切実な誘惑
そのとき、スマホに着信がついた。先生かと思って手の中を見て、目を見開く。
水波くんからのメールだった。何だろう。よりによって、こんなときに。
唾を飲みこみ、心臓がずっしり重くなる。ゆっくりタップして、文章を表示させると、短文があった。
『明日の午後ヒマ?
レコ屋が見つからないから教えろ』
レコ屋──何だろ、としばらく考えて、CDショップかと思い当たる。確かにこの町には、CDショップは小さいところもなくて、ふた駅先の百貨店に行かないといけない。
どうでもいいなあ、と僕はしばらく涙に腫れた目でぼんやりしていたけど、返事、とふと気づいて迷った。会うのか。水波くんと。聖音を襲ったばかりかもしれない人に。
先生は決めつけてほしくないと言ったとはいえ、僕が先生の目を見間違えるはずがないし、だが、先生の目があんなに鋭いわけもないし──絶対、水波くんなのに。
目をつぶって首を垂れていると、また着信がついた。水波くんだ。開くと、また短文があった。
『明日って書いたけど、日月が都合いいときでもいい』
息を吐いて、どうせ断るのも怖いしな、と『明日で大丈夫だよ。電車で行けるから。』と返した。すると、また着信がついて、『じゃあ、昼飯食ったあとの十三時くらい、どこで会う?』と来た。『駅前でいいと思う。』と返信すると、『分かった』と来て、それでメールは止まった。
明日。聖音のことでいそがしいかな、とも思ったけど、僕の気晴らしになるならと両親は行かせてくれるだろう。ひとりなら行かせるわけもないが、友達と一緒だと言えばいい。友達というか、犯人かもしれないのだけど。
聖音は背中から刺されたものの、意識もしっかりあって、さいわい深刻な傷には至っていなかった。どこかに後遺症が残るとかもなく、ただ、傷痕はやはり残るそうだ。
ひとりのときに後ろから刺されて、突き飛ばされて地面に倒されて、その頭上を犯人は走っていった。僕同様、顔も背格好も確かめるヒマがなかったらしい。
警察も同一犯を思い浮かべているようで、通り魔と思われていたときにはなかった、怨みを買うようなことはないかという質問が出てきたりした。両親は顔を合わせて首を横に振り、僕もうつむいて「分かりません」と言った。
怨み。水波くんが犯人なら、なぜ僕の家庭にそんな殺害めいたことをしてくるのだろう。僕に知らない秘密がこの家庭にあって、それが何か、水波くんにつながっているのだろうか。それはあまりに、突拍子がないと思えるけれど──
翌日、僕は重々両親に「気をつけて」と言われて駅前に出かけた。あっという間に熱中症になりそうな、風のない熱気が停滞する青空だった。アスファルトの隅に生える雑草の匂いが蒸し返している。駅までの道のあちこちで蝉の声が空中を引っかいていた。
聖音の容態も心配だし、水波くんに会って大丈夫なのかなと、昨夜はあんまり眠れなかった。おかあさんが泣いている声も聞こえていた。おとうさんも朝まで起きて、そのそばにいたようだった。
犯人が水波くんだったら、どうして僕や聖音を襲ったのだろう。今度はおとうさんかおかあさんに何かするのだろうか。もし、僕が直接水波くんに訊いてみたら──。その勇気さえ出ればいいのに、やっぱりどうしても怖い。
改札がみっつしかないような小さな駅前に到着して、きょろきょろすると、水波くんのすがたはなかった。スマホを取り出すと、時刻は“12:57”。いつのまにか着信があって、水波くんから『着いた』『暑いからコンビニにいる』というメールが二通来ていた。絞られる汗をぬぐって、『着いたよ。』と送ると、すぐに左手の方にあるコンビニから、黒いTシャツにジーンズの水波くんが出てきた。
「よう」
僕は、水波くんを少しだけ見上げる。先生との差ほどじゃないけど、わずかに水波くんのほうが背が高い。髪の流れや眉のかたち、それに、やっぱり目が先生に似ている。体格や骨格は、年齢のせいだろうけど、水波くんのほうが華奢だ。
「何だよ」
僕の視線に、水波くんは怪訝そうに眉を寄せ、僕は首を振って「レコ屋ってCDショップだよね」と確かめた。
「ああ。インディーズとかも置いてるとこがいい」
「インディーズ……。ふた駅行ったら、一応あるんだけど。インディーズは分からない」
「市内行ったほうが早いかな」
「市内は、僕、あんまり行ったことないから案内できないよ」
