ナイフに宿る音
ナイフに触れると、確かに雑音が聞こえてくるみたいで、水波くんは苦しげに眉を寄せる。僕はしばし足元に視線を投げていたけども、覚悟を決めて顔を上げた。
「水波くん」
「うん」
「僕を殺したら、水波くんは楽になる?」
「……たぶん」
「もしそうなら、僕のこと殺していいよ。許せない、と思う。先生のことも。自分のことも。先生も僕も、水波くんにめちゃくちゃにされて当然なんだ」
「あいつは……地獄に行けばいい。でも、お前を殺すのは正しいのか分からないよ」
「僕は先生が好きだよ。水波くんが今見逃したら、先生を勝手に僕が許すよ」
「許す……」
「そんな自分が、ほんとに嫌になるけど。僕は生きてたって水波くんを踏み躙る人間なんだ。だから、水波くんにここで殺されていいと思う」
水波くんは、重苦しい瞳で僕を見た。僕はその目を見つめ返した。水波くんは睫毛を伏せ、深く息を吐くと、そっとナイフをつかんだ。ぎゅっと握りしめて、ゆっくりと持ち上げて、ちぎりそうに唇を噛む。
それからこちらに目を向け、無抵抗の僕の喉にナイフを押し当てた。硬い刃がひやりと伝わり、静かにその刃は僕の体温に染まっていく。さすがに、少し肩が硬くなる。
唾を飲むと、圧される喉にごくりと音が響いた。水波くんの息遣いが唇からもれる。震える。泣きそうになってくる。
「音が……する」
そうつぶやき、水波くんの表情がゆがむ。
「うるさい……っ」
そして、ナイフがひと息に引かれそうになった。
が、その前に手首ががくっとおののき、水波くんの手からナイフがこぼれおちてしまった。ナイフは、床でなくベッドに転がる。
水波くんの瞳から、大粒の雫があふれてくる。ついで頭を抱え、いやいやと首を振る。
抑えつけられていた呼吸を整えた僕は、水波くんの肩に触れ、警戒されないのを確認してからその肩を抱いた。
「水波くん──」
「殺せない」
「え……」
「殺せないよ。だってお前は、あいつを幸せにしたくないって死のうとするまで、俺を分かってくれてるじゃないか」
「………、友達になるって言ったでしょ」
「あいつの恋人だ」
「水波くんの友達だよ」
水波くんは頬を濡らしながら、僕を見た。窓からの光で涙がきらきらしている。
「殺したく、ないよ」
「………、」
「友達のことは、殺したくない。俺のことを、そこまで分かってくれてる奴を殺したくない」
僕は水波くんの頭にこめかみを当て、死んだほうが楽だけど、とわずかだけ思った。水波くんがそう思うなら、僕はそれを尊重する。何よりも尊重されなくてはならないのは、水波くんの気持ちだ。
「じゃあ、僕が水波くんを助けるよ」
「……え」
「僕、先生と別れる」
「えっ」
「そしたら、先生は幸せじゃなくなる」
「で、でも、お前は──」
「好きだよ。だけど、そんなことはどうだっていい。大切なのは、水波くんが少しでも楽になることだよ」
「………、」
「もう、ナイフは持たなくていいよ。消えない音が聞こえてくるんでしょ。怖いでしょ、そんなの。忘れたいのに思い出すだけで。僕が水波くんの代わりに先生を突き落とす。そしたら、水波くんにナイフはいらない」
水波くんは段々と視線を落とし、僕の腕の中で目を閉じたけど、それでも涙がまぶたからあふれてきている。
「僕を殺さなくても、僕が先生を突き放して不幸にする。水波くんは思い出さなくていい。思い出してまでナイフを持って、人を殺すなんてしなくていいんだ」
「……でも、」
「僕は、水波くんの味方だから。先生を幸せにしちゃいけないって、それは僕も思うよ」
水波くんは、弱い声をもらして泣いた。わずかに不安はあった。僕と先生が別れる。それで先生が絶望すればいいけど、もしまた水波くんに目を向けたらどうしよう。
そのためには、やはり水波くんは、事実をおとうさんに打ち明けたほうがいいのだろうか。それを言うと、水波くんはかぶりを振り、深呼吸してから「このまま警察に行く」と噎せんで腫れぼったい声で言った。
「え、警察に話すよりは──」
「違う。どっちみち、俺はお前とお前の妹のことで捕まらなきゃいけない」
「……あ、」
「それで、警察とかに動機とか全部話して、それでどうにかなるかは分からないけど。少なくとも、あいつとは隔離してもらえると思う」
「いい、の? つらいよ」
「つらくても、無関係の奴に、それだけのことをやっちまったのが事実だから」
水波くんは緩く僕と軆を離し、赤くなった目をこすった。
警察。捕まる。そんなことまでは考えていなかったけど、水波くんが償いたいなら、無論僕は止められない。
「先生は──逮捕、してもらえないのかな」
