあとまわしだった。
夏の暑さがやわらいで、冬の気配がただよう。秋の一瞬の心地よい気候の日だった。俺と水香は、子供の服がいるとかいう話をしていて、性別はどちらかという問題に気づいた。
俺はどっちでもよかった。水香は女の子がいいそうだ。
「男って聞き分けないじゃない」
まあ、そうだろうか。ある程度の年齢になれば、癪な環境は捨てていっちまう可能性もある。ほかならぬ俺がそうだ。
「子供がここにいたくないっつったら、俺はそうさせるぜ」
「冷たいね」
「出戻りならそれでいいし」
「……甘いのか」
「水香はずっと子供と暮らしたい?」
「………、まあ、あたしも同じかな」
俺は指に絡めていた水香の髪を梳いた。水香は俺の肩にもたれ、「あんたはいなきゃダメだよ」と言った。俺はちょっと照れ咲いしてうなずき、彼女に口づける。水香もはにかんで咲った。
俺たちは軆を重ねるのをひかえていた。流産とか死産とかが怖かったのだ。たとえ胎児は厚く保護されていると言われていても、水香の年齢だと、身体的に未発達な部分もあるかもしれない。安静に越したことはなく、子供が生まれるまでは愛し合うのはお預けだった。
水香の具合が悪いときには、彼女のそばにいた。水香の不安のためもあったし、自分の不安のためもあった。彼女が体調が悪いのを放っていっても、どうせ仕事には集中できない。水香はふとんに深く横たわる。高級品とはいえなくても、ないよりはいいふとんだ。俺はそのかたわらに座って、彼女と時間を共にする。
水香の精神は不安定だった。体調が狂って、腹では別の命が暴れる。自分に子供ができる現実や、無理をしている痛感に、彼女はどうしても未来を案じていた。
正常な反応だろう。病院には行けない。水香の軆が壊れる可能性もある。生まれる子供の生死も危うい。無事生まれたとしても、健康な子供か保証もない。そのあときちんと育てられるかも断言不能だ。何をとっても安定した見込みがない。
思いつめた彼女は、「ほんとに大丈夫なの」と泣きそうになりながら俺に訊く。俺は水香を抱きしめ、「大丈夫だよ」と言い聞かせた。
「お前とその子は、俺が守る」
水香は俺に抱きつき、苦しくうなずく。「俺がお前たちのそばにいるのは変わらない」とささやくと、水香は俺の胸にうずまり、呼吸や涙を整えた。
俺は子供に生まれてきてほしかったけど、そんな水香には、堕ろさせたほうがよかったのか、とちらりと思わなくもなかった。でも、水香は「堕ろしたかった」とは最後まで言わなかった。俺の家庭への渇望を理解する彼女は、それが俺を踏み躙る言葉だと知っていた。そんな彼女の思いやりは分かっていたから、俺も「ごめん」なんて後悔のような言葉は最後まで言わなかった。
今年の冬も容赦なく寒かった。朝や夜はきんと冷えこんで、夏の威勢はどこにいったのやら、昼間も太陽の恩恵は薄い。俺は安物の電気ストーブを買った。狭い部屋ならそれでじゅうぶん暖かくなった。寝るときは水香と体温を分け合い、麻痺しそうな感覚を溶かして眠った。
水香は妊娠七ヶ月を経過していた。あとに引けない時期になったからか、順応したのか、この頃になって、ようやく毎日目を泳がせていた水香も穏やかな日を作れるようになった。休みがちになっていた俺の仕事も、軌道に戻っていく。「あんたがいなきゃ発狂してたかもね」と彼女は言う。何とも返せなくて咲ってしまった。
俺と水香は、明け方に揃って就寝する。俺がいないあいだは眠って現実逃避しておけばいいのに、水香は必ず俺を待っていてくれる。ストーブを消し、一緒にふとんと毛布にくるまって心身を弛緩させる。うつらうつらとしてくる前に、水香とぼんやり話をしたりもする。
「早く生まれてきたりしないかな」
ふとんに並んでいると、水香がつぶやいてくる。俺は彼女を向く。
「こんな状況だし」
俺は考えて、「かもな」と言った。水香の指は俺の指に絡まっている。水香の宿した腹で、横になって抱きあうのはむずかしくなっている。俺たちは手をつなぐという行為で安らぎをつかむ。
「痛いかな」
「人によるんだろ」
「死ぬほどって人いるよね」
「何にもないって人もいるぜ」
「どっちかな」
「さあ」
俺と水香はお互い指を指のおもちゃにしている。俺はふとん越しに水香の腹を一瞥した。
死ぬような痛み。俺は自分の母親を、この女は出産の痛みを怨むような母親だ、とよく思っていた。
「なあ」
「ん」
「もし痛かったら、お前、それを怨む?」
「は?」
「生むのが死ぬほど痛かったら」
「怨めるわけないじゃん」
「そうなのか」
「そうだよ。死ぬ思いしたんだったら、元取ってかわいがりたい」
水香は咲い、「痛くなくてもかわいがっちゃうけどね」とつけくわえる。俺も咲い、朝陽の粒子が映る貧相な天井を見つめる。
普通の母親はそう思うのだろう。たぶん俺の母親はそう思わなかった。あの女は母親じゃなかった。父親も父親じゃなかった。あの男は目障りな子供を殺すのは父親の役目だなどとわめいていた。そんなものは父親ではない。俺は水香の中のその子が、誰にどんなに目障りでも、自分だけは認めてかばってやりたい。普通、父親はそう思う。
水香は俺の手を包み直し、「どうして?」と訊いてきた。俺は曖昧に咲った。
「俺たち、普通だよな」
「え」
「ぜんぜん普通だよ」
水香は不思議そうな視線を送ってきたが、何も言わない。手を握り合って目を閉じると、やがて、眠気が意識を侵蝕していった。
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