「マジか。どうしようかな。つか、ここ田舎だよな。昔から変わんねえ」
「……え、前ここにいたの?」
「幼稚園くらいのときまでいた」
「そうなんだ。先生も、あの中学出身でここにいたんだよね」
「あいつとそんなこと話すのかよ」
「えっ。あ、いや。始業式の挨拶で言ってた」
「……ふうん」
水波くんは僕を眺めて、不意に僕の顔を覗きこんできた。
「日月って、翠兄のこと好きだよな」
「はっ?」
「友達って感じの奴はいねえけど、翠兄と話すときは嬉しそう」
「う、嬉しそうって」
「でも、あいつ、かなりろくでもない奴だぜ」
僕は水波くんを見た。水波くんは目をそらし、「無駄足より市内行くか」と僕の肩を押した。「案内できないよ」と僕が踏みとどまると、「ひとりで迷わせるより、つきあえ」と水波くんは強引に僕を引っ張って、切符を買わせると改札を抜けた。
先生ならこんなに無理やりなことしないのに、と思いつつ階段でホームに上がる。少しだけ風が抜けるそこで、風に髪を揺らす水波くんを盗み見た。
水波くんも綺麗な人だよなあ、とぼんやり思った。愛想がないので目立って騒ぐ女子は見かけないけど、それでも秘かに人気があるのではないだろうか。水波くんは僕の目をちらりとして、「CD見たあとは」と口を開いた。
「すぐ帰る?」
「え。ん、まあ」
「少しつきあえない?」
「お金、そんな持ってないけど」
「夕飯おごるよ。つきあわせるんだし」
「えっ。そ、それは、ぜんぜん気を遣わなくても」
「いいんだよ。食いたいもん決めとけ」
とまどっていると、案内が流れて電車が風を上げてホームに舞いこんできた。開いた扉に踏みこむと、すうっとクーラーが肌に染みこむ。
車内はそんなに混んでいなくて、座ることができた。水波くんはマップで情報を得てから、スマホで降りる駅を検索する。地方の路線だけど、途中で大きな駅と連絡しているから、乗り換えなくてもそのまま市内に一本で着くことができる。
電車も混んできた頃、「降りるぞ」と水波くんが自然と僕の手をつかんで引っ張ってきた。どきっとしたけど、振りはらうのは感じが悪いし、目立つし──ホームに降りると、普通に手を離されたし、何も言わないことにした。
水波くんは、マップを見ながら器用に目的地のCDショップに到着して、インディーズコーナーで長いあいだCDを吟味していた。欲しいものもないのに無駄に歩きまわるのも疲れ、「一緒に探そうか」と声をかけると、「あるのはあったんだけど」と水波くんは二枚のCDで悩んでいるようだった。
「XENON買いにきたんだけど、不意打ちでファンリムも出てた」
「……はあ」
「日月ってインディーズ聴かない?」
「CD買わないかな。デジタル配信なら」
「インディーズも配信あるぜ。むしろ、配信限定とかあるよな」
「水波くん、音楽好きなんだ」
「というか、寝るとき、音楽聴きながらじゃないと寝れない」
「はは」
「いろいろ聞こえてると、気にならないか?」
「疲れてるほうが先に来るかなあ」
「そっか。それが普通だよな」
水波くんは結局、目当てだったXENONというバンドのほうのCDだけを買っていた。
それから、地上は日射しがひどいので地下を歩き、モールの最上階に入っていたファミレスに入った。けっこう複雑に歩いてきたので、「帰り道分かるよね」と心配すると、「たぶん」と頼りない返事が来て困った顔になると、水波くんは少しだけ咲った。
「大丈夫」
そう言って、水波くんは僕の額を小突いた。
「ちゃんと、駅まで送るから」
もし──先生が、僕と同い年くらいだったら。水波くんみたいな感じなのだろうか。包容力はないかもしれなくても、引っ張ってくれて。にこにこするわけではなくても、ふと見せる笑顔は目を引いて。
僕はメニューに目を落として、何考えてるんだろ、と思った。僕が好きなのは先生だ。それに、水波くんは僕や聖音を襲ったかもしれない。襲ったかも……なんて、今日一緒に過ごしてみて、確信が揺らいでいるけれど。
「なあ、日月」
「うん」
僕はチーズの入ったハンバーグ、水波くんは大きなナスが入ったミートソースパスタを食べていた。僕がハンバーグで蕩けたチーズをすくっていると、水波くんはドリンクバーのグレープソーダを飲んでから言った。
「俺さ、知ってるんだ」
「えっ」
「翠兄のこと」
