うたたね-13

家族

 あの家は地獄だった。あの光景は記憶となって、遠くなりはじめている。でも、けして消えたわけではない。
 思い出そうとすれば、くっきり思いだせる。あの苦痛を呼びさます引き金は、俺に内在しつづける。あの悪夢が脳裏によみがえれば、すべて感じられる。血の味、屈辱、痛み。
 一生、そうなのだろう。俺の体内には、ぶん殴られて成長しそこねた幼いままの自分がいる。俺は永らく、その幼い自分に支配されていた。記憶や痛みにまといつかれ、発作のごとく鬱に見舞われて。前触れなく意思もなくあの地獄の光景がよぎって、そのたび俺はめまいや吐き気に襲われていた。
 それが減った、とは思う。いきなり急にあの光景が眼球に突きつけられるのが減った。記憶を消すことはできないし、生々しくさせる引き金も丁重にはしておかなくてはならない。
 だけど、確かに霞んだ。あれは過去だ。今の俺を支配しているのは、悪夢に暮らす幼い自分ではなく、救われた今の自分だ。もし不安になっても、もうあの地獄にはいない、と冷静に確認できる。
 出逢った人がよかった。弓弦。水香。このふたりがいなかったら、俺はここまで立ち直っていなかった。そして俺には子供ができる。その子こそ、俺が現在にいる要になる。
 俺にとって、家庭とはその子供と水香と作るものになる。俺の家庭は水香とその子であって、あの地獄は俺の家じゃない。あんな場所は家とは呼べない。あいつらは他人だ。俺は水香が孕む子供を愛して、それを切り札に、あの家と決別する。
 俺を決定づけるその子が水香の腹にいるあいだ、俺なりに気を揉んでいた。落ち着かない中では時間が経つのは早かった。月足らずで生まれてくる可能性が出てくる頃になった。そうなる確率も低くなかったけれど、水香が落ち着いていたので、俺は仕事をしていた。彼女の精神が壊れた秋から冬口にかけての、仕事を二の次にしていた取り返しもある。
 寒さはあっても日が伸びて、モーテルのチェックアウトの際のカレンダーによると、三月八日だった。その日、帰宅すると水香がふとんにぐったりしていて、その腹は平らになっていた。
 一瞬、突っ立った。部屋は蒼くて薄暗かった。明かりをつけて中に入ると、水香がこちらを見る。頬を緊張させる俺に、水香は咲った。
「名前、何にしよっか」
 深い息を吐いて、水香のそばに行った。タオルに包まれるやたら小さいものが、水香のまくらもとでもぐもぐしている。俺は水香と見つめ合った。
「生まれ、たんだ」
「見て分かんない?」
「いや、分かるけど。その、ちゃんと」
「大丈夫」
「いつ頃」
「ちょっと前」
「そっ、か」
 座りこんで畏まってしまうと、水香はくすくす笑う。妊娠前にはいつもしていた、強かそうな笑みだ。俺は頬や喉を何とかやわらげ、波打つよりすくんでいた心臓を楽にする。白いタオルを見やる。
「俺たちの子供、だよな」
「うん」
「どっちに似てる?」
「分かんない。つぶれてるもん」
「つぶれてる、のか」
「生まれたては、何だってそうでしょ。ちょっと時間経たないと」
「はあ」と俺は間抜けな返事をする。そんなものなのか。
「見てみたら」
「え、いいのか」
「あんたが見なくて、誰が見るの?」
 口達者に戻ってるな、と思いつつ、水香の向こう側にいるタオルへ這っていった。無意識に正座なんかして、いっとき、その弱いうごめきを眺める。
 生きてるな、と思った。そっと持ち上げると、危なげに軽い。だが、こころよく温かい。どう抱けばいいのか分からず、人形を抱くようなかたちにしてしまう。それもまたすべり落としそうだ。おろおろする俺に、水香はおもしろそうに笑う。
「男って、子供抱くの怖がるよね」
 怖いのは怖くても、そういう怖さではなかった。いざとなると、複雑なのだった。心の準備もできていない。今日生まれるとも思っていなかった。
 とはいえ、この子は俺が待ち望んでいた子だ。怖気づいてどうする。憎しみはない。堕ろしておけばとも思わない。そう、何も問題はない。この子の責任を取ると誓ったではないか。
 俺はこの子の父親だ。だから全部受け止める。深呼吸して覚悟をくくると、呼吸を整えた。震えそうな手で、ゆっくりそのタオルを開く。
