だって釣り合わない
「あ、そろそろ映画入れるかも」と紅磨くんがスマホで時刻を確認して言ったから、「じゃあ、行かなきゃ」と私もはたとする。私たちは三階に戻ってキャラメルポップコーンを買って、一番初めの予告編から観始めた。
捨てられていた子犬と、虐待で家を追い出された小さな女の子が出逢う話だった。子犬の世話をすることが女の子の心に光を灯して、そんなとき子犬を捨てた家の高校生の男の子が現れる。女の子はもちろんその子に反抗するけど、家族が勝手に捨ててしまっただけで、自分は育てたいから探しに来たと男の子は言う。初めはそれを信じなかった女の子も、ひとまず連れていかずに一緒に子犬の世話をしてくれる男の子に心を開きはじめて、でも男の子を信じて子犬を渡したら、また自分はひとりぼっちで──ラストは、男の子の通報が切っかけで親戚に引き取られることになった女の子が、子犬と一緒に迎えを待っているシーンで、子犬が死ぬところじゃなかった。けれど、私はぼろぼろ泣いてしまった。
エンドロールのあいだに泣きやみたかったけど、結局涙が止まらなくて、紅磨くんにもろに泣き顔を見られてしまった。紅磨くんは柔らかく微笑んで、手を伸ばして私の涙をはらってくれた。「どこかでお茶飲んで落ち着きましょうか」と言われて、私はこくんとして隣の空席に置いていたぬいぐるみを抱えなおし、紅磨くんと映画館をあとにした。
そのビルは窓際がショウウィンドウになったカフェが一階に入っていたので、私たちはそこに入った。涼風とコーヒーの香りがただよう中、少し混みあっていたけど空いている席はある。
席に着いて店員を呼ぶのでなく、先にテイクアウトして席を取るカフェで、私は紅茶、紅磨くんはカフェラテにして、通りに面するショウウィンドウの四人がけの席で向かい合った。
テーブルに角砂糖の瓶があって、私は紅茶にひとつ入れる。
「紅磨くんもお砂糖いる?」
「あ、はい」
紅磨くんのカップにひとつ角砂糖を落とすと、「あ、もうひとつお願いします」と私が瓶を閉じる前に言う。
「スティックじゃないし、たぶん甘いよ?」
「いや、苦いです。苦いのはダメです」
「………、コーヒー飲めなかったりする?」
「無理です。ちなみに酒も変な味で無理です」
まじめに紅磨くんが言うので、私は咲ってしまったけど、「分かりました」と角砂糖をもうひとつ紅磨くんのカップに入れた。紅磨くんはスプーンでカフェラテをかきまぜつつ、「ガキって思われたくないんですけど」と肩をすくめる。
「やっぱり、苦いのだけは我慢できない」
「いいんじゃない、我慢しなくて」
「でも、ガキと思ってませんか」
「かわいいなあとは思う」
「かわいくないですよ」
「ふふ。紅磨くんはすごくしっかりしてるから。そういう一面もあったほうがいいよ」
私が微笑すると、紅磨くんは照れ隠しのようにカフェラテに口をつけて、「ん、うまい」とつぶやく。
「日長くなりましたね。明るいけど、もう十七時まわってますよ」
スマホで時刻を見た紅磨くんがそう言って、私はショウウィンドウからまだ青い空を見上げたあと、「早いね」とうなずく。
「悠海さんは、何時頃まで大丈夫ですか?」
「私は特に門限はないよ。ひとり暮らしなんだし」
「まあ、暗くなってもいつもみたいに送りますしね」
「いいの?」
「いつも通りです」
「そっか。紅磨くんは何時くらいに切り上げたい?」
「俺もいつもと一緒です。終電までに帰ればいいので」
「終電は、何か、今度は私が紅磨くんのこと心配になるから、その前にしよう」
「じゃあ、今電車が帰宅ラッシュだと思うんで、それが過ぎたくらいに帰りましょうか」
「そうだね。それまで、ここでゆっくりしよっか」
そんなわけで、そのあとはその席で紅磨くんとまったりしゃべりながら過ごした。試験期間はぜんぜん会えないぶん、デートでいっぱいしゃべりたいとも言っていたっけ。だから、私も時間を気にせず紅磨くんといろいろ話した。今観た映画のこと、職場のこと、紅磨くんの進路のこと──
私は一瞬、奈木野さんのことを話してみようかなと思った。しかし、やめておいた。何となく、空気を萎ませる気がした。私が好きだった男の人の話なんて、紅磨くんも楽しくないだろうし。私もあえて思い出そうとも思わないし。
代わりに南乃のことを話したりはして、すると、「俺が昔から仲いいって言ったら茉莉紗だなあ」と紅磨くんが言ったので、少しだけ胸がざわめいたりした。そのとき茉莉紗さんのことを掘り下げて聞くこともできたのだろうけど、何となく知りたくなくて、私はただ話題をそらした。
二十時をまわった頃にやっと席を立ち、私たちは同じ電車に乗って帰路についた。私が降りる駅で紅磨くんも降りてくれた。紅磨くんはここからまだ下った駅が最寄りだそうで、「また初乗りがかからない?」と心配したら、「通学の定期の中なんで」とパスケースを誇らしげに見せてくれた。
