僕が死ぬ前に
病院が水波くんを呼ぶということはできないらしく、お医者さんにひとりにしてもらってから、僕は起き上がって荷物から取り出したスマホを見つめた。
メール。電話。どっちがいいだろう。
ちゃんと話したいし、やはり電話だろうか。文字だけではうまく伝えられないかもしれない。会って話したいからこの病院に来いとか、文面では警戒させるだけの気がする。
電話にしよう。そう思って水波くんの番号を呼び出した。しばらく指をうろつかせたものの、思い切ってタップする。そして、スマホを耳にあてると、コールが響く。
出るかなあとそわそわと心配していたら、案の定、留守電につながってしまった。三分以内で伝言を。三分、と話をまとめられるか畏まりながらも、ピーッと電子音が鳴って、口を開こうとしたときだった。
『……もしもし』
あ、と軆をこわばらせる。もちろん、水波くんの声だ。
「み、水波くん。あの、えと……」
『何だよ』
「ご、ごめん。さっき」
『………、もういい』
「でも、僕──」
『あいつに言われたんだろ』
「えっ」
『許してやってくれって頼めとか』
「……昔、のこと、聞いたよ」
『好きだったんだから許せとか言うんだろ』
「言わないよっ。そんな、……言うわけないよ」
『………、』
「水波くん、だよね」
『……は?』
「僕のこと、殺したら、先生は……地獄に堕ちた気分だよね」
『───』
「話がしたい。僕、今、妹がいる病院にいるんだ」
『……お前を殺せば、あいつは一番苦しむ』
「うん」
『会ったら、分かるだろ』
「隠して、持ってきていいよ」
『……え』
「死ぬ前に、水波くんの友達になるから」
『は……?』
「水波くんが楽になるなら、いいよ。それで怨みが晴れるなら構わない。水波くんがどんなにつらかったか、僕には分かるわけないけど、味方にはなれるよ」
『味方、って』
「一緒に、先生を地獄に落とそう」
『………、お前、あいつが好きなんだろ』
「好きだよ。信じたくないよ。でも、だから許せないよ。間違ってるって分かってほしい、僕が死んでみせてでも」
沈黙が流れた。それから、水波くんはゆっくり病院の名前と場所を訊いてきた。僕はそれを伝えて、「受付に行けば、今いるところに通してもらえるように言っておくから」と言い添えた。
メモを取ったらしい水波くんは、小さな声で『あいつが好きなんだな』とつぶやいた。
「水波くんも、好きだよ」
『……俺がお前を奪えば、それもあいつには地獄だろうな』
「でも、男は嫌でしょ?」
『ん……あの日も、帰ったら吐いた』
「うん」
『ごめん』
「友達なら、何も怖くないんだよ」
『そうかな』
「最期に、水波くんの友達になるよ」
『……最期』
「僕は、先生と水波くんのために死んでいいって思う。先生にも、水波くんにも、それしかできない」
『強いな』
「バカだよ」
『………、お前が死んだら、俺はもう、あの音を聴かないのかな』
「音?」
『……そっちで話す。すぐ行く』
「うん」と僕が答えると、電話は切れた。僕はため息をついて、窓の向こうの並ぶ病棟の隙間の青空を見た。
死ぬのか、とぼんやり思った。なぜ、こんなに怖くないのだろう。僕のこと。聖音のこと。水波くんなら実行しかねないのは思い知っている。
それだけ、僕は自分にできることが分からないのかもしれない。先生のために。水波くんのために。僕さえ死ねば先生は苦しみ、先生が苦しめば水波くんは楽になる。苦しんできた水波くんが楽になるなら、僕の命なんて──
水波くんを通してもらえるよう、誰かに伝えておかなくてはならない。ベッドを降りて廊下に出ようとして、ドアを開けてすぐ、人影があってびくっとした。
