角砂糖、もうひとつ-4

デートをしませんか

 夜番が休憩に入ってくる前に私たちは手を離して、服を着替えた。そのあいだに夜番の男の子が休憩に来て、「学生集団何組来るんだよー。うるせー」と嘆いていた。私と紅磨くんはそれぞれ「頑張れ」「耐えましょう」と彼をねぎらって鍵を預け、いつも通り裏口からお店を出た。
 厨房の匂いがする店の裏手を抜け、車道沿いの道に出る。そのときだった。
「紅磨!」
 不意にそんな声が背中に聞こえて、私も紅磨くんも振り返った。ヘッドライトの逆光の中、こちらに駆け寄ってくる人影がある。
 紅磨くんが先に、「あ、」とつぶやいた。
茉莉紗まりさ
 私は紅磨くんを見上げた。「ちょっとすみません」と紅磨くんは私に言い置いて、その人影に駆け寄り返す。
「どうしたんだよ」
「帰るの?」
「そうだよ」
「今、店に上坂うえさかとか来てるんだけど」
「は? 何で?」
「紅磨が働いてるとこ見たいって」
「うざっ。何、お前が連れてきたのかよ」
「別にやましいことはないでしょ?」
「裏で先輩が学生うるせーって言ってるくらい迷惑だわ」
「あたしは店の外で待ってたから、うるさいかは知らない」
「どうせなら売り上げに貢献していけよ」
「帰るってことは上がったんでしょ? 一緒に戻るなら貢献してあげる」
「え、あ──いや、それは無理だけど」
「何で?」
「何でもっ。じゃあ、俺は知らねえぞ。帰るからな」
「上坂たち放置すんの?」
「勝手に来た奴らとかどうでもいいわ。じゃな」
 ヘッドライトで、紅磨くんが話している相手が見えた。綺麗な黒髪ストレートの女の子だ。目鼻立ちがはっきりした快活そうな顔立ちで、紅磨くんと同じブレザーを着ている。
 誰、だろう。知らない。見たことがない。
「悠海さん」と名前を呼ばれてはっとして、私は紅磨くんを見た。その向こうで、女の子も私に目をくれたのが見えた。一瞬、眼つきがきつくなったのは、光の加減か気のせいだろうか。
「帰りましょう」と言われて、私は狼狽えて彼女を見てしまう。
「えと、あの子は」
「ただの幼なじみです。高校も同じで」
「置いていっていいの? 友達もお店にいるようなこと──」
「そんなんより、悠海さんを送るほうが大事だから」
「でも」
「いいんですよ。──茉莉紗、お前もさっさと帰れよな。俺はこの人送ってくから」
「その人が、学生うるさいって言った先輩?」
「この人は客にそんなの言わねえよ。じゃあなっ」
 紅磨くんは私の手を取って歩き出し、「あっ、」と私は慌ててそれを追いかけ、何となく茉莉紗さんと呼ばれた女の子に頭を下げた。茉莉紗さんがどんな表情をしたかは暗闇で見取れなかった。見取れなかったけど、少なくとも、会釈のシルエットは返ってこなかった。
 綺麗な子、だった。かわいいというか、美人といった感じ。紅磨くんには、あんな幼なじみがいるのか。
 私を見たとき、一瞬険しくなったような眼が喉をちくりと刺した。もしかして、あの子のほうは紅磨くんのこと──
 その可能性が脳裏でふくらみ、何で、と紅磨くんの背中を遠く感じた。そんな子だって、いるのに。何で紅磨くんは、私なんか。あの子とつきあうほうが、絶対にお似合いなのに。
 私なんか、ぜんぜん、ダメだよ。誰が見たって、紅磨くんにはあの子が相応しいよ。
 脇道に曲がろうとしたときだ。不意に紅磨くんが立ち止まって、その拍子に思わずまばたきをしてしまった。そうすると、目から雫がぽろっと落ちた。
「悠海さん──」
 紅磨くんがまぶたを開き、こちらを覗きこんでくる。私は慌てて笑みを取り繕って、「何か目に睫毛入ったかも」と涙を隠す。紅磨くんは私を見つめてきて、つないだ手に力をこめると、「うぬぼれかもしれないけど」と静かに言う。
「茉莉紗は、何でもないですから」
「えっ」
「仲はいいです。信頼もしてます。でも恋愛はないです」
 私はとまどいながら紅磨くんを見上げる。紅磨くんは少し決まり悪そうに、「ほんとうぬぼれですけど」と繰り返す。私は、つながっている紅磨くんの手を握った。
「……あの子も?」
「え」
「あの子も、紅磨くんのことをそんなふうには見てないの?」
「それは──たぶん。勝手に言い切れないけど」
「………、」
「でもっ、もしあいつに告られても、俺は考えられないです。俺は悠海さんしか考えてない」
「すごく、綺麗な女の子だったよ」