「捕まるかもな。俺のことじゃなくて、生徒のお前に手出ししてるって件で」
「そっ、か」
「お前があいつとそういう関係だって、話していいか?」
「うん」
「お前も、俺が犯人だとか医者に話していいから」
「……分かった」
水波くんは吐息をついて、のろいまばたきで涙をはらうと、シーツに転がっていたナイフをタオルに包んでリュックにしまった。ベッドから立ち上がると、僕を見下ろしてくる。僕も水波くんを見上げる。
「また会えるかな」と僕が言うと、水波くんはちょっと咲って、「あの日みたいに、遊びに行こう」と言った。一緒にCDショップに行った日が思い返り、「そうだね」と僕もちょっと咲う。
「じゃあ、元気で」
水波くんはそう言って、ドアのほうへと歩き出す。僕をそれをじっと見送り、水波くんが部屋を出ていくと、ぱたん、とベッドのエタノールの匂いに倒れた。目を閉じると、少しのあいだ、夏の光が泳ぐシーツの上で僕はほろほろと泣いた。
先生に好きだと伝えたとき、先生には好きな人がいた。おそらくそれは、水波くんのことだった。先生にとって、水波くんはきっと純粋な恋愛対象だったのだ。男に応えない水波くんには、その行為はひどい苦痛であったのだけど、先生は水波くんがただ好きだったのだと思う。
両親や病院に水波くんのことを話す前に、先生に会おうと思った。きっと先生も捕まる。最後に会って伝えなくてはならない。
ここで終わろう。そして、僕は──。
水波くんが去って、聖音の病室にいた両親の心配をかわして、僕は先生に電話をかけた。先生はすぐに電話に出て、病院まで来ると言った。
僕は表で先生を待った。ゆったりと夕暮れが始まろうとした。先生は車でやってきた。駐車場まで歩いて、いつもの助手席に乗りこむ。先生は僕の手をつかみ、引き寄せてきつく抱きしめてきた。
たくましい腕の中からオレンジ色を見つめ、ずっとそばにいてくれるかと、先生に問われたことがあるのを思い出した。それは、そばにいられなくなるのを、先生も分かっていたからなのだろうか。
先生は僕に優しく口づけて、短く舌を絡め、「碧が好きになった?」とかすれた声で訊いてきた。僕は咲って首を横に振って、「でも、先生とは別れるね」と言った。先生は眼鏡の奥を痛めて、「今はもう、ほんとに優織が好きなんだ」とつないだ手に力をこめた。
この指に頭を、軆を、軆の奥を愛してもらった。その甘い麻酔がよみがえると切なくなったけど、「僕も先生が好きだけど」と身を引いた。
「一番大切にしなきゃいけないのは、もう先生じゃない」
「それでも、優織が好きだよ」
「うん」
「優織のこと、好きでいれば……いいのかな」
「……うん」
「それで、報われない気持ちで苦しめば、……いいのかな」
泣きそうに細くつぶやいた先生に、僕はもう一度身を乗り出して、先生の口元にキスをした。
「先生のそばにいたら、先生を許してしまいそうだから。それは、ダメだから」
「許してくれない?」
「許しちゃいけない」
「………、碧のこと、想ってるんだな」
皮肉にも聞こえたけど、そうじゃない証拠に、先生は哀しそうに咲っていた。僕は体勢を戻して息をついてから、車を降りようとして、引き止めない先生を振り向いた。
「先生」
「ん」
「ずっと、先生が好きだよ」
「えっ」
「僕が気持ちを殺さないのは──それは、自由だよね?」
「優織……」
「先生がどんな人でも、僕は先生は優しい人だって、憶えてるから」
「………っ、」
「先生に抱いてもらえて、僕は幸せだった。ありがとう」
「……優織っ、」
僕は断ち切って車を降りて、ばたんっとドアを閉めた。橙々が透き通る窓の奥で、先生がうなだれて泣き出すのが見えた。
僕も身を返して、聖音を病室を目指して病院に戻りながら、ぎゅうっと締めつけた喉に嗚咽をもらした。夏風がぬるく髪を揺らして、視界が夕陽で陸離ときらめいた。
水波くん。ちゃんとやったよ。先生を傷つけて泣かせたよ。こんなのじゃ足りない苦しみが、水波くんには焼きついてると思うけど、きっと水波くんがしたかったことは果たした。
だから、もう安心してナイフなんか捨てて。頭の中の忌まわしい雑音からは、少しずつ遠のいて。
僕が先生に教わったような、温かい抱擁や優しいキス。水波くんも、そういうものを愛おしく思える日が来てほしい。そう思える女の子を見つけて、君だけは幸せになってほしい。
愛して。愛されて。そうして抱きあった人の息遣いなら、柔らかに心を溶かしてくれる。
どんなに深い傷であっても、それはきっと君をゆっくりと癒してくれる、僕はそう信じているから。
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