Noise From Knife-7

襲う刃物

「日月って、スマホ持ってる?」
 一学期最後の日の帰り道、別れ際に水波くんにそう訊かれて、躊躇ったけど、うなずいた。すると、案の定というか何というか、連絡先を交換することになり、「ヒマなときあったら遊ぼう」とまで言われてしまった。
 水波くんってけっこう僕のこと好きなのかなあ、と友達を持ったことがないのでよく分からない距離感にとまどい、でも僕のこと襲ったし、とも思うので余計逆らえない。
 僕がこくんとすると、水波くんは「じゃあな」と一軒家の住宅地のほうへ歩いていってしまう。それより先生に会いたいけど無理なのかな、とため息をついて僕もマンションのほうへと歩き出し、襲われた道は駆け足で通り抜けて、マンションにたどりついた。
 そうして、夏休みが始まった。学校の先生には、夏休みはあんまり休みではないらしい。しかも、一学期はわりとみんな意識していなかったけど、僕たちは受験生なのだ。その担任ともなれば、もちろんいそがしい。
 先生との夜の電話も短いか、あるいは夜遅くか──それでも、ないよりはよかったけれど。
 先生に会いたい。会いにいきたい。しかし、それを言ったら鬱陶しいのではないかと思って、結局言えなかった。
「おにいちゃんが甘えたいなら、素直に言ってみたらいいのに」
 毎朝部活におもむき、日中は友達と遊んだり宿題をしたりする聖音は、オレンジの夕映えが落ちてくる頃に帰宅する。「おかえり」と顔を出した僕には、見るからに覇気がなかったようだ。聖音は「大丈夫?」と心配してきて、僕は口ごもってから、先生に会えていないことを部屋でちょっと愚痴ってしまった。
 僕のつくえの回転椅子に座っていた聖音は、ベッドサイドに腰かける僕にそう言った。
「でも」
「水波先生のほうからは甘えづらいでしょ。年上だし」
「そう、なのかな」
「『会って』って強要されたらめんどくさいかもしれないけど、『会いたいね』だったら、水波先生も嬉しいんじゃない?」
「……ん」
「会わなくても平気みたいに、我慢してるほうが水波先生もきっと不安だよ」
 聖音を見た。先生もそんなことを言っていた。でも、僕と先生はいまだに校外で会わないのが暗黙の了解だし、せめてそれは卒業後ではないだろうか。
 聖音は僕を眺めてから、「転校生の人とは仲いいの?」と首をかたむけてくる。
「ん、まあ。たまにメールが来る。『今起きた』とかだけど」
「……その人って、ストレート?」
「えっ?」
「あ、ごめん。何か、態度が意味深な気がして」
 水波くんが僕を襲った犯人かもしれないことは、聖音にも言っていない。聖音は口の堅い子だけれど、さすがにその事実は放っておかないだろう。
 水波くんがストレートかどうか。それは考えたことがなかった。連絡先交換とか、クラス委員だからという理由以上に接されている節はある。
 歯切れ悪く、「ただの友達と思うけど……」と言うと、「そっか」と聖音も深くは追及しなかった。
「まあ、その人って水波先生の親戚なんだよね」
「うん」
「少しその人と会って、『会ってきたから話がしたい』とか言ってみれば、水波先生も親戚の子のことは気になるだろうし、時間作ってくれるかもよ」
「そ、かな」
「とりあえず、転校生の人と会ってみれば? 水波先生に会う口実になるよ」
「そっか……分かった。考えてみる」
 聖音はうなずいてにこっとすると、「シャワー浴びなきゃ」と陰ってくる夕暮れに気づいて立ち上がった。
 蝉の声が、遠くたなびいている。
 聖音の背中を見送り、僕はベッドにぱたんと倒れて、ベッドスタンドで充電ケーブルにつながったスマホをたぐりよせた。何の着信もない。顔を伏せたシーツは、昼間に日光に当てられて日向の匂いがする。
 水波くんにメールしてみようか。僕はいつでもヒマだし、いつでも会える。祖父母も両方、隣町にいるから、お盆も大した帰省ではない。
 でも、ふたりきりで会って大丈夫だろうか。だって、水波くんは──