「性格が男なのは昔から知ってるんで。いまさら女として見るとか無理です」
「……そっか」
「ごめんなさい、さっき何もしなくていいって言ったのに、すぐ不安にさせて」
「ううん。もしあの子と可能性あるなら、邪魔はしたくないなって……」
「可能性ないです。ゼロです」
「そっ、か。うん、分かった。よかった」
 無意識にそう言って、あ、と気づいて頬を染める。よかった、って。完全に紅磨くんに期待してるじゃない。
 紅磨くんも私の言葉に気づいたようだけど、揶揄うことはせずに、「あの」と深呼吸して話題を改める。
「もうすぐ、俺、中間考査なんですけど」
「えっ。あ──そっか」
「バイト休みになるんで、ゆっくり話とかできなくなるんですよね」
「そう、だね」
「だから、その……中間終わったら、俺とデートしてくれませんか」
「え」
「そのために、悠海さんと話せなくても、勉強頑張るんで。デートでいっぱい悠海さんと話せるなら、少し、我慢もするから」
 デート。
 ……何で、だろう。私はずるいのかな。紅磨くんのそばに女の子がいると知っただけで何だか焦って、ここでデートしておかないとあっさりあの子に取られるかもとか考えてしまう。
 焦ったりしなくていいと紅磨くんは言ったけれど、そんなの、紅磨くんに揺れるほど……無理だよ。
「そ……う、だね」
 どきどきしている心臓でどもらないように、ゆっくり答える。
「勉強、頑張るんだもんね」
「はい。あと、試験休みが平日にありますし」
「そっか。うん、じゃあ……行こっか」
「いいんですか?」
「私でよければ」
 紅磨くんはぱあっと笑顔になって、「やったあ……っ」と噛みしめるようにつぶやいた。
 デート、と反芻した。いいのかな、ほんとに。一緒に並んで歩くなんて、はたからおかしく見えないかな。犯罪に見えたらどうしよう──とまで一瞬思ったけど、嬉しそうな紅磨くんを見ていると、ご褒美なんだよね、と考え直した。
 そう、試験を頑張ったから、お願いを聞くだけで。やましいものはない。その日は、できるだけ紅磨くんのわがままも聞いてあげよう。それくらいのことを、私も普段から紅磨くんにしてもらっている。
 次の日に出したシフト希望で、紅磨くんの試験休みの日にはオフを申請しておいた。こういうとき、シフト希望を週ごとに出せるのは便利だ。それからすぐ紅磨くんは試験週間に入り、バイトをしばらくひかえることになった。
 このときだけは、私もひとりで夜道を帰る。紅磨くんが試験のときは、いつもそうしているけど、怖いというより、今回は特に寂しいなあと感じてしまう。でもこれが終わったらデートなんだ。そう思い、何か私まで楽しみにしてる、と自覚してひとりで恥ずかしくなる。
 デートなんて、初めてなのかな。奈木野さんと会っていたけど、あんなの、きっと奈木野さんにはデートじゃなくて御守のようなものだったと思うし。デートしよう、とちゃんと言葉にして男の子と会うのは、初めてだ。
 そう思うと、妙にどきどきしてきた。私のほうが大人で、余裕も持たないといけないのに。ぜんぜんしっかりできそうにない。むしろ、会えないあいだにふくらんでくるような気持ちがあって、就寝前とかにやたらそわそわしてしまう。
 ああ、この気持ち認めちゃっていいのかな。気づくと紅磨くんのことを思い出している。好きにさせるって言われて、私はほんとに、紅磨くんのことを好きになりはじめているのかな。
 シフト希望は無事通って、紅磨くんの試験休みの日に私はオフになった。紅磨くんもその日はオフになっていて、代わりに試験最終日からバイトに入っている。
 バックに貼り出されたそんなシフト表を見ていると、「ちょっとめずらしいよね」と背中に声がかかって、どきんと振り返ると真垣さんがいた。
「め、めずらしいって」
「木ノ村くん。試験休みは、たいてい入ってくれるから。試験さえ終われば大丈夫ですよって」
「そ、そう──ですね。何かあるんですかね」
 言ってしまってから、何かあるのを知ってるみたいかな、と焦ったけど、真垣さんはおっとりした瞳のまま首をかしげる。
「今回は試験に自信がないから、赤点に備えたほうがいいかもって言ってたよ」
「あ、そう、なんですか」
「シフト入ってもらいすぎかなあ。悪いことしたな。木ノ村くんの本分は勉強なのにね」
