自立
俺と水香は片時も離れなかった。
彼女は何日も家に帰っていない。「あんたのそばがいいの」と水香は言った。何やら真剣な面持ちだった。気になっても、「ふうん」と流して問いつめたりしなかった。
弓弦はつばめを脱皮しようと、いろんな仕事を試している。俺はそれを手伝って、小遣いを稼いでいる。この街は年齢なんて関係なくて、仕事を始めると弓弦の名前はますます強くなった。
弓弦が冷徹だ、という巷の評判に笑ってしまう。俺といれば、やっぱり弓弦は単なる悪ガキだった。
暑さはやわらいでいなくても、耳をおかしくする蝉の声は廃れ、カレンダーでは夏は終わろうとしていた。
俺はもう学校に行かないつもりだった。ねぐらの部屋も手に入れ、仕事を探す弓弦もそうだろう。俺は隣の水香を盗み見る。彼女はどうするのか。その疑問はやってきた新学期で明らかになった。水香も学校を放棄した。
水香の男への恐怖は相変わらずで、俺には寄り添っても、ほかの男とは距離を取っている。男がいるとしめしておかないと水香は魅力的だったので、俺は彼女の肩を抱いて守った。
水香が犯された日を回想する。水香を犯していたのはふたりだった。あのふたりは、なぜ水香を犯したのだろう。憎しみがある様子ではなかった。愛情の暴発にしては残酷だった。誰でもよかったのか。たとえば、水香は家に帰りたがらない。まさか、あの男たちが家にいるわけではないだろうし──。
残暑がいさよう頃、水香は俺に何か言いかけ、口をつぐむ所作をくりかえすようになった。ひと押しすべきか、そっとしておくべきか悩んだ。結局、決めたのは水香だった。熱に揺れなくなった空が澄み渡る秋冷の日、水香はみずから躊躇を破った。
「あのふたり、幼なじみだったの」
夕暮れ時、駅前の大通りだった。俺たちは並んでガードレールに腰かけていた。さっきまで水香は俺の胸で泣いていた。
数十分前の彼女の目覚めは最悪だった。ひどくうなされていた彼女を、俺が見兼ねて引っぱたいて起こしたのだ。
水香はぐずるのを落ち着かせると、俺の手を取って静かに唇に言葉を紡いだ。
「幼なじみ」
「隣とお向かいでね。あたしが男っぽいときがあるのも、あのふたりのせいじゃないかな。小さい頃から一緒だったの。信頼してたし、友達だった」
目の前の歩道をせわしなく人が通り過ぎていく。背後を行き交う車が排気ガスを吐いている。
「それが──何でかな。分かんない。ショックだった。ぜんぜん知らない人にされるより、たぶん。突っこまれるばっかりでさ」
避妊はしたのかと思った。口にはしなかった。とりあえず一回目の奴はしていなかったが、二ヶ月は経っているし、どうやら妊娠はしなかったわけだ。
「あの日もやるだけやって、何の説明もなく放っていかれちゃった。あれ以来、会ってない。あのふたりが隣と向かいにいるんで、家にも帰りたくないんだ。親にも言えない。信じてもらえないと思う。親は親で仲がよくてね、話したって『バカなこと言わないで』ってこっちが怒られるのがオチなの。うちの親はあのふたりがそんなことするわけないっていうのを曲げられない。あたしだって、まだどっかでは信じられないし」
何とも返せず、水香の手を握りしめた。
正直、俺には彼女の気持ちが測りかねた。信頼していたものに裏切られた、という経験が俺にはない。もちろん、水香のされたことも心をえぐるのは分かる。
「あたしって、あのふたりの何だったのかな」
水香は俺の肩に頭を乗せる。俺はその問いの答えを知っていたけれど、ひどすぎるので黙っていた。その自問は俺も何度もした。自分は親にとって何なのか。
水香は男物のジーンズを穿いた脚をぶらつかせ、あの弱い瞳で咲った。
「複雑だな。あの日、あのふたりに何もされてなかったら、あたしはあんたと他人だったんだよね。哀しむのか感謝するのか、どっちにすればいいんだろ」
彼女の伸びた髪は、俺の肩から腕に艶々と流れる。俺は水香の髪を撫でた。
