うたたね-16

悪夢

 人いきれのあった繁華街を抜けると、初冬の冷えこみが服を透いて肌に刺さる。思わず身を縮めつつ、街とそんなに離れない場所にあるアパートの密集地に入っていく。
 紗夜が生まれて引っ越してきた部屋は、このへんの入り組んだところにある。ややこしい道順にもだいぶ慣れた。初春に生まれた紗夜は、生後九ヶ月になる。
 アパートが覗いてくると、寒さに歩調を速めた。夜が明ける直前の冬の空は暗く蒼然として、うっすら色づく息も見取れる。
 十二月十一日、というフロントのブロックカレンダーを思い出した。じき、俺は十五になる。あの家を出て二年以上経ったのだ。しみじみする自分に苦笑し、アパートの階段を登っていく。俺たちの部屋は二階の奥にある。
 今日の稼ぎがねじこまれている尻ポケットを探り、キーホルダーもない無用心な鍵を取り出す。さしこんでまわして、開けようとすると、なぜか開かなかった。
 眉が寄る。鍵がかかっていなかったのか。物騒だな、と思いつつは鍵をさしなおした。今度は開いた。
「水香、鍵が──」
 開いてたぜ、と言おうとして部屋の光景に動きを止めた。誰もいない。とっさにそう思ったが、もろいすすり泣きがそうではないのを知らせた。
 すすり泣きをたどると、右手の壁で水香がうずくまっていた。抱えた膝に顔を伏せ、長い髪が床にばらついている。状況を理解しかねたが、ドアを閉めてスニーカーを脱ぎ、水香に駆け寄る。
「水香」
 水香はびくっと顔をあげた。俺は目を剥いた。髪が貼りつく彼女の頬には、青黒い殴られた痕があった。かがみこむと、具合を確かめる前に水香が俺に抱きついてくる。
「何、水香、どうしたんだよ」
 水香は俺の胸にしがみついて震えた。水香を見おろし、彼女が紗夜を抱いていないのに不安になる。窓辺のバスケットも空っぽだ。狭い部屋を見まわしても紗夜のすがたはない。俺は焦って、水香に向き直った。
「水香、紗夜は?」
 水香は打たれたように痙攣した。俺はそれで紗夜が安全ではないのを察知する。
「紗夜はどうしたんだ。泣いてちゃ分からないよ。紗夜は──」
 かたん、と妙に響く物音がした。目を上げる。浴室からだ。
 立ち上がろうとすると、水香が俺に取りついて離れない。俺は彼女を抱いて一緒に立ち上がった。水香の膝は壊れそうにがくがくしている。
 何かあったのは分かっても、何があったのか分からない。
「風呂場で、音、したな」
 拍子、水香は俺を突き放し、なくなった支えにへたりこんだ。俺の服には、水香の涙が染み渡っていた。水香は上体を折って、床に這いつくばる。抑えた嗚咽に肩が小刻みに震えている。
 しゃがんで彼女を落ち着けようとしたとき、また音がした。水香は耳をふさいでうめいた。俺は躊躇いつつも彼女は置いて、浴室に行った。引き戸はなぜかすでに開いていた。俺はそこから、洗面所を覗く。
 途端、心臓が凍った。浴室へのガラスの扉も開きっぱなしだった。その奥、まっすぐ先、浴室のタイルの上に、薄れていた俺の記憶の引き金がいた。
 俺を殺した悪魔。
 俺の、父親。
 父親は、茫然とする俺に首を捻じった。俺の総身は瞬時に硬直した。幼かったあの頃のように。無感覚の視線に細胞が居竦まってしまう。父親は俺を眺め、口を半開きにして笑った。
「捜したんだぞ」
 喉が凍えて、何も言えなくなった。座りこみそうになり、慌ててそばの引き戸の縁をつかむ。知らずに後退しようとして、筋肉が動かないのに泣きたくなる。
「お前が出ていって、かあさんも出ていってしまってな。とうさんにはお前しかいないんだよ」
 息遣いが混乱してくる。父親がこちらに足を踏み出した。俺は後退った。
 そして、はっとした。父親のズボンのファスナーはだらしなくさがり、赤黒い性器がはみでていた。それで初めて、俺は浴室に青臭さが充満しているのに気づく。
 俺は反射的に水香を見た。彼女はジーンズを穿いている。一応ほっとして、すぐ、わけが分からなくなる。
 だったら何だ? あの性器は。勃起した名残は。精液の汚臭は。
 無意識に、浴室に歩み寄った。おののく脚は崩れ落ちそうだった。呼吸は乱れ、骨に食いこみそうに搏動している。褪せた視覚はぎこちない。
「とうさんのところに帰るんだ」
 びくりと入口で立ち止まった。
「根性を叩き直してやる」
 父親がすぐそばにいた。心臓が引き攣り、荒い呼吸は停止する。
「そのあとでも構わんだろう。今のお前に育てられたって、ろくなもんにならないさ」
 父親は含み笑った。それはだんだん高笑いになった。
 精液の臭いが鼻につく。父親の性器には赤い液体がこびりついている。
 俺はまばたきも忘れ、こわばった視線で浴室を見渡した。流しのタイルには何もない。壁も綺麗だ。空の浴槽に行きついたとき、俺の目は大きく開かれた。
 そこには、毒々しく真っ赤な液体が広がっていた。手前のほうから流れ出ている。原因はこの位置では覗けない。向こうのほうにゆっくりと流れ、細く赤い川は排水溝へとそそぎこんでいる。
 その鮮紅は、父親の性器に精液と共にまといつく鮮紅と、同じだった。
 精液、と反芻した。精液、とは何だ。精液は、射精で出る。射精。射精──は、何をして、する?
 水香のすすり泣きが聞こえる。父親の高笑いがそれをかき消している。ぐらつく聴覚に、心の裂け目に血があふれる。
『やめて』
 眼前に墨が降りる。
『痛いよ』
 そうだ。
『ごめんなさい。おとうさん』
 バカみたいだ。
『おとなしくしてるから。やめて。痛いよ。痛い、痛い、痛い──
 あれは悪夢なんかじゃない。はっきりとした現実だ。すごく痛かった。俺は憶えている。あの痛み、死ぬような痛み、砕け散りそうな痛み。
 夢なんかじゃない。夢であんな痛みは感じられない。むしろ夢はこっちだ。そう、夢だったのだ。現実を逃避したこの生活こそ、儚いうたたねの夢だった。
 浴槽は弱々しく赤く染まっている。精液の臭いが絶望的なめまいを呼んでいる。
 脳が破裂しそうだった。
 父親の高笑い。水香の喘ぎ。無言の紗夜。
 俺は息をつめた。喉がざらついていた。タイルへと一歩踏み出し、恐る恐る浴槽へと首を伸ばしてみる。
 そして、俺は、目が覚める。

 FIN

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