うたたね-3

傷口

 このままうなだれていても、何もならない。年齢が二桁になった頃、やっとそう悟った。
 ただし、自尊心を取り戻そうとか、前向きな方向には進めなかった。俺の心はゆがみすぎていた。自信の欠片もなかった。皮肉にも、父親の言うことを信じきった状態になっていた。自分はゴミでクズでカスだ。俺は負の方向を選んだ。
 高学年になっていた。授業をサボって、裏庭でぼんやりする時間が増えた。校長か教頭の趣味の花壇に腰かけ、何にもせずにぼおっとする。
 遠くに聞こえる体操の声とか、リコーダーの旋律とかを聴いていると、胸が不覚にも痛くなった。そんなのんきなものを聴覚が捕らえるのは、初めてだった。
 十一歳をひかえた晩秋だった。毎日、裏庭でぼうっとしていた。家は相変わらず地獄でも、そこにいるとささやかに安らぐようになっていた。熱をはらむ空気に揺蕩うのもなくなり、気候は寒くなってきていた。
 その日、そこにそいつが割りこんできたのはいきなりだった。
「これ、いる?」
 びくっと顔を上げた。真正面に、同い年ぐらいの前髪の長い痩躯の男が立っていた。口に煙草をくわえている。そいつがさしだしているのも、同じ銘柄の煙草だった。
「……は?」
 間の抜けた俺の問い返しに、そいつは眼光の鋭い目をにやにや細めた。俺は狼狽えて肩を震わせる。それを見取ったそいつは、「ビビらない、ビビらない」と俺をなだめる。
「で、これ、いる?」
 かぶりを振った。「っそ」とそいつは煙草をふかした。手慣れている。何だこいつ、と眉を寄せる。
「サボってんの?」
「え、まあ」
「いつもサボってるよな、君」
 俺は急にそいつを睨みつけた。
「文句あるのか」
「ないよ。俺もいつもサボってんだよね、屋上で。飛び降りちまおうかと下を覗くと、決まって君がいるわけよ。気になってさあ」
 軽い奴、と思いかけ、そいつがさらりと口にした言葉に首をかしげる。飛び降りちまおうか。
 俺はそいつを見た。そいつは向こうを見やっていて、瞳は窺えなかった。校舎越しに声楽の合唱が聴こえてくる。そいつは短く嗤笑すると、煙草の灰を地面に落とす。
「ああいうの、バカらしいよな。クラスのみんなで仲良くなんてさ。友達くらい選ばせろよ」
「……はあ」
「そう思わない?」
 思わない、というか、友達とかの概念が俺にはない。誰かとそうなりたいと思ったことも、持ちたいと思ったこともない。うつむいた俺にそいつは煙たい息をつき、地面に煙草を捨てた。
「深刻そうだな、あんた」
「えっ」
「世界一、不幸そう。けど、あんたってぜんぜん普通だぜ」
 俺はまたそいつを睨んだ。そいつは飄々と俺の隣に腰かけ、組んだ長い脚に頬杖をつく。俺はなおもそいつにガンをつけた。どっか行け、という意思表示だったのだが、そうして気がつく。
 そいつは、頬に紫がかった痕を持っていた。
 胸が騒いだ。まさか──。
 狼狽する俺に、そいつはまたにやついてきた。俺は目をそらす。違う。友達か兄弟と取っ組み合いの喧嘩でもしたのだ。俺のようなあつかいを受けていて、そんなふうに笑えるわけがない。
「捻くれてるよな、君」
「は?」
「中の方に捻くれてる。気力いるだろ。俺は外側に捻くれたから楽」
「あんた捻くれてないよ」
「捻くれすぎて、正常っぽいだけだよ」
 俺の胡乱の瞳に、そいつはやっぱり笑う。
 流れを帯びてきた風が頬を撫でていく。仰ぐ空は晴れ渡って透いている。北側のここは、冬が本格的になれば寒いだろう。いつまでもここでサボっているわけにもいかない。
 学校に来るのを辞めてしまってもいい。だとすれば、どこで過ごそう。
 そんなのを思っていると、隣で倒れこむ音がした。顔を向けると、その男が花壇に倒れこんでいた。半眼になって、半ば枯れた花に埋もれている。
 柩の中の死体がよぎった。
「晴れてるねえ」
 俺の視線を感じ取ったのか、そいつはぼんやりと口をきく。
「晴れてる日って、死にたくなるよ」
「……何で」
「透き通ってるしさ。吸いこんでもらえそう」
「じゃ、死ねば」
 俺の冷遇にそいつは噴き出し、「死ねないんだよな」とつぶやく。
「怖いのか」
「失敬な。俺の服、めくってみ」
「何で」
「口にするとうざったいんだよ」
 素直にそいつのTシャツをめくった。息を飲んだ。俺の軆にあるものと酷似した、青紫のまだらの名残が点在していた。
「親父にね」
「え」
「ま、俺がそういうことされてんのはいいんだ。妹を殺されたのは許せないんだよ」
「は?」
「妹。殺されたの。親父にね」
「……、何で」
「理由なんかあるか。言っとくけど、心が、とかではないよ。俺の親父は、こないだ懲役食らった」
 唖然とした。なぜそんなことを、そう無頓着に話せるのか。そいつの神経を疑っていると、そいつは不意にげらげらと笑い出す。
「おもしろい?」
「えっ」
「おもしろいだろ」
 憮然としたのちに感づく。
「作り話か」
「そう思う?」
「バカにしやがって」
「してないよ。ほんと。調べてもいいぜ。俺がこんな明るいのは、頭がイカれてるせいなんだ」
 俺はめくりっぱなしだったらそいつの服を戻した。そいつはこちらに顔を動かす。
「信じてないな」
「ないね」
「ふん。ま、いいか。実はちょっと嘘をつきました」
「……何だよ」
「親父が妹を殺したの、理由あるよ。奴曰く、俺が妹をかばって守ってたから」
 よく理解できずにいると、そいつは笑みを絶やさずに言う。
「ゆいいつの支えだった妹を奪って、消して、俺の存在価値を消したわけ。妹のナイトとしては、俺、存在理由あったしね」
 俺は黙っている。信じていない? いや、こいつは本物だ。まだ笑っている。
「何で」
 そいつは俺を瞥視してくる。
「君、『何で』って口癖だね」
「うるさい。なん……どうして、俺にそんな話するんだよ。初対面だろ。同情してほしいのか。ふざけんなよ」
「別に──」
 ため息が聞こえる。
「不幸なのは、あんただけじゃないってことだよ」
 俺はそいつを見た。笑っていなかった。
 不幸なのは、あんただけじゃない。俺だけじゃない──。
 反芻すると、不思議と脱力していた。そいつに並び、花壇に倒れこんだ。透き通る青空が広がる。
「死にたくなるだろ」とそいつは言った。その声は、土を伝って聞こえた。うなずくと、枯れた花がこすれる。
「あんたも、生きてるの楽しくなさそうだな」
「まあな」
「死なないの?」
「喜ばれるのが癪なんだよ」
「はは」
「そっちは」
「親父を殺すまではな」
「死刑じゃないんだ」
「動機がアホなんで無期懲役。十五年で出てくるな」
「十五年」
「だいたいはどうせそのくらいなんだと。仕方ないんで俺が殺してやる」
「まあ、頑張れば」
「少年法、きかなくなってるなあ」
 俺はちょっと咲った。咲って、驚いた。俺にも咲える余裕があったのだ。知らなかった。

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