紗夜
こうして、俺と水香の生活にサヤが加わった。
後日、サヤという名前には、紗夜、という漢字があてられた。水香の案だ。「何で」と訊くと、「夜に生まれたから」と返ってきた。彼女もなかなか安直だ。まあ、紙の上はともかく、俺と水香と紗夜は家族になった。
紗夜が生まれた直後に、俺たちはボロではないアパートに引っ越した。台所やトイレもあって、今度はきちんとした浴室もついている。床はたたみ、ベランダなし、というあたりは変わらないのだが、壁も多少厚くなったし、心持ち広くなったし、助かるのは確かだ。今回も偽装名義には弓弦のお世話になった。
紗夜が生まれたことは、弓弦だけには報告した。男娼やモーテルのボーイに親しく軽口をたたける人間も持ちはじめていたけど、やはり信頼しているのは弓弦ひとりだ。仕事をもらったついでに報告したとき、弓弦は「そういやそんなことになってたな」ととぼけた。
「病院とか行ったのか」
「行けるか」
「行かなきゃやばいぜ。見た目だけじゃ健康か分からないし。予防注射とかも」
「行けねえっつうの」
「死ぬぞ」
じと目をした俺に、弓弦は得意げな笑いをした。そして、「いいとこ紹介してやる」と言う。
「いいとこ」
「あるんだよ。患者の詮索をしない悪い病院が。つうか、医者かな」
「はあ」
「保険証とかいらないし。代わりに金は余分にいるか。あるだろ、お前だったら」
「まあな」と肩をすくめる。
俺は稼ぎのいい男娼になっている。かわいい男の子が好き、もしくはかわいいだけでは嫌、という客に受けているのだ。前者の客にはオカマになり、後者の客には生意気ぶる。
そんなわけで、弓弦の紹介を受けることにした。日時、場所、報酬が書かれたメモを弓弦に渡され、紗夜を抱く水香を連れて、指定通りそこにおもむいた。
着いたのは、何の変哲もないビルの一室で、そこにいた男に前払いの現金にて、紗夜は予防接種や健康診断をされた。問題ない、ということだった。帰り道、「こういうのも必要なんだよね」と久しぶりに外に出た水香がつぶやいた。俺もうなずいてしまった。
「年齢待つ奴のときもどうにかしてやるよ」と弓弦は言ってくれている。何でこんなことに詳しいのかを訊くと、はたかれた。
「俺の仕事を何だと思ってる」
そういえば、弓弦の仕事は斡旋だった。表立てない子供のそんな世話の仲介もするだろう。金をはらおうとすると、「初回は友情で免除」と言われた。次はしっかり取るそうだ。ともあれ、弓弦の職業に感謝してしまった。
女の本能なのか、愛してなせる技なのか、水香はうまく紗夜をあつかっている。紗夜は比較的おとなしい子だ。無闇に泣きわめいたりしないし、水香の腕におさまっていればすやすやしている。
水香は紗夜のために、昼夜反転の生活を徐々に切り替えていった。俺は夜に稼ぐ職業なのでそうできなかったけれど、昼下がりから夕方にかけて、用事がなければ起きて部屋にいる。
まだ視覚が開いていなかったり、首が座っていなかったりで、動きまわれない時期ではあれ、紗夜を眺めているのはおもしろかった。観察に没頭していると、「あんたもちゃんと世話しろよ」と水香に蹴られる。
もちろん、俺も観察していただけではない。紗夜のおむつを取り替えたり、風呂に入れたりもした。これもまた、怖い。何しろ柔らかいので、変なかたちに曲げてしまったらと神経を使う。特に風呂は恐怖で、自分の軆を流すとかそういうヒマはない。何だか息切れして部屋に戻ると、水香に笑われるのが日課になっていた。
それでも投げ出さずにせっせと経験を積んでいたら、おむつも風呂も慣れていった。俺だって紗夜に懐いてほしかったし、苦ではなかった。