「あっちもあたしを避けてるみたい。あんたとこうなっちゃったじゃない。あんたに何かされるんじゃないかって怯えてるんだね」
「………、何か、手、まわす?」
水香はかぶりを振った。
「忘れる──のはできないか、あたしの一部にして埋めるよ。どうってことないことと一緒にして」
「できるのか」
水香は俺を睨んだ。
「死ぬまで男にビビって暮らせっての」
「………、いや」
「あいつら負け犬なんだよ。堂々と誘えばいいくせに」
空を仰いだ。夕暮れが夜に飲みこまれそうになっていた。
誘われていたら、水香はどう応えていたのだろう。訊きたかったけど、彼女を悩ませるのはやめておいた。
俺は水香を労わって見つめる。
「そういうのってさ、たぶん、よくあるんだよ。水香ひとりじゃない」
「え」
「思いがけない奴にそんなことされるって」
「……そうなの」
「たぶんね。で、そういう加害者って絶対それを忘れるんだ。俺の親だってさ。俺が家に帰らない理由、分かってないと思う」
「分からないの。忘れられるもんなの」
「傷つけるほうはね。こっちはたまったもんじゃなくても、あっちはその行為でこっちが傷つくとは、思いも寄らないんだ。それか、そう当たるのが当然だと思ってる。何も特別なことがなかった日は、何年か経ったら記憶に存在もしてないだろ。それと同じ。そういう奴は、いつかほかの奴が自分と同じことやっても、平然とそれは悪いことだって言う。自分がしたことは忘れてるからな」
「無神経だよ」
「そんなもんだよ。自覚も罪悪感もない。だから、そういうのはなくならないんだ」
「常識なさすぎ」とぶつぶつする水香を俺はなだめた。水香は俺にもたれなおし、俺も水香の肩を抱き直す。
人通りを眺めていると、「言えてよかった」と水香はつぶやいた。俺はうなずき、彼女の髪に頬をあてた。
水香に言ったとおり、俺は家に帰らなくなっていた。もうあの家は必要なかった。自分で衣食住をこなせる。稼いだり盗んだりして、金を自分で調達できる。弓弦の部屋やそのへんの店や、それがなければ道端で眠るずぶとさも培った。暴力を代償にしなくても、自力で命を保存できる。
俺は十三にもなっていなかったけど、その独立は“早くも”ではなく“やっと”だった。俺はやっと、親に依存しなくてはならない無能力者を逃れたのだ。
忌ま忌ましい痣も死滅した。五感も自由に広がっている。瞳や耳は、弓弦の得意げな笑みやふざけた揶揄を取り入れる。嗅覚には水香の女の子の匂いがして、味覚にはちょっとだけ深化した口づけの味がする。肌には痛みという壁もなくなり、きちんと現実を生身で受け止められた。
心も癒えた、と言ったら虚勢になる。癒える日が来るとも思っていない。疼くのが自分の体質だとし、感情を削って忘れるしかない。そして、生き埋めではなく埋葬する。心の亀裂は、捨てたり消したりできない。
こういうことを考えられるようになったのは、あの家を離れたおかげだ。まだあの家にいたら、傷口を消してしまおうとそこをかきむしり、なおさら裂け目を深めていただろう。あの暗い地獄を抜け出した俺は、情動を制御し、静かに内観できるようになっている。
父親には殴られ、母親には罵られ、俺はその境遇を泣くことさえ禁じられてきた。生死の狭間にいたあの光景は、かすれてはいなくても、生々しくもない。幼かった自分がきちんと遠くなっている。
両親のことは憎んでいるが、虐待された経験は許せてきている。俺があの経験を克明に憶えているのは、感情を孕みすぎているせいなのだ。感情を削いで乾燥させれば、俺はあの経験を不死身から解き放てる。あの光景を過去という柩に眠らせることができる。
弓弦や水香を得てつかんだ安穏が、俺にそうした現実を悟らせるゆとりをくれる。ばらついていた精神は、ゆっくりとひとつに編みこまれていっている。
そんな中で、短い秋はあっけなく冬に取って変わられていた。
【第九章へ】
