romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

Noise From Knife-2

好きだった人

「じゃあ、気をつけて」
 公園沿いのマンションへの一本道の入口に横づけして、先生は僕を見送ってくれる。僕は足元に置いていた荷物を持って、「先生も仕事頑張ってね」と先生を見た。「ありがとう」と先生は僕の頭をぽんぽんとして、「また明日」と微笑んでくれる。
 明日。明日も先生に会える。僕と先生は、学校の外では会わない。だから、これが週末だと本当につらいけど、明日は平日だ。
 僕は車を降りて、ドアを閉めると窓の向こうの先生に手を振った。先生もそうしてくれる。僕は身を返して、昼間はマンションに暮らす子供たちで賑わうけど、今は静まり返る公園に沿った小道を歩き、ガラス戸を押してマンションに入った。
 僕の家は三階で、狭いけどエレベーターがある。この時間帯は乗り合わせることも少ないから、それを使う。鍵は自分で持っているもので開けて、「ただいま」と声をかけると、「おかえりー」とおかあさんより早く、妹の聖音きよねが顔を出す。
 似たようなショートカットだし、中学生になったばかりにしては聖音には身長があるし、よく僕と間違われたり、あるいはふたごかと言われたりする。兄妹にしてはわりと仲もいいから、お互い、特にそれが気に障ることはない。
 僕がスニーカーを脱いでいると、「おかえりなさい」とおかあさんもいい匂いがするキッチンから現れる。
「今日も遅かったね。何だか、補習してくれてる水波先生に悪いわね」
 当然、親にはそういうことにしている。
「やっぱり、塾に通ったほうがご迷惑じゃないんじゃない?」
「別にいいじゃん、担任ならただでしょ?」
「『ただ』って、聖音、そういう言い方はね──」
「先生が空いてるって言ってくれてる日だけだよ。会議のときとかは邪魔してないし」
「そうそう」
「うーん、それでもねえ」
「おにいちゃん、いいから着替えてきなよ。おとうさんももうすぐ帰ってくるから、ごはんだよ」
「ん、分かった。おかあさん、僕もちゃんと、先生の都合訊いてやってもらってるから」
 先生に甘えていていいものかと、首を捻るおかあさんにそう言って、僕は自分の部屋に入った。カーテンやシーツが落ち着いたエメラルドだから、全体的に緑色でまとまった部屋だ。
 本棚には、教科書や参考書以外も、辞書とか図鑑とかで漫画は少ない。小説はあるけど、文学でなくラノベだ。原作が好きだから、展開が端折られがちのコミカライズはあんまり読まない。
 テレビはないけど、ノートPCがあって、それがコンポの代わりになっている。音楽は、CDを買うよりBGM動画で済ますからだ。
 荷物を下ろすと、ひとまずクローゼットを開けて、学ランからTシャツとジーンズになった。まだ夜は冷えたりするから、薄手の長袖だ。学ランはハンガーでカーテンレールに引っかけると、僕はベッドサイドに腰かけて、かばんからスマホを取り出した。
 着信を確認すると、先生から夜に少し電話できるというメールが来ていた。「やった」と思わずつぶやいて、頬に笑みを含んでいると、ノックが聞こえて「何?」と慌てて顔を上げる。
「あたしー」
「あ、入っていいよ」
 画面を落としながら答えると、聖音がひょいと顔を出してくる。
 似てる、と言われても、聖音が男の子に見えるわけではない。どちらかといえば、僕の瞳の丸さや頬の線、柔らかな体格が女の子に見える。この容姿はかなりコンプレックスで、早く男らしくなりたいのだけど。
 聖音はドアを閉めてから、僕の隣に座った。
「今日も水波先生といたんだよね」
「うん」
「水波先生とか、おにいちゃん、やっぱすごいなー」
「そ、そうかな」
「だって、あたしのクラスにも、あの先生はかっこいいねって言ってる子がいるもん」
「先生、一年生にももう知られてるんだ」
「うん。三年生しか受け持ってないよね」
「今年はそうだったと思う」
「自慢できたらいいのにな。水波先生はおにいちゃんの彼氏ですよーって」
 照れ咲いをして、「女子に殺される」と言うと、聖音はからからと笑った。
 聖音だけ、僕と先生のことを知っている。同時に、僕が男を好きになることも知っている。ひとりで悩んで苦しんで、泣いていたとき、「あたしは絶対、おにいちゃんの味方するから」と言われて、心細さにすべて告白した。
 当時小学六年生だった聖音は、驚いたものの僕を蔑んだりしなかった。僕の相談をよく聞き、励ましてくれるようになった。どちらが年上なのか、分からないぐらいだ。
