うたたね-6

初恋

 水香を弓弦に会わせるのには、ちょっと躊躇があった。弓弦のほうは何も疑わなかったが、水香が弓弦に惹かれるんじゃないかとか思った。
 俺を知っていたのだし、水香は弓弦も知っていた。「あっちはたらしなんだよね」と水香は言った。あっちは、というのを拾って訊くと、「あんたは、わりとおくてなんでしょ」と返ってくる。俺はそっぽを向いた。水香は咲っていた。
 弓弦はモーテルにいて、ベッドでポルノチャンネルを観ていた。「おもしろい?」と俺が話しかけると、振り向かなくても気づいていたのか、「ほかに何にもないし」と弓弦は答える。
 弓弦は上半身はだかだった。投げ出す脚にジーンズと下着は身につけていても、前開きは開いている。
 俺の後ろで、水香はあきれた顔をしていた。俺はベッドスタンドのリモコンでポルノを消す。ようやくこちらを向いた弓弦は、初めて水香に気づいた。
 ふたりのあいだに視線が流れる。はさまれた俺は、内心身構えた。が、何にもなかった。弓弦が先に視線を外し、一応の配慮でジッパーを上げて、俺ににやつく。
「ミキさんに赤飯でも炊いてもらう?」
 ミキさん、というのは弓弦の童貞をいただいて、セックスのあれこれを教えこんだおねえさんだ。おこづかいも恵んでもらっているし、傍目には弓弦はミキさんのつばめっぽくなっている。
 俺は弓弦を小突き、ベッドサイドに腰かけた。弓弦はさっそく俺の背中を背凭れに利用する。「こら」と注意しつつ、俺は水香を隣に誘う。
 水香は躊躇った。首をかしげたあと、そうか、と思いだす。そうかも何も、彼女はたった数時間前に野郎ふたりに犯されたのだ。「大丈夫だよ」と俺が言うと、弓弦が噴き出した。
「お前のそんな優しい声、初めて聞いたぜ」
「っさいな。もたれんなよ」
「いいじゃん。──お嬢さん、俺はこいつの大切なもんには誓って手え出さないよ。安心しなさい」
 水香は弓弦を見つめ、俺を見た。大切、の語に俺はあやふやに咲う。水香は俺の隣に腰を下ろした。
「あたし、お嬢さんじゃなくて、水香っていう名前があるの」
 事実に沿えば、俺はこのとき彼女の名前を知った。「ミカちゃんね」と流され、彼女は弓弦を不審がるような面持ちをする。確かに、弓弦の硬派な容姿と軽い性格には落差がある。
 弓弦はポルノをつけた。高校生ぐらいの女が、でっぷりした親父の股間に奉仕している。
「お前、一日あんなん観てたわけ」
「ヒマだしさ」
「腰治った?」
「おかげさまで」
「遊びにいきゃよかったじゃん」
「お前来るかなーと思ってさ」
「ふうん」
「あ、冷たい。女の前で気取ってるな」
「気取ってねえよ」
「あーあ、男の子はいつか巣立っていくのですね」
「何だよ、それ」
 言いながら俺も弓弦にもたれ、水香を向いた。水香は俺と弓弦のやりとりに鼻白んでいる。
「何?」
「え、あ──ううん」
「何か変?」
「変、というか。普通なんだね」
「普通」
「学校でのうわさとは違う。組んでたら喧嘩強いだけで、別に仲がいいわけじゃないとか。何かの組織につながってるとか……みんな言ってるし」
 中坊らしい発想に弓弦は遠慮なくげらげら笑って、俺も笑いを噛み殺しながら水香に言う。
「喧嘩とかしてないよ。弓弦が平和主義だからさ。悪戯やっても、せいぜい万引きとか」
「最近はそれもしないよなー。俺にお金くれるおねえさんいるし」
 弓弦は放っていた長い脚を組み、煙草に火をつけた。俺も一本もらった。水香は遠慮する。
 どうだっていい話をしていると、空気はあっさりなごんでいった。水香は俺たちと波長が合うみたいだ。
 ベッドスタンドの電話が鳴って、チェックアウトの催促が出る。俺は制服を着替えて、弓弦もシャツを着た。水香には俺の服を着せて、三人でモーテルをあとにした。
「延滞したかと思った」
「お前が来るまで、って言ってたんだ」
 弓弦はこのへんで顔が利く奴になっている。たらしの中ですれちがった権力者に気に入られたりしているのだ。弓弦の悪友という由縁で、俺もこの危険な街で安全にいられている。
 暮れかける空の下で、通りは混み合いはじめていた。俺ははぐれないように水香の手を握った。水香は握り返した。絡まった笑みは、何だかおもはゆかった。
 弓弦は察して、その雰囲気を揶揄わずにいてくれる。つながれた手にも、知らないふりをしてくれた。