そんなわけで、実際もう日が暮れていたので、駅からは二十分くらいかかる私のアパートまで送ってもらった。部屋にあげてお茶でお礼くらいしたほうがいいのかな、と思ったけれど、おしゃべりはだいぶしてきたから、「また明日」とアパートの前で私は言った。紅磨くんは「はい」とうなずいて笑顔になり、「楽しかったです」と言ってくれる。
「私も。ぬいぐるみで想い出も残ったし」
「はは。なら、取ってよかったです」
「ほんとにありがとう」
「俺こそありがとうございます。あの、ほんとに……よかったら、またデートしてください」
「うん。ぜひ」
私がそう答えると紅磨くんは嬉しそうに咲って、「じゃあまた明日」と頭を下げてきびすを返した。私がたたずんでそれを見送っていると、紅磨くんは振り返って手を振ってくれた。私も手を振って、もう終わっちゃった、と息をついたものの、紅磨くんには明日も職場で会えるんだと思って、ぬいぐるみを抱きしめるとアパートの中に入っていった。
それから、少しずつ紅磨くんをきちんと男の子として意識するようになってきた。弟みたいに思っていたけど、今はそういうふうに見れない。向けてくれる笑顔とか、つないだ手とか、過ごす時間とか、いろんなものが捨てられずに心に保管されていく。紅磨くんとの想い出が、大事で特別なものになっていく。
好きなのかな、とそわそわしながら隣にいる紅磨くんを見上げる。私、紅磨くんのこと好きなのかな。好きになっていいのかな。七歳差なんて、本当に関係ないのかな。
「そろそろ帰りましょうか」
六月に入ってしばらく経ったその日も、バイトを上がると紅磨くんとバックでたわいなく話していた。夜番が休憩に来たのを機に、紅磨くんがそう言って立ち上がる。私もうなずき、裏口の鍵を夜番の子に頼んで椅子を立つ。
「ほんと綾川さんと木ノ村くん仲いいよねえ」と言われてどきっとしたものの、「仲良しですよー」と紅磨くんがさらっと流したので、その子も突っこんだりしなかった。「じゃあ、お疲れ様です」と紅磨くんは裏口へと歩き出し、「お疲れ様」と言い置いて私も紅磨くんを追いかける。
「紅磨くん」
外に出ると、雨が近づいている湿気があったものの、まだ降っていなかった。ドアを閉めて私が声をかけると、「はい?」と紅磨くんはこちらを振り返ってくる。
「もし……もしね」
「はい」
厨房の料理の匂いがこぼれてくる暗闇で、私はバッグの持ち手をぎゅっと握る。もし。そう、もしという仮の話で──
「私と、つきあうことになったら」
「……はい」
「職場では、どうするの?」
「どうする、というと」
「やっぱ、隠す?」
「……あー。隠したほうがいいとは思います。けど」
「けど」
「隠せるかな。幸せすぎて、俺の様子ですぐ気づかれるかも」
私は暗がりの中で紅磨くんを見つめた。紅磨くんは照れ咲いして、「ダメですか」と言った。私は首を横に振る。
だって、私もそわそわして気づかれるかも。そう言おうとした。そして、それでもよければ、私と……。そう続けようと、口を開きかけたときだ。
突然、スマホの着信音が響いた。私のスマホじゃない。「俺だ」と紅磨くんはかばんに手を突っ込み、私は言葉を飲みこむ。紅磨くんは鳴っているスマホの画面を確かめると、眉を寄せた。
「茉莉紗かよ。何だろ」
茉莉紗さん。胸がざわついたけれど、「出ていいですか」と訊かれてうなずく。紅磨くんは画面に指を滑らせて、「もしもし」と呼びかけた。
「何だよ。──まだバイト先。うん。──は? 別にいらねえし。おじさんにでもやれば。──はあ? 俺、今から……あーっ、分かったって。一瞬だからな」
首をかしげていると、「茉莉紗がこっち来てるらしいです」と紅磨くんは通話を切った。「何かあったの?」と訊くと、「調理実習のお菓子、学校で受け取るの俺が忘れたんで、持ってくるって」と紅磨くんはため息をつく。
「そんなん、俺が帰ってからでもいいのに。まあ、帰ったらあいつの家とかいちいち行かないけど」
「じゃあ、紅磨くん、茉莉紗さんのこと待つ?」
「仕方ないんで。悠海さんも、ちょっと待っててもらえますか」
「え、でも私──」
「送ります。それは絶対します。バックに戻っててください。俺、表で待ってさっさと追い返すんで」
「はあ……」
「ほんとすみません」
そう言って、紅磨くんはお店の正面のほうへまわってしまった。私はおとなしく引き返し、ドアを開けようとした。けれど、何となく中に入る気がしなくて、ドアにもたれて真っ暗な空を仰ぐ。
月も星もぶあつい曇で見えない。
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