 とてもしっかりした子で、僕は聖音のこともすごく大切に想っている。家族に聖音がいてよかった。分かってくれる存在がいるから、今は欺いているおとうさんとおかあさんにも、いつかは本当のことを話せる気がしている。
「聖音は、彼氏とか作らないの?」
「作ろうかなって作れるもんでもないよ」
「でも、最近は小学生でもつきあったりしてるんでしょ」
「確かにいるけど。あたしは部活が楽しい」
「バスケ?」
「うん。まだ基礎ばっかだけどね」
「試合とか出るときは、応援に行くよ」
「うん。まあ、一年のあいだはなさそうかなー」
 聖音はその長身を生かして、小学生のときから部活はバスケをやっている。勉強のほうが得意な僕はよく分からなくても、なかなか強いらしい。「頑張れ」とその頭に手を置くと、聖音は僕を見て咲って、うなずいた。
 それからおとうさんが帰宅して、四人揃ってあさりのパスタの夕食を取ると、順番にお風呂に入りつつ、リビングで過ごした。おとうさんも先生に補習してもらっている件を気にして、ただし、塾に行けと言うよりは、「優織はそんなに成績悪くないのになあ」と言う。僕はちょっと咲って、「受験生だしね」と答えておいた。
 すると、高校の志望はどこなのかとかいう話になって、そこはまだ具体的に考えていなくて困ると、「もー、すぐ決めさせなくていいじゃん!」とお風呂を上がった聖音が助けてくれる。僕が入浴でほかほかの匂いになったのは二十一時前で、「宿題やるね」と言って、リビングでなく部屋に行った。そしてスマホを脇に置いて、黙々と宿題をやる。
 先生はいつもけっこう遅くまで起きていて、一時くらいに電話が来ることもある。零時過ぎは、さすがに前もってメールで起きているかは尋ねてくれるけど。
 その日は十一時半くらいに電話着信があって、宿題を終えて好きな作家さんのブログやSNSを見ていた僕は、すぐ『応答』の方向にスワイプした。「もしもし」と耳を当てると、『まだ寝てなかった?』と心配する先生の声が耳に直接響いて、「大丈夫」と言いながら、ぎゅっと抱きしめてほしくなる。
「先生は、まだ仕事?」
『ああ。部屋に帰ってはいるけどな。今日も日づけ変わりそう』
「そっか。あんまり無理しないでね」
『うまくかわして、定時で帰る先生もいるのになあ。というか、それが俺にまわってくる』
「はは。分かる気がする。僕もクラス委員の仕事、ぜんぜん手伝ってもらえない」
『パートナーは崎田さきた(さきた)か。クラス委員、優織も無理してないか? あれ、ジャンケンに負けただけだろ』
「うーん、体育委員よりマシなのかもしれない」
『体育は小井おい先生か。俺もあの先生、苦手だな』
「先生が先生のこと苦手なの?」
『「あんまり不用意に女子を浮き足立てないでください」とか、言われたことがある』
「先生のせいじゃないのに」
『妬いてたのかな』
「あ、そうかもしれない」
『小井先生は、あんまりモテる感じじゃないよなあ』
「僕も好きじゃない」
 先生は含み笑って、『この話は内緒な』と言った。「うん」と僕も笑ってしまう。
『優織』
「うん」
『来年、中学卒業したらこの部屋に遊びにおいで』
「えっ」
『相変わらず仕事多くて、そんなに構えないかもしれないけど。そばにいるだけでも』
「先生──」
『そのときは、「先生」じゃなくて「すい」って名前で呼んで』
「翠……さん?」
『うん』
 僕はスマホを握りしめた。どうしよう。今、すごく先生に抱きしめられたい。
『好きだよ、優織。──じゃあ、そろそろ寝なさい』
「先生」
『ん』
「僕も先生が好き」
『……ありがとう。優織のおかげだよ』
「え」
『ずっと、あんなに好きだったのに。今は優織でいっぱいだ』
「好きな、人?」
『もう「好きだった人」だよ』
「ほんと?」
『ああ。今は優織が一番好きだ』
 瞳が濡れて、膜になる。何か言いたいのに、言葉にならない。ただ、先生にきつくしがみついて、その体温と筋肉で夢ではないのを確かめたい。
 だから、恥ずかしかったけど、「明日ぎゅってして」とささやく。すると、『また放課後に』と先生は応えてくれた。
 先生さえいれば、僕はきっとずっと幸せだ。何があっても、先生のことだけは離したくない。そして、先生もそう思ってくれている。
 意識が壊れそうなほど幸せだった。このときは、まだ、本当に幸せだった。

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