 そこには、ちゃんとひとりの人間がいた。ぱっと見ると人形みたいだが、小さい手足はみずから動いている。その幼さは、どきどきしそうにもろげだ。肌は“赤ちゃん”と呼ばれるとおりに赤みがかっている。外界にまだ順応していなくて、水香の言う通りくしゃくしゃの印象がある。どこがどっちに似てるとかは、俺が冷静になれていないのもあって分からない。
 一見し、欠陥がある様子がないのにはほっとした。何があってもそれを疎む気はなかったけれど、この環境では五体満足が助かる。ちなみに丸裸で、性器は突出していなかった。
「女、だな」
「うん」
「よかったじゃん」
 水香はこくんとする。まだ洗われていないのか、所々に血が残っている。そういえば、へその緒というものがあった気がするが、それはもう切断されたようだ。
 頬に触ってみると、ちぎれそうに柔らかい。ぎこちなくその子を抱き直し、俺は水香を向く。
「ひとりで、生んだんだよな」
「誰かといてほしかった?」
 水香を睨んだ。彼女はくすりとした。
「平気だったよ。死ぬかもって思ったけど、生まれたあとはね」
「生むの、痛かった」
「生むの、というか陣痛が。長引かなくてすぐ生まれたほうだと思う。何か、生理痛の強烈な奴より──って、あんたには分かんないね」
 分からなかった。晴れた顔をしている水香にはほっとした。水香は乗り越えれば強い。俺のほうがよほど心配性だ。水香が元気でいてくれると、俺も気丈でいられる。
 子供の軆を丁寧にタオルで包み直した。抱き上げたときと同じく、そっと水香のそばに置く。離すと、その子の体温が手のひらに残っていた。妙に感慨深い。
「生まれたとき、この子泣いた?」
「うん」
「問題、なさそうだな」
「そうだね」
「………、いろいろ買ってこないと」
 水香は咲った。「明日買ってくる」と言うと彼女はうなずいた。何となく、ふたりで赤ん坊の動きを観察する。泣いたりはしない。
 きちんと生まれるかとか、水香の軆は無事でいられるかとか、妊娠中の種々の心配で、生まれたあとをほとんど考えていなかった。気楽にはしていられない。育児書とか買ってこようかな、とか思っていると、「ねえ」と水香が沈黙を破る。
「この子の名前、何にする?」
「え、ああ。そうか」
「届けは出せなくてもさ。つけてあげるのはいいでしょ」
「うん」
「何がいい?」
「考えてないのか」
「それどころじゃなかったもん。あんたは」
「俺も考えてない」
「決めていいよ。決めて」
 俺は赤ん坊を眺めた。動きが息苦しげに見えて、ちょっと指を引っかけて隙間を作ってやる。赤みを帯びた素肌が覗いた。服着せないと、と思った。男女兼用の服を買ってある。
 にしても、名前。突然言われても、ぱっと浮かばない。届けでは証明ではないのだし、この頃生まれたと分かる名前がいい。となると時候が入る名前だ。
 連想をめぐらせた。今の季節。春。今年の干支。年号。三月。日づけ──「あ」と俺は水香の瞳に瞳を重ねる。
「サヤ、は」
「サヤ」
「うん。サヤ」
「サヤ、ねえ。何で」
「今日、三月八日だし」
 水香はしばし閉口し、「安易」と言った。俺は頬を染め、「じゃあ自分で考えろ」と憎まれ口を叩く。水香は愉しそうに笑った。
「いいよ、サヤね」
「ほかのでもいいぜ」
「あたしは好きだよ。綺麗だし」
「そうかな」
「由来伏せておけばね」
 水香を小突いた。彼女は笑った。俺もしょうがなくて笑ってしまう。こういうふうに笑えるのは、久しぶりかもしれない。
 やっぱり、心配でたまらなかった。水香にもこの子──サヤにも無事でいてほしいのに、その確率は低い。怖かった。どちらか、もしかすると、どちらも失う恐れもあったのだ。無事過ぎた今思うと、何という選択をしたんだと驚く。
 水香はこうして元気になったし、サヤにも悪いところはなさそうだ。十ヶ月近くの張りつめた精神は、杞憂に終わってくれた。
 赤ん坊の服を押し入れから引っぱりだす前に、俺は水香の名前を呼んだ。彼女はこちらを向く。これは言っておかなくてはならない。
「お疲れ様」
 水香は少し目を開き、嬉しそうに微笑した。「大丈夫だよ」と彼女は言う。
「それに、これからでしょ」
 友達の乗りが多い俺と水香でも、ときおりそうではない証拠にすごく相手が愛おしくなる。今がそうだ。俺は身をかがめて彼女に口づけた。そして照れ咲いし、立ち上がってサヤの服を取りにいった。

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