転校生の正体
中間考査が終わって、六月になると暑かった気候がじめついてきて、すぐ梅雨になった。
あれから僕は、登校は聖音と、下校は先生に送ってもらうか、登校と同じく聖音と一緒で、何者かに襲われることはなかった。でも、犯人は捕まっていないし、不意に視線を感じて不安になるときがある。
それを聖音に打ち明けると、「ショックが残ってるのかもしれないよ」と心配されて、その視線が錯覚なのか現実なのかよく分からなくなった。「考え過ぎかな」と自信がなくなってうつむくと、聖音は慌てて首を横に振り、「捕まってないのは事実だし、気をつけたほうがいいと思う」と聖音は言った。
視線とか気配を覚えることは、先生にも話していて、先生は心配して「しばらく学校は休んだほうが」とも言った。先生に会いたいからそれは嫌だと返すと、「家庭訪問させてもらえるか、親御さんに訊くから」とも言われ、少し揺れてしまった。
どうしよう。そうしたほうがいいのだろうか。
そんなことも考えた六月半ばの雨の朝、教卓に手をついてホームルームを始めた先生が、来週の月曜日からクラスに転校生が加わることを伝えた。
「転校生が来るんだね」
その日の昼休み、例の四階の教室で、先生と昼食を取ることができた。お互いとりあえずは食べていたけど、ふと僕がそう切り出すと、先生は僕を見てどこかぎこちなくうなずいた。
僕が首をかしげると、手の中のサンドイッチのフィルターをふくろにまとめて、先生は僕の肩を抱く。
「先生──」
「……いい子そうだよ」
「え」
「転校生」
「もう会ったの?」
「ああ」
僕は先生を見つめる。けれど、先生は僕を見ない。それにちょっと不安になり、僕はお弁当をかたわらに置いて軆をかたむけて、先生の胸元を軽くつかんだ。
「先生?」
やっと、先生は僕を見た。ちょっと怯えた瞳をしていた。
転校生に何かあるのか訊こうとすると、先生は僕を引き寄せてぎゅっと抱きしめてきた。
「優織は、俺のそばにいる?」
「えっ」
「ちゃんと、そばにいてくれる?」
「う、うん。当たり前だよ」
「……そっか」
「どうして?」
「優織のこと、ほんとに好きになったから。もし嫌われたら、すごくつらい」
「そんな、嫌いになんてならないよ。先生も、僕のこと好きでいてくれるでしょ」
先生はうなずいて、僕の髪を梳く。
「だったら、大丈夫だよ。そばにいるよ」
「優織──」
「僕のほうから、好きになってくださいって言ったのに。僕から先生を嫌いになるなんてないよ」
「……もう、優織のことしか考えられない」
「………、好きな、人のことは……」
「何とも感じない。……だから、優織のそばにいたい」
先生は僕の頭を愛撫して、優しくキスをしてくれた。
その日は、それ以上のことはしなかった。指を絡めて、時間ぎりぎりまで一緒にいた。先生も疲れてるのかなと思った。あんなことのせいで会議も増えたし、当事者の僕の担任だし、おまけに転校生まで任されることになった。
視線だの気配だのと、僕が負担になっているわけにはいかない。むしろ支えてあげないと。先生が僕にそうしてくれているみたいに、僕も先生のよりどころになりたい。
その日も、帰り際は先生に車で送ってもらって、ゆっくりキスを味わってから別れた。ほんとはもうちょっと触ってほしかったけど、毎日毎日、そうして遅くなっているわけにもいかない。公園までの一本道を抜けて、三階にたどりついて、「ただいま」とその日も無事に帰宅することができた。
いそがしそうな先生にあんまり甘えられないまま週末になって、土日は先生に会えないから、僕は寂しさに負けて自分をなぐさめた。手の中に吐き出すと、もやもやと虚しさが立ちこめて哀しくなった。
