記憶
俺がここにいるからには、俺を作った男と女がいる。俺はそのふたりの顔を知っているけど、ふたりがなぜ俺を作りだしたかは謎だ。
何で堕ろさなかったんだろう──子供ができる原理を知ったとき、そう思ったのを憶えている。
家庭のことを思い出せと命じられたら拒否したい。けれど、強烈な記憶はフラッシュバックする。
真っ先にまたたくのは、頬への理不尽な拳だ。床に伏せるしかなくなった頭、その頭に堕ちるかかと、心ない唾と罵声、抑えつけた嗚咽。
俺の脳には痛ましく焼きついている。両親に虐待される幼い自分が、はっきりと。
物心がついたときには、痣と共生していた。父親は俺の軆をゴミあつかいし、母親は俺の心を存在しないものとした。性的な虐待はなかったものの、ひどかった。俺の軆には痣が絶えず、心には傷が絶えず、すべてに虚しさが絶えなかった。
満足にもらえない食事で、いつもふらついていた。食い縛りそびれた歯のせいで舌が切れ、口の中は血の味がする。眠ったら殺されるから熟睡できず、始終頭痛を引きずっていた。小学校に上がるまで、ろくにしゃべれなかった。浴びるのが罵声ばかりで、会話を知らなかったのだ。
無感覚だった。視界はすりきれ、耳元には砂嵐がかかり、鼻と口には流れる血が濁り、痣だらけの肌は何が触れても痛む。五感に垂れているのはそれだけで、何も取り入れられなかった。なのに、家庭での暴力は生々しい。家の中で引きずりまわされるときだけ、五官はむごく押し広げられた。憎悪が眼球に、罵倒が鼓膜に、酒気が鼻腔に、鮮血が舌に、痛みを超越した死の感覚が、全身に。
子供の頃の記憶はほとんどない。地獄の情景のみ克明に憶えている。父親の関節と、母親の毒舌だけ。ほかは憶えていない。当時どんなテレビ番組が放映されていたかとかは欠落している。虐待を除けば、俺の幼少時代はないに等しい。
父親は俺に肉体的な虐待をした。暴力と暴言の繰り返しだった。目障りだと殴り、耳障りだと足蹴に全体重をかける。横たわって動かなくなると、ビールの空き缶と同じように爪先で端にやる。
父親は俺を人間あつかいしなかった。同情に訴えても媚を売っても逆効果でぶん殴る。
その目は何だ、文句があるのか、誰のおかげで屋根の下にいられると思ってる、誰が食わせてやってる、俺はお前の父親だ、逆らったら殺してやる、お前はどうせクズにしかなれない、殺すのが俺の役目だ、殺してやる、殺してやる、殺してやる──
父親は外では平凡なサラリーマンだった。内と外で完全に人格が違った。酒に頼って家で俺に憎しみをまき散らす父親は、積み重なったストレスを理不尽に爆発させる負け犬だった。
母親は腰抜けだろうか。俺が生まれるまでは、母親が暴力の対象だったようだ。母親は父親を恐れていた。俺を虐待したのも、俺への憎悪というより、父親への懾服だったように思う。
母親の虐待は、精神的だった。矛先を俺に絞りたい切羽つまった保身は、練りこまれた侮辱を生んだ。
あんたなんか生まなきゃよかった。それが母親の口癖だった。俺を犠牲にして助かっているくせに。何度も殺そうとしたわ。なのにしぶとく生まれてきて。あんたはゴミなのよ。生まれてこなくてよかったのに。
父親は俺を抹殺したがったが、母親は抹殺する肉体も否定した。俺の母親は、大半の母親があとになれば愛おしむという、出産の痛みを怨むような母親だった。
俺がここにいることが、両親にとっては犯罪だった。幼かった俺の胸は、不条理な罪の意識にはちきれそうだった。
しょっちゅう思っていた。僕がいけないんだ。悪い子なんだ……。
生まれたらいずれ死ぬ。子供がそれを知るのは、いつ頃なのだろうか。
俺は潜在的に死を知っていた。母親が回収日にゴミを集めていると、壁でおののいていた。何の疑いもなく自分もつかまれ、生ゴミと一緒にされるのではないかと。
小学校に上がっても、友達はできなかった。両親の仕打ちで人間不信になっていた。誰かの瞳を覗くのが怖い。声をかけられるのが恐ろしく、軆に触れられると震駭を起こした。同級生たちは、そんな俺を変な奴だと疎外した。最初は構っていた担任教師も、俺の傷の黒さを感じ取って距離を置くようになった。
学校のこともよく憶えていないのだけど、体育の授業で着替えるとき、同級生に嗤われたのは憶えている。軆の痣を嗤われた。腹や肩は隠せても、背中などはどうしようもない。
プールの授業は、母親が持病をでっち上げ、全部休みだった。同級生たちの肌は健康的に小麦に焼けていた。俺の青紫の肌とは大違いだった。
どこの家でも、親はああして子供に暴力を振るう。それが常識だと信じたかったけれど、まじめにそう思っていた期間も短かった。
あんなことをするのは、自分の親だけだ。それは長いこと思っていた。誰にも言えなかった。
悪いのはこっちだとさえ思っていた。僕がいけないから、おとうさんたちは僕をイジメる。当然のことをされているのだから、文句は言ってはならない。
けれど──
「どうして、こんなことするの」
八歳になるかならないかの頃だった。味噌汁に口をつけて音を立ててしまい、父親に殴られていた。痛みに発熱した頬に、思わずそんな問いが口を突いて出た。
学校での聞き取りや国語の授業で、俺は何とか言語を覚えはじめていた。文句とも取れる俺の言葉に、父親の目はぎょろりと殺気の光度をあげた。
「みんな、クラスでは誰もこんなことされてないよ。どうして、僕は──」
「うるさいっ」
打撃でぐらついた頭蓋骨に、軆が床に倒れた。
母親は冷ややかに傍観している。
父親の足が落ちて薄い肩がゆがみ、声を上げてしまう。すると、うなじにかかとが落ち、呼吸が一時的に停止する。こめかみがぐにゃりとして、吐き気がした。
「誰もされてないだって? 当たり前だ。ほかの子は、お前と違って落ちこぼれじゃないんだよっ」
背中に、俺の数倍はある父親の体重がのしかかり、反ってひずんだ軆に喉から血があふれてきた。「やめて」とうめくと口元に血が垂れ、慌ててぬぐった。床を汚したら殺される。
「人と並ぶ価値もないくせに思い上がるなっ。誰のおかげで生きてると思ってる。俺の金で食ってるくせに。お前は寄生虫だ。こうされて当然なんだよっ」
「やめて、いや、痛いよ。ごめんなさ……」
血にかすれた細い声は、父親の野太い怒号にかきけされる。
「生意気を抜かしたら殺してやる。どうせお前はろくなものになれないカスだ。いいな、分かったかっ」
「分かりました。ごめんなさい。僕が悪い子です。ごめんなさい……」
父親は俺を壁に蹴りやった。俺は壁と床の垂直に顔をあて、嗚咽を押し殺した。生肉を食べたように、金属の味がしていた。涙が横に流れ、耳の穴に流れこむ。その涙に鼓膜がふやけ、何も聞こえなくなってしまえたら、どんなに楽だったか。
俺の子供の頃は、何ひとつ報われなかった。むごかった。悪夢の毎日に蹌踉として、生死の指針は大きく死に振れていた。
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