 先生にも、水波くんにも、なかなかこちらから発することができずに、八月になった。おかしくなりそうな猛暑のせいで、汗にべとつくのも憂鬱だし、普段以上にクーラーに引きこもっていた。聖音は部活や友達でよく出かけていて、去年までならおかあさんあたりに比較されてお小言をもらったかもしれなくても、僕が襲われたことを両親もいまだ気にしているのか、何も言われなかった。
 その日も僕は、自分の涼しい部屋でベッドに仰向けになり、レースカーテンの向こうで、白い雲がゆったりちぎれていくのを眺めていた。
 昨夜の先生との電話を思い返していた。卒業後のことを訊かれて、何にも考えていない、ただ高校には行くだろうというようなことを言った。
『優織が女の子なら嫁にもらうのにな』
 先生がそんなことを言うので、思わず僕も笑ってしまった。
『そしたら、ずっと一緒で、毎日ふたりだけだ』
「そうなったら、幸せだね」
『うん。いつかほんとに叶えたい』
 まくらを引っ張って抱きしめ、先生の匂いが懐かしくなる。もう二週間くらい、声だけだ。会いたい、とこぼすくらい、むしろ普通かもしれない。
 今夜言ってみようかなと深く息を吐いて、睫毛で視界を霞ませたときだった。
「優織っ! 開けるわよっ」
 はっとして、ドアに顔を向ける。何やらおかあさんの焦った声で、「うん」と答えながら僕は起き上がる。ばたっと騒々しくドアを開けたおかあさんは、目を開いて真っ青になっていて、僕は驚いてベッドを降りて、おかあさんに駆け寄る。
「どうしたの? 何か──」
 突然引っ張られて抱きしめられ、またびっくりした。ただごとではないのは、おかあさんがおののいているので分かった。「おかあさん、」と言いかけると、壊れそうな声をおかあさんが振り絞った。
「今、電話が来て。警察の人からで、」
 どきんと心臓が跳ねる。
 まさか、水波くん──
「聖音が」
 聖音?
「聖音が、刺されたって」
 え。
 瞳が視覚を取り落として、真っ暗にった。
 な……に?
 聖音が──刺された?
「だ、誰……犯人は」
「捕まってないの。どうしよう。怖い。何で。優織を襲った人も捕まってないのに」
「聖音は今、」
「病院。すぐ行かなきゃ」
「僕も行くよ」
「優織は外出するのは危ないって、警察の人に言われたの」
「あ……、」
「確信犯なら、……また、今度は優織を、」
「……だけど」
「ごめんなさい。優織の顔を見て安心したくて。ごめんね」
「ううん。いいよ、ぜんぜん。おとうさんは?」
「病院に向かってるって。おかあさんも、念のためタクシーでって言われた」
「うん。そっちのほうがいいよ。僕、家で待ってるから。連絡来てもいいように、リビングにいる」
「ありがとう。じゃあ、急いで行かないと」
「気をつけて」
 僕の軆を離して、それでも名残惜しそうに頭を撫でてから、おかあさんはいつものバッグに保険証なども用意して、ばたばたと家を出ていった。
 玄関に残って突っ立った僕は、部屋からスマホだけ持ってくると、胸の中がざわざわと黒くなってくるのを感じた。
 偶然……と思うのは、やっぱり、楽観だろうか。僕の次に聖音。刺されたということは、刃物だったのだろう。僕を襲った人もナイフだった。
 同一人物なのか。そして、それは水波くんなのか。今、水波くんにメールをしてみたらどうだろう。いや、僕にばれていると知ったら、何か行動するかもしれない。
 どうしよう。もうひとりぼっちでは抱えきれない。誰か。誰かに話を聞いてほしい。
 白昼のベランダに面して、クーラーがつけっぱなしのリビングのソファに座った僕は、スマホを見下ろした。
 先生。先生しか、思い浮かばない。
 先生に聞いてほしい。打ち明けたい。そうしたら先生を傷つけるかもしれなくても、このまま自分の中に窮屈に抑えこんでいたら息ができない。
 水波くんが僕を襲った。もしかしたら聖音も襲った。信じてくれるだろうか。水波くんの味方について、ふざけるなと怒ってきたら? それでも、僕が一番頼りにしたいのは──
 のろのろと腕を持ち上げ、目の前に持ってきたスマホの画面を起こして、指をすべらせる。連絡先。タップ。水波翠。タップ。電話をかける。タップしようとして、怖くなって躊躇って、呼吸がかすかに震える。
 先生。分からない。出ないかもしれない。留守電にまでは残さない。ほんとに無理だったら言わなくてもいい。ただ先生の声が聴けるだけでもいい。
