うたたね-15

再生

 弓弦、水香、紗夜。三人とも平等に想っている、といえば、建て前になるかもしれない。
 やっぱり、俺の心は紗夜にかたむいていた。母親が引き受けるばかりで、父親はよく逃げ出す世話もやったおかげで、紗夜は早く俺の顔を憶えてくれた。
 無表情だった顔にも、笑顔やむずがりが現れはじめた。ベッドを買ってやる余裕はないので、紗夜のそれは大きめのバスケットだ。そこを覗きこんでは、飽きないなあ、と変な所感を抱いている。
 紗夜を贔屓するのは、弓弦や水香は自立しているせいだと思う。ふたりとも俺を必要としてくれていても、自己を持っている。しかし、紗夜はひとりではダメだ。自我がない。誰かにすがらないと生きていけない。かわいくてたまらないのもあるけど、俺が紗夜にかかりきりになるのは、そのためが強い。
 あの地獄を、永遠に治らない傷口を、紗夜には体感させたくない。自分がたどった悪夢を見せたくない。あの頃、俺に何の罪もなかったように、紗夜にもそんな不条理を受ける義務はない。紗夜は選択も防御もできない。自分で心を守れないのだ。だから俺が守ってやる。まだ何にも分かっていないうちに、その心を踏みにじるなんてできない。
 紗夜がもう少し大きくなって、知恵づいて悪いことをすればしかれるだろうが、今はダメだ。瞳をぱっちりさせて、こちらを見つめてくるだけではないか。それがどうして罪になるのだろう。よく分かってないまま咲いかけてくる紗夜を、俺は床に投げたり踏みつけたりなんてできない。
 紗夜といると、俺はいよいよ自分を作ったあのふたりの人間が信じられなくなった。なぜあのふたりが俺にあんなことをしたのか、ぜんぜん分からない。何でひとかけらも愛してくれなかったのだろう。あっさり殺してくれていたら、とっとと捨てていてくれたら、俺は解放してくれた愛情だったと妄断していたかもしれない。そんな狂った認識をさせるほど、あの場所は虚しく、むごかった。
「あいつら、親だったけどさ」
 弓弦がいつだかつぶやいていた。
「家族ではなかったんだ。親子と家族って、違うんだよ」
 血のつながりはしょせん消せない。でも、家族は血ではない。俺がひどく傷ついたのは、家族になっていたはずなのに、それを乱暴に切断されていたからだ。
 否定したのは両親のほうだ。幼い頃、紗夜くらいの頃、俺にはあのふたりしかいなかった。なのに、拒絶された。家族じゃなかった。俺はあのふたりの愛ではなかった。
 不明瞭な声でこちらに呼びかける紗夜の頬を撫でていると、背中を水香が抱きこんでくる。去年の夏に一度切った彼女の髪は、再び伸びて俺の肩に流れ落ちる。
「何?」とかえりみると、水香は首を振って俺の髪に頬をあてた。彼女を見たあと、紗夜に目を戻す。紗夜は緩いまばたきをしてこちらを見つめている。
 紗夜のあどけない表情や動作に、俺の胸は静かに痛くなる。「あのね」と水香は俺の首にまわす腕に力をこめる。
「あたし、ほんとは、この子をちゃんと愛せる自信、なかったんだ」
「え」
「嫌だったんじゃないよ。今はかわいいし、病んでないし。妊娠中のがよっぽどおかしかったよね。怖かったんだ。あたし、まさか自分がこの歳で母親になるとは思ってなかったし」
「……うん」
「子供作れないかもって、あきらめてたときもあった」
 彼女を向いた。水香は視線を下げていた。
 俺は水香の腕を取ると、彼女を自分の胸に収める。水香は俺の腕に包まる。
「ほかの男は、やっぱり嫌だよ。あんたとしか、ダメだと思う」
「うん」
「あんたが全部なんだ。紗夜を生めたのだってそうだし。バカみたいだけどね」
 かぶりを振って長い髪をとき、彼女を抱きしめた。水香は俺の服を握って目を閉じた。俺は水香の髪に口づけたあと、紗夜のほうに目をやる。そのきょとんと澄んだ瞳に、俺は思わず咲ってしまいそうになる。
 俺に欠けていたのは、こういうことだったと思う。何となく咲うとか、力を抜いて安らげるとか、誰かの体温を感じるとか。そういうことが俺にはなかった。生まれたときからいっさい欠けていた。
 持てるはずだったのだ。だが、与えてくれるべき人間に拒まれ、まして虐げられ、俺の満たされなくてはならないものは乾涸びていた。
 しばらく、精神を埋めていた。感情や意思という心の潤いを排除し、乾燥して生きようとしていた。そうしなくては、脈打つ心臓も、蹂躙された心と同じ運命にしてしまいそうだった。俺は軆を守るために、心を殺した。
 今、俺は自分の心に触れている。よみがえった精神は、忌まわしい残像でなく、生身を感覚に通している。のさばっていた過去は後退し、現在を知覚している。
 悪夢は過去になった。今の俺にはきちんと家族がいる。死んでいた心は息を吹き返し、やっと暗い地底から這い出てきた。伏せていた瞳に光を受けている。その光は焼きつく陰惨な光景の湿気を乾かし、悪夢をただの記憶としておさめていく。
 この暖かな光を求めていた。ずっと求めていた。
 傷が消えないのは分かっている。でも、癒えていると言ってもいいかもしれない。あんなものは終わった。俺は地獄を解放された。
 終わった悪夢に光を知って、今、俺はそれを一身に吸収している。

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