 夏休みが間近だった。俺はとっとと休暇を決めこんでいたけど、水香は学校に行っていた。俺は終礼時刻になると、校門に水香を迎えにいった。あの輪姦野郎が心配だったのだ。
 最初の日、つまり出逢った次の日、水香は俺を見つけると驚いたが嬉しそうにした。連れ立っていた女に何か言うと、ひとりでこちらに来た。
「何してんの」
 そんな意地悪な質問に、俺はどうとも返せず煙草をはじいて踏む。水香はくすくす咲うと、「弓弦くんのところに行くんでしょ」と言った。
 水香と連れ立っていた女が、見るからに俺を怖がって横を通り過ぎていく。友達かと訊くと、水香はうやむやにうなずいた。
「女同士のべたべたしたつきあい、好きじゃないんだけどさ」
 俺は何も言わず、ただ歩き出すのをうながした。彼女の言いたいことくらい分かった。
 水香は俺を向き、「いるとは思わなかった」と安堵した笑みを浮かべる。俺は決まり悪さにうつむいた。俺の女への免疫のなさには、水香は愉しげだった。
 夏休みはすぐ始まり、水香といる時間が増えていった。ナンパされてはかわしていた俺が、水香には自然と恋愛感情を育てていけた。弓弦が誰かとやっているあいだ、俺はひとりでぼうっとしていた。その時間も、水香の存在で有意義に過ごせるようになった。
 水香は淑やかな女ではなかったし、ときには男言葉を使って俺や弓弦よりがさつになるときもあったけれど、よかった。水香のさっぱりした性格が好きだった。俺は母親のせいで、女の陰湿な部分しか知らなかった。水香は俺の一面観を広げた。それほどの女はほかにはいなくて、目移りもなかった。
 俺が漠然と自分の家庭を語ったとき、水香は俺の手を握っていた。「よくある話だよな」と俺がくくると、「だから苦しんじゃいけないってこともないよ」と彼女は言った。俺はしばらく黙って、水香の手を握り返した。
 弓弦同様、水香にも俺を癒す才能があった。弓弦は傷口に唾を吐くのを教えた。水香はときにはそっと舐めていいと教えた。
 のちに弓弦にバカ笑いされるのだが、俺と水香は長いあいだ肉体関係を結ばなかった。水香がセックスを怖がったのだ。気丈にしていても、あの経験が傷になっていた。
 俺は迫ったりしなかった。童貞喪失に焦っているわけでもない。水香は俺を離れてひとりになるのも怖がっていたし、俺に迫られたら板挟みだ。俺も例の心身の支障で、端的な行為は躊躇われた。俺も水香も、軆を重ねるのは時間をかけたほうがよさそうだった。
 夏休み中、水香はほとんど家に帰らなかった。彼女には家を嫌う理由はないはずなのだが、なぜか帰りたがらなかった。もちろん俺は受け入れた。どこかの店や、道端、弓弦が誰かと愛し合っている部屋で、俺と水香は夜を越した。
 弓弦のところに邪魔をするときは、ベランダがあればなるべくそこにいく。配慮もあるし、見ていてもしょうがないのもある。ネオンに照らされる人の動きを鳥瞰するのが、俺たちの日課になっていた。
「弓弦くんって、男も好きなんだね」
 その日も俺たちは、取ってつけたようなベランダにいた。水香はそう言うと、部屋をちらりとする。今日の弓弦のお相手は男だ。ちなみに、弓弦はネコはしない。
「性別の観念がないみたいだな。男女以前にまず人間、というか」
「欲しいものは欲しいものって奴」
「好きになる相手はどっちの性別だ、って決めてないんじゃない」
「ふうん。あんたは女が好きなんだよね」
「と、思う」
「思う」
「俺、お前しか好きになったことないもん」
 水香は踊るネオンで俺を見た。「何だよ」と睨むと、水香は満悦そうに手すりに前膊を乗せた。この手すりは身を乗りだすと落っこちそうに低い。俺も気をはらって手すりにもたれる。
 頬にあたる風が涼しかった。単に俺の頬の熱が高かったからかもしれないが。水香は俺の赤面を見取ったようだ。
 息をついてしまう。俺たちは暗黙の了解の関係を保持していて、実は初めて気持ちを口にした。
「あたしは、あんたが初恋じゃないよ」
 水香を一瞥し、「あっそ」と無頓着に返した。水香は俺に顔を向けた。
「でも、あんたといると、今までが真似事だったって分かる」
 見つめ合うと、水香ははにかんだ。俺たちは軆を寄せ、ごく軽く唇を触れ合わせた。照れ咲いしあったそのあとは、景色を眺めた。
 俺の背が少し伸びたおかげで、水香は俺にもたれやすくなっていた。

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