来週には転校生が来て、もっと先生はいそがしくなる。しばらく触ってもらえないかもしれない。それだけで視界が滲んで、ぽろぽろとほんの少し雫が落ちた。
金曜日の今日くらい、ちょっと素直に甘えればよかった。そう思いながら片づけていると、スマホに着信がついて、はっとベッドスタンドのそれをつかんだ。『水波翠』という名前を確認して、応答へとスワイプする。
「先生」
『ごめん、電話また遅くなった』
「ううん。いいよ、起きてた」
『そっか。何かしてた?』
「えっ。う、ううん」
言いながら、僕は白濁をぬぐったティッシュを、ビニールぶくろにまとめてゴミ箱に放る。
「先生は何してたの?」
『今、ちょっと実家に来てる』
「え、遠いところ?」
『いや、部屋より学校に近いよ。俺はあの中学出身だし』
「そうなの? 知らなかった」
『うん。だから、優織は後輩なんだよな』
「先生も中学生だったんだ」
『それはそうだよ』と先生はちょっと咲って、『だから』と言葉を引き継ぐ。
『今夜は電話、あんまり長くできないけど』
「あ、そっか。分かった」
『………、優織』
「うん」
『何か、無理とかしてないよな』
「えっ」
『俺が、こないだ変なこと言ったから。重かったよな、あんなの。俺のほうが大人なのに』
「先生……」
『甘えてくれていいんだからな。無理されるほうが、俺は頼りないかなって不安になる』
ベッドスタンドに座る僕は、スマホを握りしめた。また視界が濡れて揺れるけど、さっきのような冷たい湿り気じゃない。
「あ……あのね」
『うん』
「来週、いそがしいかもしれないけど。先生に、触ってもらいたい」
『……俺も優織に触りたい。今も、声だけなのがつらいよ』
そう言われただけで、虚しく処理したはずの下半身が、じんと痺れた気がした。
先生に、今、ぎゅっとしてもらえたらいいのに。頭をさすって、キスをして、軆の奥をつらぬいてもらえたら──
「先生、僕……」
『ん』
「先生が、すごく好きだよ」
『……ありがとう。俺も優織が一番好きだよ。──じゃあ、そろそろ切らないと』
「うん。またね」
『ああ。おやすみ』
「おやすみなさい」
そっと耳からスマホをちぎって、通話終了をタップする。
さっきより、だいぶ気持ちが持ち上がっていた。大丈夫だ。先生はちゃんと先生だ。僕を想ってくれている。また僕に触れてくれる。
ベッドに倒れて、日づけが変わりそうな時計を見て、早く来週にならないかなあ、と早くも月曜日が待ち遠しくなった。耳たぶに残った先生の声を反芻して、シーツをごろごろして、そのうち僕は眠りに落ちてしまっていた。
土日に遊ぶ友達もいないし、週末は家でゆっくり過ごす僕は、次の週を迎えて、聖音と一緒に家を出た。わずかに晴れ間が覗いていたけど、予報ではすぐに降り出すらしく、空気の匂いも湿っていたから傘は持っていく。
今日は登校中に不穏なものもなく、聖音とも笑顔で靴箱で別れた。ざわつく廊下を抜けてたどりついた教室では、特に誰かと挨拶を交わすこともなく、明かりの下の席で雨雲が今にもしたたりそうなのを眺めていた。
やがて予鈴が鳴り、騒いでいた生徒も席に戻って、本鈴と同時に教室のドアが開く。
「おはよう」と入ってきた先生より、その後ろからついてくる白い開襟シャツと黒いスラックスの生徒に視線は集まった。男なんだ、とそういえば性別も訊いていなかったことに気づく。
先生は教壇に上がって、転校生は教壇の手前でうつむく。先生は黒板を向いて、白いチョークで何か書き、すぐ書き終えるとこちらを向いた。
そこにはその転校生の名前があって、教室がちょっとざわめく。
『水波碧』
え、と僕も少し混乱して、転校生を凝視してしまった。水波? 先生と同じ名字だ。よくある名字でもない。先生が転校生に小さく「碧」と声をかけるのが聞こえた。転校生は先生のほうをちらりとして、ゆっくり顔を上げた。
僕は目を開いた。
嘘。嘘だ。
あの目。
あのとき、一瞬思った。似てる。でも、どうしても先生だとは思えなかった。
やっぱり違った。違ったのだ。あのときの、あの目は──
「……水波碧です。よろしく」
あの人だ。
軆がこわばって、その硬直で、かすかに震えるのが分かった。「先生と名字同じー」とかいう声が上がって、「親戚だからな」と先生は応える。
親……戚? どうしよう。
怖いのに。先生に近しい人なら、先生にも誰にも、絶対に言えない。あの人が僕を襲ったなんて。
そんなことを言ったら、先生まで傷ついてしまう。どうすればいいのだろう。もし、また、ナイフをかざしてきたら──
「日月。崎田」
はっとして、先生を見た。「はあい」とか崎田さんが答えているので、僕も何とか「はい」とうわずらないように答える。
「クラス委員のふたりは、碧──いや、水波のことを気にかけて面倒見てやってくれ」
心の奥がちりっと焼けて、痛む。碧。先生が、僕以外の生徒を名前で呼んでいる。
「特に日月は、男子同士だから接することも多いだろう。よろしくな」
「は……はい」
「──困ったときは、あいつがクラス委員だから何でも質問しろ。じゃあ、あの一番後ろの席に」
淡泊にうなずいた水波くんは、先生にしめされた窓際の一番後ろの空席に、無愛想な表情で向かっていった。
目は、すごく、似ている。けれど、雰囲気が先生とは違う。先生に較べて、水波くんは鋭利で冷たい感じだ。あのときの人とイメージも一致する。
どうしよう。僕を襲ったのは水波くんだ。
水波くんは僕に気づいているのだろうか。いや、そもそも、なぜ僕だったのか。理由があるのなら、僕に気づいているはずだ。誰でもよかったなら気づいていないかもしれない。
ぐちゃぐちゃ考えてしまって、先生が今日の予定を話しているけれど耳に入ってこない。振り返ろうか、やめたほうがいいか、悩んでいるうちにホームルームが終わって、先生は教室を出ていってしまった。
その背中と、閉まるドアを見ていると、「日月くん」と呼ばれて顔を上げた。声の主は崎田さんで、彼女はちらりと水波くんを見てから、続けた。
「先生もああ言ってたし、日月くんが水波くんのこと気にしてあげてね」
「あ、……うん」
「私、男子の世話とかよく分かんないし。じゃあね」
崎田さんは、言い捨ててしまうとさっさと席に戻り、僕はやっと水波くんを一瞥することができた。水波くんは、前の席の男子に話しかけられ、見るからに適当に答えている。
僕のほうを気にしてくる様子はない。やっぱり、あのときの相手が僕だとは気づいていないのだろうか。
一時間目の用意をしながら、行き止まりに着いてしまったように恐怖に焦ってしまう。どうしよう。やっと犯人だと目星がついても、こんなの誰にも言えない。いきなり転校生を、先生の知り合いを、通り魔だと名指すなんて。
一時間目は国語で、先生の授業だった。僕は教科書を開き、それを読みこむふりでうつむいていた。心に毒を注射されて、気持ちが黒く犯されていた。
恐怖。不安。閉塞。
そんなものがごちゃごちゃになって、意識をぐらつかせる。どうしよう。その言葉をもう何十回と考えている。
クラスを動揺させたくない。先生を傷つけたくない。だったら言わない? それでも言う? 家族に言うのか。あるいはほかの先生か。警察の人も、いつでも気づいたことがあればと言っていた。
僕はもう襲われたりしたくない。襲われてでも、黙っているなんてつらい。できれば、守ってほしい。それでも、そうしたら、もしかして先生に、……嫌われるかもしれない。
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