理想
下の通りが活気づいてきた頃、弓弦に部屋に呼びこまれた。弓弦の相手をしていた男の子のすがたはなく、代わりにシャワーの音がしている。時刻は二時をまわっていた。
「眠たい」と水香はさっきまで情交が行なわれていたベッドに躊躇もなく横たわった。俺はベッドサイドに腰かけ、出逢ったときより長くなった彼女の髪を梳く。
男の子が戻ってくると、冷蔵庫をあさっていた弓弦は、彼に口づけをした。そして抱きしめて何かささやくと、さっさと部屋を送り出した。
水香が眠りこむと、彼女の髪から手を引いた。褪せたジーンズひとつの弓弦がそばに来て、透明な酒が入った瓶をよこす。
「この女、度胸あるよな」
「そう?」
「野郎同士がやったあとだぜ」
俺は咲って、瓶のふたを捻る。隣に座った弓弦が口にしているのは、鮮明なオレンジの酒だ。
「訊いてもいい?」
「んー」
「お前さ、どうなの」
炭酸混じりのグレープフルーツ味を舌に流していた俺は、弓弦に目をやる。
「どうって」
「水香とだよ」
俺は瓶を下げた。水香の寝息が聞こえた。
「水香と、ですか」
「うん。できてんの」
「………、俺は、好きだよ」
「んなの分かっとるわ」
「水香も、俺が好きだって」
「それも分かってる」
俺は考えて、首をかしげた。
「できてるって呼ばない?」
弓弦は畏れた顔になって、酒を飲んだ。
「何だよ」
「お前ら、もしかしてプラトニック」
「悪いか」
「悪い、っつうか──」
弓弦は何秒か真顔になり、噴き出して、そのまま笑い出した。俺は憮然と酒を飲んだ。弓弦は笑いを抑え、「ごめん」と一応みずから謝ってくる。が、まだ半分笑っている。
「謝るならまじめに謝れよ」
「いや、ごめん。怒った?」
複雑だった俺は、答えずに肩をすくめる。
「ごめんって。すげえなと思って。バカにしてるんじゃないよ」
「どこが」
「してない、ほんとだよ。お前が俺みたく、たらしにならないのは知ってる。水香はお前を尊重してるってことになるだろ。本物じゃん」
わずかに罪悪感に駆られる。弓弦には水香が輪姦されたのは伏せている。「誰にも言ってほしくない」と水香にも口止めされている。
「まあ、水香にも男を怖がってるとこあるか」
俺は弓弦を凝視した。
「知ってるのか」
「いや、こいつ、お前以外の男とははっきり距離取ってるし、何かあるなって分かっちまう」
「弓弦とは話してるぜ」
「俺はお前のダチだろ。お前がいなかったら、まとめて拒否されてたよ。要するにこいつは、お前が俺に惚れこんでるのは認めてるわけだな」
ふざける弓弦は小突いておき、俺はうつぶせになって眠る水香をかえりみた。
こちらが一方的に依存している、というわけでもないのだろうか。俺にとって水香が特別なくらい、水香にも俺が特別なのかもしれない。
「男は怖がっても、お前なら大丈夫なんじゃないかと思ってさ。にしては何の気配もないし。いやはや、ほんとに何もなかったんだな」
弓弦はまたもや笑う。だが、今回はそう長く笑わなかった。
酒を喉にすべらせると、笑ったのをきちんと謝り、「俺の立ち入る話でもないんだけどな」と反省を表わしてくる。俺は首を振った。
「ださいかな、軆を後にするのって」
「ぜんぜん。ただ、むずかしいよな。だからすげえなって言ったの。いいと思うよ、それがお前と水香なんだろ」
俺はうなずき、やっと咲えた。弓弦はどんなに揶揄っても、要のところは理解している。
「で、そっちはどう」
「俺」
「見つかった? 今日の子、かわいかったじゃん」
弓弦のおかげで、俺の根拠のない同性愛への偏見は払拭されている。
「ダメ。違う」
「お前のそれって、どういう基準なの」
「さあ。遠慮させない奴がいいな」
「遠慮」
「一緒にいて、気を遣わせない奴」
「……、わがまま」
今度は弓弦が俺を小突いた。
「多少は誰にでもあるだろ」
「お前にはないぜ」
「俺以上の奴を探してんの」
「お、妬きもち」
俺は弓弦をはたいた。弓弦はからからとして、「安心しなさい」と言う。
「お前はお前だよ。以上も以下もないの。まあ──俺が贅沢なのかって思ったりもするよ」
弓弦は黒い絨毯に脚を放る。鬱陶しそうにされると、その脚の長さは引き立つ。
「けっこう勝手だし、酷だしな。ひとりでもつきあってくれる奴がいるの、ついてんのかな」
俺は弓弦を見た。半眼が憂いを含んでいた。
こいつはこれで、俺よりはるかに繊細だ。いろんな人間をたらしているのが、誰かにいてほしいから、なんて俺しか知らない。水香も知らない。そこは弓弦との義理だ。もちろん、水香も俺と弓弦の世界を重んじて突っこんできたりしない。
俺は水香を盗み見る。俺は水香を見つけた。弓弦にも誰かいたっておかしくない。「いいんじゃない」と俺は言った。弓弦はこちらを向く。
「欲しいだけ探せば」
「そう思う?」
「うん」
弓弦はただちににっとして、「お前に言われると効く」と言った。俺が後押しすると、いつもそうして弓弦は迷いを吹っ切る。弓弦に信頼されているのを実感すると、嬉しいのと気恥ずかしいのが綯い混ぜになる。
弓弦のふるいが厳しい理由は、俺も解している。弓弦は一度信頼すると情が深く、自分をすっかり預けきってしまうのだ。心を交わさなくてもいい世渡りはこなせても、恋人や友達とは当たり障りなくできない。だが、誰だってあけすけな関係は傷をはらむので避けたい。大方の人間は、面倒は逃れて気分さえ悪くならなければいいと思っている。
でもなあ、と弓弦を盗視する。弓弦が理想の追求をやめ、信念に妥協しはじめたら俺は幻滅しそうだ。弓弦の本性を信頼しているのだし、そこが濁ったら信用できなくなる。
酒に口をつけた。何というか、俺と弓弦の関係は、やはりかなり貴重なものであるらしい。
言うまでもなく弓弦は信念を曲げたりしなかった。相変わらずいろんな奴をあさって、そのかたわらでこの街で顔を広げていく。弓弦が誰かと消えるのを見送ると、隣の水香と顔を合わせた。
「あんたと弓弦くんってさ」
水香はときどきつぶやいた。
「ちょっと恋人同士みたい」
俺は言われるたび顰蹙した。水香はその反応を笑う。
「男の友情って、本物になると恋愛っぽいのかな」
「俺は弓弦には興味ないよ。恋愛としては」
「分かってる。あたしも本気では思ってない。弓弦くんに嫉妬しないもの」
俺は水香を小突いて、その手を引っ張った。俺と水香は街を歩くときははぐれないように手をつなぐ。意識するとおもはゆくなるので、つないでいるあいだはつないでいることを忘れる。
俺の手は男っぽくごつごつしていなくて、なめらかだ。だけど、水香の柔らかさには敵わない。真夏のねっとりした空気に汗ばんで、手がすべりそうになると、無造作に握り直す。
夏の毎日を、そんなふうに水香と手をつないで、ふらふらと過ごした。
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