角砂糖、もうひとつ-11

私が今、生きているのは

「俺が、小六のときなんで」
「小六」
「あのときの悠海さんは──十九歳ってことになりますね」
「十九歳……」
 やっぱり──ぴったり、あのときの年齢だ。十九歳のとき、私は奈木野さんのことを知って、関係も終わって、神経がぼろぼろになっていた。
「悠海さん、すごく泣いてて」
「………、」
「自分は好きな人に『好き』って言ってもらえないって言ってました」
「話、したんだ」
「少し。それも憶えてないですか」
「……うん」
「そっか──」
「ごめんね」
「いえ」
「……ぜんぜん、憶えてない」
 言いながら、つい視界が水分に揺らめいてしまう。私はあの頃、どれだけ奈木野さんに支配されていたのだろう。話を聞いてくれた男の子なんて、まったく記憶に残っていない。
「悔しい」
「えっ」
「今になって、すごく悔しい。紅磨くんのこと、こんなに好きになるのに、もう思い出せないなんて」
「いいんですよ、俺とか……そのときは眼中になくて当然だったし。小学生ですよ」
「それでも」
「ただ、俺、そのときに思ったんです。この人にうざいくらい『好きです』って言ってあげたいなって。それで咲ってくれるなら、いくらでも『好きです』って言うのにって」
 紅磨くんを見た。紅磨くんは月光の中で微笑んで、「好きです」と優しく言ってくれた。何とかこらえていた涙が、どうしてもこぼれおちてくる。
 紅磨くんは腕を伸ばして私を抱きしめると、「悠海さんが好きです」と頭を撫でてくれる。少し汗が香る紅磨くんのTシャツに顔を埋め、ついに私は泣き出してしまう。紅磨くんは我慢強く私を受け止め、何度も「好きです」とささやいた。
 波音と一緒に聞こえる甘い言葉が、私の心に溶けて染みこんでいった。
 終電までなら、とは思っていたものの、その日は紅磨くんを本当にぎりぎりに終電で帰してしまった。遅れて泊めることになるよりマシだったと思うけど、しっかりしないと、と思った。紅磨くんが十八歳になるまで、私は大人として待たなくてはいけない。
 紅磨くんのことなら、信じて待てる。待っていても、決して裏切られることはない。裏切ろうとも思わない。紅磨くんを大切にしよう。
 やっと初恋に終止符が打たれるのを感じた。私が好きなのは、もう奈木野さんではなく、紅磨くんなのだ。
 だけど──どんな出逢いだったのかは結局聞けなかったなあ、と帰宅した部屋のベッドで仰向けになって思った。私が思い出せないものを紅磨くんも説明しようがなかったのは、もちろん分かる。まあ、何やらよりによって泣き崩れている醜態を見られたようなので、聞かないほうがいいのかなという気もする。
 それでも、一応会話もあったようなのに、私は相変わらず思い出せない。当時、小学生の男の子と接点を持つようなことがあっただろうか。十九歳といえば、実家にいた頃になる。今住んでいるこの町でもないのに、どうやって紅磨くんと出逢ったのだろう。
 他人事みたいに出逢いを説明してもらうのも失礼だし、これ以上こじあけることもないのだろうけど。とりあえず私は無神経だな、とひとりでばつが悪くなった。
 夜の海のデートから数日が過ぎた。その日も私は炎天下の下を出勤していて、ふと背中に「すみません」と声をかけられた。立ち止まって振り返った私は、「あっ……、」と思わず声を漏らす。そこにいたのは、私服らしい濃い紫のキャミソールワンピースを着た茉莉紗さんだった。
 私の視線を受けて、予想外に茉莉紗さんは頭を下げた。その反応に狼狽えたものの、私もぎこちなく会釈すると、「紅磨に聞きました」と突然の切り口で茉莉紗さんは私を静かに見つめてきた。
「え……」
「つきあいはじめたことも、紅磨がずっと好きだったのが、あなただったことも」
 私はまばたきをする。紅磨くん──ちゃんと、茉莉紗さんにも言ってくれたんだ。それは少し嬉しくて、けれど表情には出さずに「そう、ですか」とあやふやに相槌を打つ。
 茉莉紗さんは私をまっすぐ見て、「謝ったほうがいいと思って」と言った。
「あたし、紅磨の好きな人の話、ずっと聞いてたから。紅磨とはその人とつきあってほしいと思ってたんです」
「……え?」
「でもどこかで再会するはずないなんて思って、正直、あなたが引っ張りまわしてると思ってました。ごめんなさい」
 紅磨くんの好きな人。……って、私か。その人とつきあってほしかった。茉莉紗さん──実は、一番に紅磨くんを応援していたということ?
「紅磨くん、私のこと話してたの?」
「はい。ずっとあなたを心配してましたよ」
「……心、配」
「助かったよな、またあんなことやったりしてないよな、って」