 僕は唇を噛み、思い切って『電話をかける』をタップした。すると電話が起動して、コールが搏動に突き刺さる。
 ワンコール。出ない。ツーコール。やっぱり切る? スリーコール。
 不意に、ぶつ、とコールが途切れた。留守電ならやめる。そうすくんだのと同時に、『もしもし?』と一番愛おしい声がして、僕はスマホを握って耳に当てた。
「先生」
『どうした?』
「せんせ……あ、あの、……あの」
『……何かあったか?』
 心配そうな先生の声に、一気に涙腺がゆがんで、涙があふれてきた。僕の嗚咽に先生は慌てた様子で、何か物音をさせたあと、もう一度改めて『優織』と丁寧に名前を呼んでくれた。
『どうしたんだ? 今、職員室は離れたから』
「き……聖音が」
『キヨネ──って、ああ、妹か。何かあったのか』
「さ、刺されたって」
『えっ』
「分からないけど。もしかして、僕を襲った人と同じ人なのかな」
『同じ、って心当たりがあるのか?』
「僕も、ナイフだった」
『ナイフ』
「刺されたってことは、聖音も刃物だったんだと思うけど。そしたら、……同じ」
『凶器……か。そうか、それは警察に──』
「それでね」
『うん』
「僕、ほんとは……犯人のことで、ちょっと、気づいてることがあるんだ」
『え』
「一瞬、犯人が僕を見てね。その目をすごく憶えてる。よ、よく……知ってる、目だった」
『知り合いか?』
「でも、それは違った。違った、けど。それは、……水波くんが来たから、はっきりした」
『碧……って、まさか』
「こ、こんなの先生に言ったら、先生怒るかもしれないけど。親戚の子なのに。でも、僕を襲ったのは、たぶん水波くんだと思うんだ」
『な、何で──そんな、碧って、』
「先生に似てると思ったんだ」
『え?』
「犯人の目が、先生に似てると思った。でも先生だなんて信じたくなくて、誰にも言えなかった。言わなくてよかった。やっぱり違ったから。水波くんが転校してきて、先生みたいな優しい目じゃないし、この人だって」
『………、』
「どう、しよう。僕、どうすればいい? 水波くんのこと、警察に言ったほうがいい? そしたら、聖音も僕も──」
『い、いや。警察は……警察に、断言できるほどの証拠ではないだろ』
「……けど」
『まだ分からない。警察が調べて、それで碧にたどりついたなら認めるしかない。でも、優織の「かもしれない」で碧だと決めつけるのは、俺は……』
 先生は口を閉ざして、沈黙になった。僕はうなだれてさらに泣きそうになる。
 やっぱり、先生を不愉快にさせてしまった。僕に焼きついたあの眼つきを信じてもくれなかった。
 どんどん気分が暗く沈んできて、「じゃあ、黙ってる」とぽつりと言うのがやっとだった。
『優織──』
「ごめんね。気にしないで。ほんとに、違ったら大変だもんね。先生の言う通りにするから」
『いや、俺も悪い……。でも、碧のこと信じたいんだ』
「………、僕……のことは、」
『え?』
 僕のことは、信じようとはしないんだ。
 そう言いたかったけど、皮肉に聞こえるから言えなかった。『大丈夫』とかぼそくだけど精一杯答えた。
「いそがしいときに、変な電話してごめんね。今夜はばたばたするだろうから、電話出れないかも」
『優織……』
「じゃあ、その、それだけだから。水波くんのこと、誰にも言わない」
『あ、ああ』
「またね。落ち着いたらメールするね」
 先生が何か言葉を続けそうだったけど、僕はスマホを離して通話を切った。涙がぼろぼろとあふれおちていた。
 先生なら、僕の味方をして、水波くんさえ犠牲にしてくれると思ったのに。やっぱり、身内のほうがかわいいのだ。僕なんか他人だ。つきあっていたって、どうせおおやけでもない。
 でも、やっぱり先生との約束なら破れないから、僕は水波くんのことを誰にも言えない。言わないと言ったのを裏切って、水波くんのことを警察に伝えたら、確実に捨てられてしまう。
 それは嫌だ。僕が我慢すればいい。水波くんが怖くても。喉が詰まりそうでも。聖音が危なくても。意識が麻痺しそうでも。それでも、僕は先生に嫌われたくはない──

第八章へ

error: