会えない理由
夕食は食べてくるとおかあさんにメールしておいたけど、それでも帰宅が遅かったことを半分心配され、半分しかられてしまった。
僕は素直に謝りながら、今日一日水波くんと過ごして、本当に彼が犯人だったのか揺らぐのを感じていた。でも、先生じゃなくて、水波くんでもなくて、あの目は?
聖音のことは過ぎた偶然で、僕とは関係ないのか。そして、僕を襲った可能性のあるあの目を持つ人が、まだ誰かいるのか。
そんなに、この町に似た印象の人が集中するとも思えない。でも、先生がこの町出身ということは、先生の親戚はこの土地に近い場所に多いのだろうか。現に水波くんが、昔住んでいたというここに戻ってきた。
本当に僕がぜんぜん知らない人の犯行なのか。先生は、犯人が水波くんかもしれないということを、誰にも言わないようにと僕に言った。あれが、僕を信じないというわけでなく、水波くんではないという確信なのだとしたら──
シャワーを浴びて、午前中に終わらなかった今日のぶんの宿題に手をつけた。問題を解こうと意識するたび、水波くんとキスしてしまったことがよぎった。
先生以外とは初めてだ。先生は、あんまりああいうキスはしない。もっと性的で、それに慣れてしまったせいか、かえってあんなほのかなキスに動揺してしまう。水波くんも、あんまりキスをしたことがないのかもしれない。
先生は──僕とつきあう前に、経験があったからあんなにうまいのだろう。「好きな人」とはつきあえていなかったようだし、どこで誰と愛しあったのか。それは、考えすぎるとつらくなるから考えない。
水波くんは先生のことを話すと言っていた。もしかして、僕以前の先生の恋愛関係の話だろうか。そこに何かあったのか。別れたくなるほどの何か? そして、水波くんとつきあってしまおうと思うような?
分からない。ため息がもれて、シャーペンを投げて、背もたれに寄りかかった。
会ってないしなあ、とぼうっと思った。先生に、二週間以上会っていない。きっと、こんなにゆらゆらしてしまうのは、先生に触ってもらっていないからだ。もし、先生と日常的に過ごせていたら、水波くんの唇なんて押し退けていた気がする。
寂しいな、と先生の軆を思い出そうとしたけど、記憶が霞んでしまって、なぐさめるには下半身がそんなに煽られない。会って、抱きしめてもらったら、きっと一気にこんな靄は晴れるのに。
そのときスマホが鳴って、ベッドスタンドを見た。メールの着信音だ。水波くんかな、と立ち上がってスマホを手にした僕は、表示されていた名前にまばたきをした。
水波翠。
え、と慌ててメールを開く。
『遅くにごめん。
妹さんのことで、今日緊急会議があった。
学校側が強要すべきじゃないって声もあったけど、優織と妹さんはしばらく登校を見合わせるよう、明日ご両親に伝えることになった。
ご両親も反対しないだろう。
だから、俺と優織もしばらくゆっくり会えなくなる──』
ここまで読んで、ふと思った。
本当、かな? これ、本当かな。もしかして先生、僕を避けてない? このまま離れて、捨てようとしてない? 都合よく切ろうとしてない?
先生、だった?
まさか、僕と体よく別れるために、僕や聖音を?