二、三ヶ月なんてすぐ過ぎた。紗夜の瞳孔も開き、瞳を合わせられるようになった。
紗夜の容姿は、「あんたに似てる」と水香は言った。紗夜を眺め、否定もできなかった。紗夜の髪は俺と同じで色素が薄く、おまけにくせ毛だ。透明感のある肌も似ている。くるんとした目も、どちらかといえば俺譲りだ。口元は水香に似ていると思う。瑞々しくて、ふっくらしている。紗夜は俺と水香のいいとこ取りだ。と思うのは、いわゆる親バカという奴なのか。
仕事に都合をつけて、弓弦が紗夜を見にきたのもその頃だ。考えれば、弓弦と水香は会うのが久々だ。少しぎこちなかったけど、時間が経てば空気は戻っていた。
紗夜のことは「かわいいじゃん」と言ってくれて、俺と見較べ、「お前にそっくりだな」とやっぱり言った。紗夜は弓弦に怯えたりしなくて、ただ不思議そうにはしていた。
「抱いてみる?」と勧めてみて、弓弦が赤ん坊の抱き方がうまかったのに驚いた。その驚きが手伝い、俺の弓弦の紗夜を見る目がどこか苦しげなのに気づいた。水香は気づいていなかったので、それはうまく隠されていたのだろうが、俺の目には留まった。
出勤もあって、弓弦と一緒に部屋を出た。梅雨に入る直前のさわやかな時期だった。そよぐ夜風が頬にひんやりとする。
街へ歩きながら、紗夜への視線について弓弦に訊いてみた。「分かった?」と弓弦は複雑そうに咲う。
「まあ、俺はな。水香は気づいてなかったぜ」
「うん、………」
「何か、紗夜にある?」
「いや、あの子は別に──」
弓弦は口を濁らし、足元にため息をついた。慮外の反応にとまどった。その表情は内的に陰っている。最近の弓弦は、ほとんど内面を外に出さない。悪い質問だったかと俺がまごついていると、「何かさ」と弓弦はつぶやく。
「妹のこと、思い出しちまって」
俺ははっとした。ついで、思い切り悪い質問だったと自覚した。謝ると弓弦はかぶりを振ったが、黙りこんでしまう。
そう、弓弦には妹がいた。父親に殺されてしまった、幼い妹が。弓弦が赤ん坊に慣れているのもうなずけて、同時に俺は恥ずかしくなった。
俺はどこかで、弓弦は立ち直っていると思っていたようだ。弓弦の微妙な所作には気づいても、その意味を測れなかった。もう一度謝るべきかと悩んでいると、弓弦が自嘲気味に嗤った。
「あいつが、あの子──紗夜か、紗夜ぐらいのときには、まさかもう死んじまってるとは思わなかったなーって」
無言で弓弦の横顔を見つめた。弓弦の瞳は暗かった。俺があの虐待を忘れられないように、弓弦も傷口をいまだ潜在させているのだ。
普段の弓弦の様子だと、とっくに忘れてしまったと思いそうになる。そんなわけはない。弓弦はいつだって、麻痺しているだけだ。
「生きてたら、あいついくつかな。九歳、かな。たった五つで死んだんだよな」
弓弦は数秒口ごもり、「殺された、か」と言い直す。どう返せばいいのか分からない。弓弦を深くえぐっている聖域の破損は、何といっても、妹の死だ。無力に父親に妹を殺させてしまった。
弓弦の父親は相変わらず服役中だ。投獄されて四年が経った。無期懲役は十五年が相場だ。十年弱で、弓弦の父親は出てくる──かもしれない。
俺はいつしか、「親父を殺してやる」という言葉を弓弦の口から聞かなくなっている。今はどう思っているのだろう。弓弦のかたくなな表情は、俺にも何も読ませない。
「忘れたわけじゃないんだぜ。一日に何回か、くせみたいにふっと思いだしてる。でも、昔みたくいつも考えてるってわけでもない。自分が分裂してるんだ。十一で止まってる俺と、今の俺がさ」
「……うん」
それは俺も同じだ。俺の中でも現在の自分と幼い自分が対峙している。俺は永らく、幼い自分に傾倒していた。弓弦、水香、紗夜を経て、だんだん現在を向けるようになってきている。
「くせみたいなほうは、言い方悪いけど、慣れちまって平気ってとこもあるんだ。何かのはずみの奴は、俺、一生慣れられないよ。親にされてたことはどうってことないんだ。あっちがバカだっただけだし。妹だと、何か、頭が真っ暗になる。何で俺、あいつを見殺しにしたくせにこんなへらへらしてるんだろうって。俺、自分がくだらないの知ってるけど、妹を想ったらぜんぜん思い上がってるのが分かるんだ。自覚よりずっと、自分はクズだって。で、恥ずかしいのと、いつもは無恥になれてる無感覚に、ぞっとする」
アスファルトを踏み進むスニーカーの爪先を見下ろした。
弓弦の裂け目にぬめる血は、自分が傷つくことをなげうってまで守ろうとした妹を守れなかった、他者への無力感だ。俺は自分がされたことに内面的に傷ついている。
俺たちの過去は、一見似ている。でも、傷は違うのだ。
ふと弓弦の笑い声が聞こえた。俺は顔を上げた。「ごめん」という思いのほかの言葉に狼狽える。
「愚痴でした。お前なんで、甘えちゃったよ」
ここでも俺は、どう答えるべきか迷ってしまう。とりあえず本心を述べた。
「俺は、聞けるよ」
「うん。知ってる」
弓弦は俺に咲いかける。俺のほうが頬を硬くさせる。
「ほんと、ごめん。お前とか紗夜が悪かったわけじゃないんだ。俺が勝手に暗くなったんだし。悪かった」
「……ん」
「はぐらかしたほうがよかったかな」
俺は即座に首を横に振った。
「弓弦が悪いんじゃないよ。俺が察してやればよかったし」
「ま、そうだな」
弓弦と顔を合わせた。にっとした弓弦に、俺も笑ってしまった。やっぱり、弓弦はこれだ。
「あのさ、弓弦」
「ん」
「ひとつ、訊いてもいい」
「うん」
「気に障るかもしれないけど」
「はい」
「………、父親のこと、まだ殺したい?」
弓弦は瞳を硬化させた。が、すぐやわらげた。
いつのまにか、街に着いている。けばけばしい街並みに視線をやりつつ、弓弦はかすかにかぶりを振った。黙する俺に、弓弦はどこか苦しそうな目を投げかけてくる。
「人殺して破滅してみろよ。あいつの最終兵器だぜ」
俺たちは、ネオンにうごめく人混みを並んで進んでいった。
今日は弓弦の紹介はないので、儲けがあるかは謎だ。近頃は、弓弦の仲介はなしに、なじみになった客やツテでやってきた客と会ったりもする。これは店に縛られていない特権だ。店に縛られていたら、仲介抜きは立派な違反とされ、処罰があるらしい。
大きな十字路で別れ道になると、俺と弓弦は立ち止まった。
「あのさ」
「ん」
「安心したよ」
「え」
「お前と水香のこと。紗夜もな。家族だったじゃん。水香も母親の顔になってたし、お前も父親になってたし。そのへんの冷めた家庭に生まれるより、紗夜は恵まれてると思うぜ」
「そう、かな」
「うん。大事にしろよな。お前だったらできるよ」
うなずいた。口角を笑ませた弓弦は、毅然と俺に背を向ける。俺はたたずんでその背中を見送る。
弓弦はああ言ったものの、あいつはちっともへらへらしていない。強いだけだ。ただ、俺には弱さを見せてくれるなら、紗夜や水香同様、俺は弓弦も大切にすべきなのだろう。
そんなことを思うと、俺も雑踏の中を歩きはじめた。
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