 私は真垣さんを見上げた。「でも、木ノ村くん即戦力だしなあ」とかつぶやく真垣さんに、この人を騙したり隠し事をするのは嫌だなと思った。私たちを信じて雇ってくれているのだ。紅磨くんと何か進展があるようなら、真垣さんだけには打ち明けたほうがいいのかもしれない。
 そんなふうに、しばし紅磨くんのいない毎日を過ごして、ようやく試験最終日が来た。その日は何だか落ち着かなくて、必死にミスをしないように気をつけて、ホールを歩きまわっていた。やがて夜番のメンバーが出勤してきて、ちらちら気にしていると紅磨くんも「お疲れ様でーす」とやってきた。
 試験は午前中だけだろうから、定刻に来れたのだろう。バックへのドアに入る前に振り返った紅磨くんは、私を見つけるとにこっとしてきた。それだけで自分が特別になれたみたいで嬉しくて、私もはにかんで笑顔を返した。
 お店を朝番スタッフに任せて、手短に夕礼をすると、そのまま私は休憩に入る。「試験どうだった?」とほかのスタッフに訊かれて、「まあまあですねー」と答えながら紅磨くんはバックを出ていく。
 まあまあ、だったのか。もしほんとに赤点だったらデートはないんだよね、とか思って、食べようとしたサンドイッチを持つ手を止めてしまう。それなら、それで、仕方ないけど──
 私は頭を振って、もやもやするな、と自分に言い聞かせてまかないを食べた。
 朝番が上がってきて少し騒がしかったけど、朝番の人は長居せずさっさと帰る人が多いから、またすぐ静かになる。今日は真垣さんもデスクでなくホールにいる。私も休憩を終えると店内に戻り、残り二時間を働いた。お客様が去ったテーブルを片づけていると、「二十時だから代わるよ」と真垣さんが声をかけてくれて、私は無意識に時計を見たあと、「じゃあ、お疲れ様です」と頭を下げてバックに下がってタイムカードを切った。
 エプロンをほどいて椅子に座ると、「疲れた」とひとりごちてテーブルに突っ伏す。ひとりだけなのにエアコンをつけるのは申し訳ないから、ちょっと蒸し暑い。今日は紅磨くん何時に上がることになるのかな、と思っていると、背後でドアの開く音がして、ぱっと振り返る。
「お疲れ様です」
 そう言って笑顔を向けてきたのは、紅磨くんだった。続いてくる人はいないようだ。「お疲れ様」と答えて、私は上体を起こす。
「休憩?」
「上がりです。悠海さん送ってほしいからって」
「真垣さん?」
「はい」
「ごめんね、私がいなきゃ二十二時まで働けるのに」
「俺がここに勤めてるの、悠海さん目当てだからいいんですよ」
 私はちょっと笑い、紅磨くんは私の隣の椅子に腰かける。瞳が重なって、紅磨くんはわずかに面映ゆそうにしたものの、いつも通り微笑んだ。
「会いたかったです」
「うん」
「でも、頑張りました」
「そうだね」
「試験、ちゃんと受けてきたんで。明日は大丈夫です」
「よかった。ちゃんとオフになってるよ」
「来たとき、俺も確認しました」
 紅磨くんはそう言ってから、急に「あーっ」と声に出してため息をつく。
「ほんっと、人生で一番試験頑張った」
「はは。高校受験より?」
「もしかしたら。だって、あんな誘っといて赤点でデート潰れますとか、めちゃくちゃかっこ悪いじゃないですか」
「いつでもまた行けるのに」
「え、また行ってくれるんですか」
「あっ──ええと、まあ、ご希望であれば」
「希望します」
「じゃあ、都合が合えば」
「やったっ。すっげー嬉しい。悠海さんとデートかあ。明日はどうしようかなあ」
「行きたいところとか、考えておいたほうがいいのかな」
「あります?」
「うーん、紅磨くんに任せる」
「分かりました。映画の好きなジャンルだけ訊いといていいですか」
「………、好きなジャンルというより、苦手なのはあとで思い出して怖い奴かな」
「和製ホラーとかですか」
「うん、そう」
「怖いんですか」
「ひとり暮らしには、けっこうその夜が切実になる」
「明るい奴探しときます」と紅磨くんは笑いをこらえていて、私に軽く小突かれると、「やっぱ悠海さんかわいい」と笑いを飲みこんだ。年下の男の子にかわいいと言われてもかちんと来なくて、むしろ照れそうになってしまう。
 やっぱ私の中で紅磨くんは特別になってきてるかも、と思いながら、明日はどんな服を着ようかなあなんて思った。

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