水波くんがしてくれようとしている『話』って……
僕は咬んだ唇をほどいて深呼吸して、先生の電話番号を呼び出した。少し指先を迷わせてから、番号をタップする。
コールが響く。長く続いた。スマホのそばにいないのだろうか。今、このメールが来たのに。
留守電だったら、何を残す? ああ、だから僕は言ってしまえばいいのだろうか。もう僕は水波くんと──
ふっとコールが切れて、『優織?』と聴こえた。
『どうした? あ、今のメール──』
「……たよ」
『え?』
「……メール、見たよ」
『あ、……そっか。電話しようと思ったけど、落ち着いたってメール来てなかったから』
少し、心が揺れる。何。何で。視界が潤む。そんなことを言われたら、思いやってもらっているみたいではないか。
『ごめんな』
「えっ」
『しばらく会えない、って……電話のほうがいいとは思ったんだけど』
「………、」
『俺も、担任って立場で優織が学校に来たいって言ってたのも話したし、俺がなるべく気をはらうって言ったんだけど。妹さんの担任の先生が、かなりショックを受けていて、もしものことが起きたら責任が取れないって言って。俺も正直、最悪の場合に責任取れるのかって言われたら取れないなって』
「……ん、」
『優織に何かあったら、責任取れないどころか、どうやって生きていけばいいのか分からないよ』
目をこぶしでこすった。それでも口元に塩味が染みこむ。鼻をすすって、小さくうめいてしまう。
『優織、』
「先生」
『ん』
「先生に会いたいよ」
『えっ』
「ずっと会ってなくて寂しい」
『俺も、寂しい……けど。今は、』
「分からないよ。僕は何を信じたらいいの? 誰を頼ればいいの? 先生を信じてていいの? 水波くんと話したほうがいいの?」
『え、水波って碧か? 碧が何か言ってきたのか?』
「僕に話したいことがあるって。今日も会って、一緒にごはんとか食べてきた。先生の言った通り、水波くんは犯人じゃない気がしてきた。だから、水波くんのことは信じてもいいのかな?」
『………、碧と、友達になるのはいいと思うけど──。そもそも、話って何の話だ?』
「……先生のこと」
『俺?』
「先生のことで、その話を聞いたら、自分とつきあってって」
『何でそうなるんだよ。それは断っただろ?』
「断った、と思うけど。よく分からない……」
先生のため息が聞こえた。僕はうつむいて自分の爪先を見つめ、いらいらさせてるなあ、と我ながら思った。
先生の声を聴いているのに、胸の中の黒いざわめきが落ちない。いつもなら、先生と話せるだけで何でも軽くなるのに。
どうしても、僕が疑ってしまっているからだ。先生は、僕のことなんか、もう──
『優織』
「……ん」
『とりあえず、碧には会わないほうがいいと思う。せめて、会うなら俺も一緒に会う』
「えっ」
『俺のいないところで俺の話なんて、俺にとっていかがわしい話だろ。優織には、何を知られてもいいと思ってるけど。悪意で知られるのは嫌だ』
「知られてもいい……」
『構わないよ。それだけ優織のことが好きだから。いずれ、俺のことは全部知ってもらいたいと思ってる。碧が話そうとしてることも、だいたい想像はつく』
「じゃあ、先生も一緒に水波くんの話を聞いてくれるの?」
『優織が碧の話を聞きたいなら、俺はそうするよ。ふたりきりで会うのはやめてほしい。……今日も、会ったんだな』
「あ……、」
『……ごめん、それに嫉妬して、口調きつくなった。俺は、優織とデートしたことなんてないのに』
「ご、ごめんなさい」
『いや、友達ならいいんだ。それに文句つけるほど束縛はしたくない。ただの友達だよな?』
「うん。ただの──」
一瞬よぎる。水波くんとのキス。でも振りはらった。
「友達だよ、水波くんは。僕が好きなのは先生だよ」
『よかった。優織が離れていくみたいで怖いんだ。いつも一緒にいたいのに、二学期からは学校もなくなる』
「そうなったら、どうやって会えばいいの?」
『家庭訪問に行く。でも、優織の家だからやましいことはできなくなるな。それでも、優織の顔を見るだけでもしたいから』
ようやく、鼓動が溶けていく。やっと歯車が合って、落ち着く気がした。
そう。この安心感だ。欲しかったのは、この優しい指先の痺れだ。
「先生」
『ん?』