聞かれたのか、とひやりとしたものの、生気のない瞳でそれが聖音だと気づいて、少しほっとした。聖音は僕を見上げてくる。僕は曖昧に咲って、「聞こえた?」と訊いた。聖音はこくんとした。「そっか」とつぶやいて、僕は静かに聖音を抱き寄せて、ショートカットの頭を撫でた。
「もうすぐ終わるからね」
「死ぬ、って」
「うん」
「おにいちゃんが?」
「……それしか方法がないからね」
「分かんない、よ。どうして、おにいちゃんが……」
「それでも好きだから、罰なんじゃないかな」
丁重に軆を離すと、聖音の瞳に微笑みかける。聖音の瞳に色が宿って、流れても冷たく見えていた涙が、温かくすべっていく。
そこに看護師さんが通りかかった。僕はその看護師さんに「よかったら、ちょっと眠らせてあげてください」と聖音を預けた。うなずいた看護師さんに、水波くんをここに通してほしいことも伝える。
「おにいちゃん」と聖音がわがままを言うような声で僕を振り返る。僕は何も言わずににっこりとして、クーラーをつけてもらっている部屋に下がった。
いくつか並ぶ空のベッドの中で、さっきまで横たわっていたベッドに腰かけた。膝の上で手を握って、罰か、と自分の言葉を思い返した。
確かに、そうなのかもしれない。自分の心が、罪悪感でこんなに重たい。いっそ簡単に嫌いになったら楽なのに、それでも好きだ。もし隣にいて、この手に手を重ねてくれたら、なんて。先生のことが、どうしても愛おしい。
あのときは、怖いと思った。気持ち悪いとさえ感じた。それでも、先生が嫌いだなんて思えない。
あんなに愛してもらった。心も、軆も、愛おしんでもらった。先生に抱かれるのが好きだった。先生と話すのも好きだった。
もし先生が水波くんに土下座して、教職を捨て、遠くに行くなら、ついていきたいと思ってしまう。そしてその先で、こっそり僕だけ先生を許したいと思ってしまう。
でも、先生が罪を認めないなら、のうのうと生きていくというのなら、僕が死ぬことで先生を絶望させよう。それくらい、好きだ。尊敬したままの人でいてもらうために、自分など死んでいいくらい、先生のくれた優しさが好きなのだ。
けれども、そんな自分が許せない。実の弟を、卑劣に辱めた人を憎めない自分が忌ま忌ましい。蔑んで当然の人を、尊敬する自分が汚らわしい。
だから、何だか僕は、それが耐えられなくて死んでいいと思ってしまうのかもしれない。もし僕が死んだら、許してはならない人を許したいこの恋慕への罰だとも、思うけれど。
水波くんが来る前に、病院にはおかあさんが駆けつけてくれた。介抱してくれたお医者さんの前であんなに泣きじゃくってしまったせいか、ひどく心配されてしまった。「おとうさんも来るから」と言われたけど、僕は話したい友達に来てもらうから、そのときはふたりにしてほしいと頼んだ。「友達」とおかあさんはちょっと気の抜けた顔になって、それからなぜか困ったように咲った。
「優織にも、真っ先に相談したくなる友達ができたのね。ごめんね、こんなときなのに、それはおかあさん嬉しいな」
僕も困ったように咲ってしまった。そうだな、と思った。僕にまったく友達ができなくて、両親はずいぶん心配してくれていただろう。
でも、これから会うのは、友達になる人だけど、その前に僕を殺そうとしている人だ。何だか申し訳なくて、「ごめんね」と言うと、まさかそういう意味だなんて知らないおかあさんは、首を横に振った。
やがて、おかあさんの背後でノックが聞こえた。「優織くん、お友達の子が来たよ」とさっき聖音を連れていってくれた看護師さんが顔を出し、おかあさんは看護師さんに頭を下げて、看護師さんもそうする。
看護師さんの後ろから、ふてくされたような表情の水波くんが現れた。リュックを連れている。僕は小さく咲った。水波くんは僕を見、さりげなく視線を床に落とした。
「優織くん、もし、つらくなかったらだけどね。お友達に相談すること、先生にも話してみてね」
そう言った看護師さんと共に、おかあさんも部屋を出ていき、僕と水波くんは明るい白い室内にふたりきりになった。廊下の物音はほとんど入ってこない。
しばらく、僕も水波くんも動かなかった。水波くんが先に疲れたような息を吐いて、のろのろとベッドに近づいてきて、僕の隣に腰をおろした。そしてかたわらにリュックを放って、「頭痛い」と言った。
「え」
「……すごい聞こえる」
「聞こえる、って」
「いろいろ。思い出すんだ」
僕は、水波くんの気だるさが滲む横顔を見つめた。水波くんは視線を宙に浮かせ、何も見ずに空を見つめる。頭の中を整理しているのだろうと僕は黙っていた。
「あいつが」とふと虚ろで低調な声を水波くんは発した。
「自分のこと、どう話したかは知らないけど。けっこう……むごかった」
「……うん」
「俺は、男とか考えられないからかもしれないけどな。何で……あんなもん口に入れるとか、ケツにぶちこまれるとか」
「………、」
「すごく、怖かった。口に出されてまずいし、中に出されて下痢になるし、顔に出されて臭いし。終わったあとも、抱きしめられたまま、寝なきゃいけなかった。『好きだよ』って何度もあいつは言ってたけど、あんな奴の好意、くそくらえだ。憎まれたほうがずっとマシだった。指一本触れてきただけで、ほんとは泣き出して突き飛ばしたかった。そんなのが毎日だ。かあさんが気づいてなかったら、いまだに続いてたのかな。首くくって死んでたかな」
何とも言えない。だって、僕には先生とのそれは、自然な行為だった。
先生も、純粋な愛情表現のつもりだったのかもしれない。幼い子供にやることではなくても、好きで好きで仕方なかったら分からない。出されて、抱きしめられて、「好きだよ」とささやかれて。僕はまったく同じことをされて、先生に愛されていると幸せを感じてきた。
しかし、行為が一方的になるだけで、愛情はそこまで恐怖になるのだ。
「こっちに戻ってくることになって、またあいつに何かされるんだって、夜も眠れなくて。あの中学には四月から転入するはずだったんだ。でも、怖くて引っ越してきて、すぐ部屋に引きこもった。助けてくれたかあさんが、女手ひとつのせいで過労死したのもショックだった。あいつはひとり暮らしの部屋から、やっぱり俺のいる実家を訪ねてきた。でも、強引に部屋のドアは開けなかったし、零時前になるとどっかに電話してそのまま帰っていった。電話を盗み聞いて、お前のことを知ったんだ。もう、頭が正常じゃなかった。あいつが苦しむなら何をしてもよかった。あいつを尾けて、お前の帰り道調べて。車の中でいちゃついてるのも見た。お前があいつの幸せなら、お前を殺そうと思った」
「……ん」
「いつも殺意にたぎってたわけじゃない。それなら、もっと何度も襲ってたし。俺、自傷するときがあってさ。それで済むならいいんだけど、いくら切っても、血をいっぱい流しても、いらいらするときもあって。神経が感電してるみたいな、吐きそうなうざったさが取れるなら何でもよくて、もうどうなってもいいやって、いっそ死刑になればいいやって──そこまでいったとき、お前を襲った。うまくいかなかったから、簡単にひと突きで殺せるもんじゃないんだなって、いったんあきらめたけど。またぐちゃぐちゃしたとき、お前だって確認もせずに、妹のことを間違えて刺した。お前のときも、妹のときも、頭の中にすごい音がしてるからあんまり記憶にないんだけどな」
「音……?」
「あいつのあのときの息遣いとか、声とか。動くときの音とか。忘れられないんだ。頭の中に残って離れない。切るときとか、刺すときとか、ナイフを持つとその雑音みたいのが強くなる」
水波くんはリュックを膝に乗せて、中からタオルに包んだものを取り出した。
窓の日射にぎらついたのは、やはりナイフだった。
【第十二章へ】