「え……」
 よく分からなくて茉莉紗さんを見つめた。
 助かった。またあんなこと。
 ……って、どういう──
「紅磨のこと、怨んでないですよね?」
「えっ」
「あのとき紅磨が救急車呼ばなかったら、……死ねてたとか、そんなことは思わないでやってほしいんです」
 え……
 ……え?
 何、どういう──
 どくん、と心臓が大きく脈打った。混乱が体中に拡散する。私はじわじわと目を見開いた。頭の中がざあっと奪われ、ぐるぐると逆流していく。唐突に、脳裏に「その記憶」が瞬く。
 水辺の匂いがただよっていた。
 手首が赤く赤く流れ出している。
 青空が広がっていた。
 どのくらいそうしていただろう。
 不意に叫び声がした。
「大丈夫ですか!?」とかたわらに誰かが座った。
 小学生くらいの男の子。
 ほっといて、と私は泣いた。
「こんなのダメです」と彼は言った。
 何で。
 私は好きな人に好きとも言ってもらえないのに。
「それでも」と彼は泣きそうな声で訴えた。
「生きてたら、おねえさんを好きだって言う奴は、絶対いるから──……
 ──息が、止まるかと思った。
 そうだ。そう、思い出した。あのとき。あのときだ。
 紅磨くんと出逢ったのは、あのとき──
「あなたのことを、紅磨はずっと忘れなくて」
 猛暑なのに、ショックで軆が冷たくなっていく。
 紅磨くん。嘘。嘘でしょ。
「また会えたら俺が『好きだ』って伝えるって、いつも話してました。あたしも、それが叶うといいなって思ってて。紅磨は、ほんとにあなたのことを想ってきたんです」
 まさか、あのとき、私を必死にこの世に引き止めてくれたのが──
「あたしはそれを知ってるのに、ほんとに……嫌なことして、すみませんでした。あたしからもお願いです、あんなことは二度としないでください。紅磨がいてくれるから。あなたには、紅磨がいるから」
 紅磨くん。紅磨くん。紅磨くん。
「紅磨と一緒に、生きてください」
 私は茫然としていたけど、はっとして茉莉紗さんを見た。「あり、がとう」と引き攣った声だけど何とか答える。
「私、も──バカなことして、ごめんなさい」
「今は、そんなことしないですよね」
「……は、い。紅磨くんが、私を変えてくれたから」
「よかった」
 そう言って、茉莉紗さんは初めて私に向かって咲った。やっぱり、綺麗な女の子だと思った。
「あっ、仕事行くんですよね。邪魔してすみません」
「あ、そうだ。ええと、その──」
 茉莉紗さん。あなたは、紅磨くんのこと──
 言いそうになったものの、聞いても報われない。本当に時間もない。私はぐっと押し殺して「ありがとう」だけもう一度言うと、職場への道へと駆け出した。
 紅磨くんに会いたい。今日、紅磨くんシフト入ってたっけ。早く、ありがとうって言いたい。あなたのおかげで、私は今生きていると伝えたい。
 そう思いながら店に着くと、「お疲れ様でーす」といつもの挨拶が聞こえて顔を上げた。紅磨くんが制服すがたになってそこにいた。「え、学校……」とぽかんとした私に、紅磨くんは噴き出して、「今日から夏休みですよ」と言った。
「夏休み……」
「つっても、受験の夏期講習とかはあるんですけど。それがない日は、昼番として入ってがっつり八時間働きます」
「そ、そうなんだ」
「悠海さん、時間やばいですよ。いつも、こんなぎりぎりなんですか?」
「ううん、今日は……あ、あのねっ、紅磨くん」
「はい」
「私のこと、好きになってくれてありがとう」
「えっ」
「紅磨くんのおかげで、私、生きていけるから」
「……悠海さん、」
「だから、いつまでもそばにいて……ね?」
 紅磨くんは私を見つめて、柔らかく微笑すると、「任せてくださいっ」と駆け寄ってきて私の頬にキスをした。
 ずっと、引っかかっていた。自信がなくて、恋ができなかった。私は重い。きっと、すごく重い。受け止めてくれる男の子なんていない。そうあきらめていた。
 だけど、こんな私の前にも紅磨くんが現れた。本音をさらしたすがたを知っても、会えない何年ものあいだも想って、追いかけてここに来て、私のことが好きだと告白してくれた。私なんかに、もったいないほどの情熱を焦がして恋をしてくれている。そんな男の子が、今の私のそばにはいてくれる。
 生きていける。ううん、生きていきたい。死にたいなんてもう思わない。この男の子が見守ってくれているから、私はやっと未来を優しく受け入れられる。
 私の隣には紅磨くんがいる。
 だから私は、この先では幸せに満たされて、咲って生きていける──

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