「水波くんと話が終わったあと、時間ある?」
『碧と会うのはいつだ?』
「お盆明けてから決めようって、まだ決めてない」
『じゃあ、早めに決めて教えてくれたら、その日は一日空けるようにする。終わったら、ドライブくらい連れていく』
「ほんと?」
『それか、俺の部屋に来るか?』
「えっ、いいの?」
『散らかってるけどな』
「じゃあ、先生の部屋に行きたい」
『分かった。一応、掃除しておくよ』
先生の苦笑いが鼓膜に柔らかで、感覚がなくなっていたような心に、やっと神経がよみがえって温まってくる。
まだ話していたかったけど、この通話は僕からかけているから、長電話ができない。『明日は夜に電話してもいい?』と訊かれて、「うん」と僕は答えた。『いろいろ怖い想いさせてるのに、力になれなくてごめん』とも言った先生に、「先生がいてくれるなら大丈夫だよ」と僕は咲い、すると先生は『そばにいるよ』と優しくささやいてくれた。甘い陶酔がじわりと広がり、また視覚が湿りそうになる。そうして、おやすみを言い交わすと、僕たちは一緒に電話を切った。
宿題は明日頑張ることにして、ベッドに横たわった。水波くんがしようとしてる先生の話って結局何なのかな、と少し不安だったけれど、先生が隣にいてくれるなら、ちゃんとその場で説明はもらえる。
何より、先生に会えるのだ。夏休みは会えないと思っていたのに、顔が見れる。話が終われば、時間ももらえる。
水波くんに何を言われても、きっと平気だ。先生と別れるなんてない。水波くんとつきあうなんてもっとない。僕は先生のことをもっと知って、それを受け入れるだけだ。何も怖くない。
お盆は例年とは逆に、おじいちゃんたちが僕の家にやってきて、僕や聖音のことを心配してくれた。聖音はまだ入院していた。それは傷の深さというより、心の問題だった。あんなにあっけらかんと明るい子だったのに、僕とも目を合わせて話そうとしなくなってしまった。
犯人は依然として捕まっていない。僕の件と聖音の件に、関連性があるのかないのかも分かっていない。水波くんも犯人ではないのなら、いったい誰なのか、暗中になっていく犯人に僕も不安はあった。
両親や祖父母、お医者さんも廊下に出たとき、食欲もなくなってちょっと痩せた聖音の手に僕は手を重ねて、「僕がそばにいるからね」と言った。すると聖音は、こちらは見なかったけど、こくんとして無表情のまま涙を落とした。
お盆が明けると、僕から水波くんにメールを入れた。早く先生に会いたいから、午前中に『今週、会える日があれば会わないかな?』と訊いた。
返信を待っているあいだは宿題をして、一時間後くらいに、『寝てた』ととりあえずひと言返信が来た。それに続けて、『じゃあ、水曜か金曜』と来たので、水曜だと先生にとって急かもしれないと思って、『金曜日がいい。』と答えた。
『何時? 昼飯食いながら話す?』と言われ、『時間はいつでもいいよ。お昼、安いとこにしてね。』と確認しておく。すると、『おごるし』と来て、すぐに『じゃあ、また駅前に十二時に』と来た。『自分の分は出すよ』とは送っておいたけど、もう返事は来なかった。
おごるし、と言われても、同級生なのに。先生だったら甘えるけど──と思って、先生の同席を伝えるのを忘れたことに気づいた。どうしよう、と今から連絡を継ぎ足すか迷ったけれど、何となく、先生が来ると言うと水波くんの機嫌を損ねる気がして、続けられなかった。
それから、先生にメールをした。金曜日、十二時、最寄り駅前。先生はすぐ返信をくれて、『当直でもないから、夜まで大丈夫だよ。』と添えてくれた。夜まで。その言葉に勝手にどぎまぎして、触ってもらえるのかなあ、とベッドをごろごろしてしまった。
先生の部屋に行けるのも楽しみだ。というか、学校の外で会えることが嬉しい。卒業までそれはないと思っていた。
まくらに顔を埋めて、先生のことばっかり考えて何も手につかない。思えばひと月近く会っていないのだ。何だかもう、会ったらめちゃくちゃにされたいとか考えてしまう。先生もそう思ってくれてるかなあ、と視線を霞ませて、クーラーの涼風がそそぐ中で、うたたねをしてしまっていた。
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