「先生──」
「翠兄って、男が好きなんだろ」
「はっ?」
「その翠兄が、日月のことは目にかけててさ。何というか、その……」
手を止めて、狼狽えそうな視線をこらえて水波くんを見つめた。その目を見て、水波くんは息をつき、「ごめん」とつぶやく。僕は鉄板が焼けている手元にうつむく。
「悪い、やっぱいいや。忘れてくれ」
ハンバーグから、ゆっくりチーズがあふれてきて、まろやかに匂い立っている。
店内は夕食時で騒がしく、店員さんがいそがしそうに立ちまわっていた。
食事が終わって、ドリンクバーをお代わりしつつ、水波くんはまた夏休みに会いたいと言った。「僕なんかといても、つまんないでしょ」と首をかたむけて咲うと、「そんなことないけど」と水波くんは僕を見つめた。
その目が、怖い、と思ったのに。あのときは。何で、今、どきどきしてしまっているのだろう。先生以外の人に、こんな反応はおかしい。
「会えたらね」と僕は言った。水波くんはうなずいて、「帰ろう」と伝票を取って立ち上がった。
帰りの電車は、例の大きな駅まで混んでいたけど、地方までのローカル線に入るとマシになった。席がひとつ空いて、水波くんは僕を座らせてくれた。
窓の向こうでは、夜が始まっていた。最寄り駅に近づくほどネオンの気配が消えていく。顔を伏せているのは感じ悪くても、何だか、水波くんの顔を見上げるのが怖い。まだどきどきしてしまったら。頬が熱くなってしまったら。
やっと地元に到着すると、切符で改札を抜けて、そそくさと水波くんと別れて帰ろうとした。すると、突然「日月!」と手首をつかまれて、え、と混乱した拍子に水波くんに抱きしめられていた。
「え、あ……み、水波くん、」
「やっぱり、あいつとつきあってる?」
「えと、あの……」
「……つきあってるよな。見てたら分かる」
「分かるって、そんな、僕と先生は、」
「つきあってない?」
「う、うん」
「じゃあ、俺は?」
「えっ」
「日月、俺とつきあわない?」
「え……と、でも、水波く──」
水波くんの腕の中から顔を上げさせられ、びっくりするくらい優しいキスをされた。
唇が触れあうだけのキス。僕と先生がいつもしているものが、ひどく卑猥に感じられる無垢なキス。
水波くんはそっと僕の髪を撫でて、顔を離すと瞳を切なく細めて「あいつなんかやめろよ」と言った。
「で……も、僕……」
「俺とつきあって」
「そ、それは、……その」
「俺じゃダメ? あいつとつきあってるから?」
「そ……じゃない、けど」
「あんな奴、やめておいたほうがいいよ。いつかそれが分かる」
「せ、先生に、何かあるって知ってるの?」
「うん」
「じゃあ、それを聞いてからじゃないと分からないよ」
水波くんは、僕をもう一度抱きしめた。男同士でこんな状態だけど、さいわい、あたりに人影は見当たらない。
お互い成長過程の軆で、当たる骨がちょっと痛い。
水波くんの匂いは、どこか先生の匂いにも似ていた。どきどきするのはそのせいだ。
「じゃあ」と水波くんは僕の耳元で言った。
「もう一度、会って話したい」
「も……一度」
「それで、もし、俺の話が間違ってないと思ったら、俺とつきあって」
「……そんな、」
「俺のものになって」
「水波くんは僕が好きなの? 僕は……その、……先生が、好き……なのに」
「………、」
「そんな、簡単に水波くんを好きになるなんてないのに。それなのに、つきあうとか──」
「俺のこと好きじゃなくていいし、俺も日月が好きってわけじゃない。でも、つきあってほしいんだ」
「え……?」
「ただ、あいつじゃなくて、俺のものになってほしいんだ」
「わ、分からないよ、よく」
「だから、そのための話をするから、また会ってくれ。ちゃんと、日月には全部話すから」
水波くんが軆を離して僕を見つめ、僕も水波くんを見つめた。
水波くんとつきあう? 僕が水波くんを好きでなくても、水波くんが僕を好きでなくても? 先生をやめておいたほうがいい理由、なんて──。
たぶん、先生との関係を幸せに続けたいなら、首を横に振り、水波くんを突き飛ばし、家へと駆けていくべきだったのだ。
なのに、何で僕はうなずいて、「ちゃんと話して」なんて約束して、あれだけ恐ろしかった水波くんの目を見つめて──また、淡いキスなんて交わしてしまったのだろう。
【第九章へ】