冷ややかな少年
「日月」
授業が終わると、先生が僕に声をかけてきた。僕はどきっと顔を上げて、先生の眼鏡越しの目を見る。
「もし水波がいらないって言ったら、それでもいいんだけど、昼休み、校内を簡単に案内してやってくれるか」
「あ、……はい」
「無理強いはしなくていいから。ほっといても、わりと何でもこなす奴だしな」
僕はこくんとして、そのまま視線を下げた。先生が、親戚の中で水波くんをかわいがっているのが何となく感じられた。
「日月は、人見知りなところがあるから」
僕はもう一度、先生を見上げる。先生の瞳は、水波くんと違って優しい。
「転校生の面倒とか、大変かもしれないけど。碧ならきっと大丈夫だから、安心して接してごらん」
僕はまたこくんとしつつ、やだ、と泣きそうになった。
先生。僕以外の生徒を、名前で呼んだりしないで。僕以外の男子をよく知っていて褒めるなんてやめて。昼休みだって、先生と過ごしたいよ。
でも、そんなの言えなくて、「分かりました」と消え入りそうに言った。先生はそのまま僕の席を離れて、教室を出ていった。僕は唇を噛んで涙をこらえ、国語の教科書をちょっと乱暴につくえに押しこんだ。
二時間目が終わると、断ってほしいなあと思いつつも、僕は水波くんの席に近づいた。水波くんは無表情に近くても、一応、前の席の男子と話をしていた。
割りこむのはちょっとな、と引き返そうとすると、水波くんと話していた男子が僕に気づいて、「俺ちょっと便所行くわ」と気遣いなのか本気なのか、席を外してしまった。僕はぎこちなく水波くんに歩み寄り、「あの」と震えそうなのを抑えて水波くんを見た。
水波くんの目が、僕の目と合う。無気力だけど、鋭くて、刺すような目つき──
怖い。嫌だ。関わりたくない。
「ひ……昼休み、えと、よければ校内を案内とか……しようかなって」
「……翠兄に言われただけだろ」
翠兄。それは、水波くんのほうは、遠慮なく「先生」なんて呼ばない、だろうけど。
「あの、嫌ならいいんだよ」
「別に」
「僕より、川野くんがいいかな。あ、前の席の」
「あんたでいいよ」
「そ、そう。じゃあ、昼休みに」
「ああ」
水波くんは僕から目をそらして、頬杖をつく。僕も窓を一瞥して、いつしか雨が降り出しているのに気づいた。
僕はしずしずと自分の席に下がると、昼休み、とぽつりと思った。先生と一緒に、お昼を食べたかった。でも、今日は水波くんに校内なんか案内しているのか。
何かもうやだ、とつくえに伏せっていると、チャイムが鳴り、三時間目が始まって、とりあえず教科書だけは出しておいた。
授業中、一度、水波くんのほうをちらっとしてみた。そして、ぎくりと喉がつまった。水波くんの無感覚な目と目が合ってしまった。慌てて黒板に向き直ったものの、恐怖で肩がこわばるのを感じた。
「水波先生の、親戚なんだね」
嫌だと思うほど、すぐ昼休みになって、僕はお弁当を半分残してしまった。胃の半分が、すでに泥のような不快感で重かった。雨が降っているから、ほとんどの生徒が、移動せずに教室でにぎやかに昼食を取っている。
水波くんは、ひとりで菓子パンを食べていた。僕がひかえめに声をかけると、目を投げてきて、無言で席を立つとパンの残りもひと口で食べてしまう。
僕たちは一緒に教室を出て、案内ってどこ行けばいいんだろうとも秘かに思いつつ、人通りが少なく、雨音が響く廊下で僕は水波くんにそう言った。
「……まあな」
水波くんは僕を見もせず、声変わりは済ました落ち着いた声で言う。
「似てる……ね。少し」
「ああ……言われる」
「近い親戚なの?」
「そうだな」
「そっか。先生は──」
「あいつの話はいいから、とっとと終わらせろよ」
冷めた声にびくっとすくんで、「うん」と僕は口ごもりがちにうなずくと、移動で使う教室や体育館、お弁当を食べていい中庭とかスクールカウンセラーがいる相談室とかを案内した。
ひと通りまわると、教室に戻って、「ほかに見たかったとこあるかな」と訊いてみる。「もういい」と水波くんは愛想なく吐いて教室に入っていき、廊下に残された僕は息をついてしまう。
あんまり、仲良くなれそうなタイプではない。そもそも僕は友達を作るのが下手だけど、水波くんは特に敬遠してしまう感じの人だ。それに──。
あの目とナイフの銀色が脳裏をよぎる。水波くんは僕だったと気づいていないのだろうか。かなり無愛想でも、殺意は突き刺してこなかった。
だとしたら、どうして水波くんは無闇にナイフを振るったりしたのだろう。まさか転校も、前の土地で通り魔疑惑から逃れるためのものだったとか。
というか、僕が襲われたのはひと月くらい前で、一ヶ月、水波くんは何をしていたのだろう。転校なんてしたことがないから分からなくても、新しい学校には、引っ越してわりとすぐに移るものではないのか。
僕はまたため息をついて、教室に踏みこんだ。水波くんは誰とも話さず、窓の向こうを眺めている。
翠兄とか。あいつとか。先生のことを親しく呼んでいた。それに嫉妬のようなものを覚えている自分も、すごく嫌だった。
水波くんも、僕のことはあんまりよく思っていないのだろう。そう感じていたけど、翌日の理科の授業で教室を移動しようとしていたら、「理科室、どこか忘れたんだけど」といきなり話しかけられて驚いてしまった。
僕が固まっていると、「何だよ」と怪訝そうに問われ、僕は何とか首を横に振った。
「あんたに訊けばいいんだろ」
「う、うん。じゃあ、一緒に」
「ああ」
そんなわけで、なぜか水波くんと一緒に理科室に向かって、教室に戻るときも、気にしたほうがいいのかと思って僕は水波くんに声をかけ、連れ立って教室に帰った。
そんなふうに、いつのまにか教室移動は共にするようになって、六月が終わる頃には、水波くんとお昼も一緒に食べるくらいになっていた。七月の頭の期末考査では、僕が水波くんに範囲を教えて放課後に図書室で勉強した。水波くんはいつも無口だったし、けして楽しそうではなかったけれど、何かあれば僕に近づいてくるのが、普通になっていった。
「日月、今日は放課後に少し残りなさい」
いつのまにか、蝉が鳴きはじめていた。青い晴天が広がって梅雨も終わり、白い日射にアスファルトが焼けつく匂いが立ち昇る。
期末考査の結果も出揃って、あとは夏休みを待つくらいになった頃、帰りのホームルームで先生がさりげなくそう言い添えた。
ここのところ、僕は水波くんといるから、そのぶん先生とほとんど過ごせていない。先生としても、水波くんが僕を頼っているのを邪魔するように、僕に声をかけることはできなかったようだ。
やっと先生がそう言ってくれたことが嬉しくて、「はい」と答える声のはずみを必死に抑える。終業すると先生は僕のかたわらに来て、「水波と仲良くしてくれてるみたいだから、様子を聞いておこうと思って」と言った。
水波くん。何だ、とその目的に思わずがっかりしてしまうと、先生は少し咲って、僕の耳元で素早くささやいた。
「──という、口実」
先生を見上げた。眼鏡の奥で瞳が優しく微笑む。そんなふうに微笑みかけられるのは久しぶりだった。僕は泣きそうなくらい嬉しくて、うなずいて、すぐにでも先生にしがみつきたくなった。
そこに水波くんが通りかかって、「日月」と呼ばれて、はたとそちらを向く。
「今日は先帰る」
「あ、うん。ごめんね」
「別に」
「碧、日月とは仲良くなれそうか?」
「まあね」
水波くんは肩をすくめ、先生とすれちがっていった。「碧、ですか」と僕がつぶやくと、「あ、」と先生も気づいて、ばつが悪そうに咲った。
「昔からそう呼んでるから、つい」
「……そう、ですね」
たまに「さようならー」と声をかけてくるクラスメイトに先生は応えながら、「じゃあ、少し待っててくれ」と先生も教卓を片づけにいった。
僕は窓を向き、目に切りこんでくるような白日の光を眺めた。蝉の声が、エアコンを切られた蒸し暑さを引っかく。
やがて教室に僕以外の生徒がいなくなると、先生はドアをしっかり閉めてから、こちらに歩み寄ってきて「優織」と呼んでくれた。僕が先生を見上げると、先生は僕の目の高さにひざまずいた。
「先生──」
「何か、久しぶりだな」
「うん」
「碧のこと、任せっきりでごめん」
「……ううん」
先生は僕の額をさすって、その手の温もりに泣きそうになる。
「無理させてる?」
「そんなことは、ないけど。ただ──」
「ん」
「先生、取られちゃったみたいで」
「碧に?」
「そうやって、名前で呼ぶし。僕との時間、取ってくれないし。先生が用事あるって呼び出してくれれば、僕、ちゃんと水波くん断って先生に会いにいくのに」
先生は僕を見つめてから、僕を椅子に座らせるまま、ゆっくり抱きしめてきた。僕も先生のワイシャツを握りしめる。先生は僕の耳たぶを優しく食んで、「かわいい」と甘くささやく。
僕は先生の背中に腕をまわしてぎゅっとくっつく。先生は僕の頭を撫でてから、僕の顔を上げさせて、深くキスをしてくれた。僕も普段より先生の舌を味わう。
水音が飛び散るキスをしながら、先生の手が脚のあいだにもぐりこんできて、僕の軆が弱くわなないた。服越しなのに、それでも敏感に硬くなって、先走りはじめるのさえ、下着が濡れた感じで分かる。
唇を浮かせて喘ぐ声で先生を呼ぶと、先生は僕のベルトとファスナーを緩めて下着から取り出し、僕を口に含んだ。思わずこらえられない大きな声がもれてしまい、僕は自分の手の甲を咬んだ。先生の熱くてぬめった口の中が、僕を緩やかに刺激して、僕の喉はもう声にならなくて痙攣する。
声の代わりに涙が伝って、それを見取った先生が、いったん口を離して「続けて大丈夫か?」と心配する。僕はこくこくとうなずき、脈打っているものに早く快感が欲しくて、腰をよじる。先生はまた僕を口で丁寧に愛撫し、僕は息を切らしてそこに血も神経も集中して高まっていくのを感じる。
どんどん波が激しくなって、声がこぼれて、「いく」という言葉が無意識に混ざる。「出していいよ」と先生は僕を根元までくわえて、喉でぎゅっと先端から射精を誘う。頭の中がぐるぐるして、芯から溢れてくるものが抑えられなくなった瞬間、僕は声を出して先生の口で爆ぜてしまった。
「続けられる?」
「え……」
「いや、その……俺も、けっこう」
息切れを残しながら先生の下半身を見て、僕はそれに手を伸ばしながらうなずいた。僕の指が伝っただけで、先生も少し声をもらす。先生は僕を抱き起こし、つくえに仰向けに寝かせると、手で僕を刺激しながら、久しぶりの僕の後ろをほぐした。
僕は何とかだらしない声が落ちないように唇を噛む。それでも、先生の先端が湿ったものがあてがわれて、ぐっと中に入ってくると、息に声が絡みついてしまう。
先生は僕を抱きしめ、奥まで重なると腰を動かす。でも動きづらいぐらい、先生をきつく締めつけてしまっているのが分かる。僕も先生の肩をつかんで、少しでもなめらかになるように腰を揺すった。つくえががたんがたんと揺れて、まだ強い日射しに粘液が光る。
今すぐにでも達してしまいそうなのに、どのぐらい焦らして、お互いの熱や脈を感じていたか分からない。ほてって揺らめいていた快感が、さすがに抑えられないほどふくれあがって、自然と腰の動きが一致して、合わせて先生は僕を手でこすってくれる。先生が奥に届いた瞬間、僕は先生の手の中にいっぱい吐いて、同時に先生も僕のお腹に射精した。
はあ、はあ、と息遣いが教室に響いて、それでも力を出して、先生は僕を抱きしめた。「ふたりきりになった途端、これでごめん」と先生は言って、僕はかぶりを振って「ずっと先生に触ってほしかった」と先生の匂いに頬をすりよせる。
先生は僕の髪に指を通し、僕の名前を呼んで、唇を重ねてくれる。
「今日は、送ってあげられるから」
「……ん」
「優織が大丈夫な時間まで、一緒にいられるよ」
「ほんと?」
「うん」
僕は思わず咲って、先生の胸にしがみついた。暑かったけど、そんなのは関係ない。先生の体温が体温に溶けていくのが嬉しい。「先生が好き」と言うと、「俺も優織が好きだよ」と穏やかな声が返ってくる。
もうすぐ夏休みだなんて、今だけは忘れて、先生の鼓動を耳元で聴いていたかった。
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