PASTEL ZONE-1

ある日、俺は

 ある日、気づくと俺は死んでいた。これは比喩ではない。精神的な話でもない。肉体的な、形式的な、でも俺にとっては実質的な、消滅につながる死のことだ。
 その日、気づくと俺は──天使に胸倉をつかまれていた。
「いつまで寝てんだよっ。俺はヒマじゃねえんだよっ」
 おまけに平手まで食らった。普段の俺ならいきりたってやりかえすところだが、どうも頭が重かった。脳みそを揺すぶられたように頭蓋骨がぐらぐらして、不安定で、視界も波紋が起こった水面のようにつかみどころがない。
 何だろう。寝ているあいだにベッドから落ちたのか。
 にしては、この匂いは何だ。水や若草の澄んだ空気がおいしいぐらいに芳しい。かすみがかった瞳には、緩やかに暖かい陽光が当たっているし、だいたい、背中にあたっているのはシーツでもフローリングでもなく、草──
 草?
 ん、と思ったところで胸倉を離され、今度は頭を足蹴にされた。
「はよ起きろっ。遅刻するぞ」
「え、え、うそ。今何時」
「十二時」
「うそおっ」
 がばっと起きあがって、ぐらりとしたあと、視界に入った光景に声なき声を上げた。
 何だここは!? 原っぱか!?
 いや、原っぱだ。見渡す限り、野原が前後左右に広がっている。そして、はるか前方に湖が、はるか右手に森が、はるか左手は霧でかすんでいる。頭の上はありえないほど透明な青、尻の下は斜面で、振り向くと緑が青空に伸びている。
 どこだ、ここは。俺はアスファルトとコンクリートに囲まれた灰色の街に暮らしていたはずだ。こんな──そもそも日本なのか。いや、ここがどこかはともかく、何で俺はこんなところにいる?
 あ、夢か。そうか、夢に違いない。
「やっと起きたな。ったく、夕べエロ本に夢中になってたからだぜ」
「んなもん見てねえ──」
 言い返しつつ、相手が誰なのか、心当たりがないことに気がついた。かあさんではない。樹里じゅりでもない。日秀ひびりが来たのか──男にしてはなめらかな声だが、言葉遣いが乱暴すぎる。
 いや、夢なのだ。あんま深く考えるな俺、と言い聞かせて顔をあげると、俺の脇にはこまねいてこちらを見下ろす奴がいた。
 美少年だった。男、だと思う。艶々の黒髪、くっきりしたまぶた、長い睫毛、鼻梁や顎の線は危うい中性を完璧に描いている。唇は赤く熟し、肌は初雪のように白い。
 軆の線も中性的で、しかし発される空気は妙に尊大だ。そのままにしておけばいい大きな黒い瞳を皮肉に眇め、弧の眉を疎ましげにゆがめている。歳は、今年十八になる俺と変わりそうにない。ほっそりした首に青い宝石が連なったペンダントをつけ、服装は大きめの黒いTシャツにジーンズ、スニーカー──
 夢だ、と思った。この世に存在するものにしては、完璧すぎる。
 美少年は腕をほどくと、今度はその手を腰にあてた。ぽかんとする俺を見下した目でじろじろとして、「ふん」と鼻で笑った。俺はむっとして、「何なんだよ」とくらつきの残る頭にこめかみを抑える。
「痛いか」
 美少年はそのへんの歌手よりずっと魅力的な、ビブラートがかかったような声で言う。
「……まあ」
「そりゃそうだろうな。バットで殴られたんだから」
「は?」
「金属バット」
「お話が見えないんですけど」
「見えてもらわないと困るんですけど」
「バカにしてんのか」
「当たり前じゃねえか」
 俺はなかなか口達者だと言われるが、こいつはそんな俺と遜色ないようだ。
「あんた、何?」
「みなしごのお前の担当」
「俺には母親がいるぜ」
「でも、父親はいなくて、母親は親と確執があるだろ」
「……何で知ってんの」
「お前は先祖に見捨てられてるってこと。だから俺が担当。はい、立つ。上まで行きますよ」
「ちょっと待てよ。わけ分かんねえんだよ」
 取られた腕を振りはらった俺に、美少年はうんざりした顔をして、「お前、死んだんだよ」ととげとげしく吐き捨てた。
「は?」
「七月九日、二十時十二分二十三秒、お前は見知らぬ少年に金属バットで殴られて死亡した」
「何ですか、それは」
「最近、あのへんで流行ってんだろ。無差別通り魔。お前、それで殺されたんだよ」
「何で俺が、そんなんで死ななきゃなんねえんだよ」
「あー、俺は悪くないぜ。今日は駅前に行くなって、ずっと知らせてたんだ。お前が聞かなかったんじゃねえか」
「知るか、そんなもん。何、夢だろこれ」
「夢に近い世界ではあるな。夢は魂の鏡なんだ」
「おまじない狂の女みたいなこと言うなよ。待てよ、もうそろそろ目覚まし時計が鳴る」
「じゃあ、鳴るまでヒマつぶしに上に行くぜ」
 俺は首を後方に捻じった。
「これをのぼるのか」
 野原は急斜面とは言えないが、何しろ途方もなく、のぼりつめた先に何があるかも窺えない。
「転移できる扉があるよ。早くしろ。俺はいそがしいんだ」
「頭がぐらぐらする」
「殴られたからだろ」
「辻褄合わせんなっ。本当みたいじゃないか」
「ふん。んなこと言ってると、あいつらに仲間入りするぜ。ほら立て」
 ぞんざいに腕を取られ、仕方なく立ち上がった。立ちくらみに一瞬視界が色彩を失ったが、何秒か耐えると白黒が散って治った。美少年より、俺のほうが背は高い。
 彼が首につけているペンダントが、不思議な色合いを放っていた。粒のひとつひとつが雫のようで、青い光が生きているように確かに流動している。「これか」と美少年はにやにやしてペンダントをつまんだ。
「それ、石」
「聖水だよ。聖水を雫にちぎって、時間と切り離して、封じたものなんだ。この連なりが切れたら、時間に侵されて消えちまう」
「わけ分からん」
「お前、人間だからな」
「聖水って何」
「神様の精液」
 俺は彼を見て、美少年は真っ赤な唇でげらげら笑った。「冗談だよ」と美少年は野原をくだりはじめる。俺も並ぶ。
 足元の鮮やかな緑は踏むたび柔らかく、頬にそよぐ風は甘い香りをはらんでいる。鳥が遊ぶ天は透き通り、雲もなく太陽もおっとり輝いている。ときおり草の合間をうさぎやりすみたいな小動物が駆け抜けていった。
「神様の精液は、聖水なんてお安いもんじゃないよ。でもどこにでもあるんだ。これはな、神様の涙」
「なみだ」
「神様って、便宜上の名前な。人間はあの人を神様って呼ぶんだろ」
「あの人って誰?」
「お前たちを見守って、すべてを刻む方さ」
「未来見通して、願かけたら叶えてくれる奴?」
「未来なんて誰にも分からないよ。ただ、あの人はあらゆる角度から物事を見てるんで、先見が的確ではある。あと、願かけたら叶うって迷信。願いが叶うように自然を味方にさせることはできるけど、肝心なとこは自分でやらなきゃダメだね」
 うわ。あまり正気と思えない。
 なぜ俺はこんな夢を見ているのだろう。こんな空想的な世界をうろつきたいほど、人生に疲れていたつもりはないのだが。
「ところで、あんたって何?」
「あん?」
「どういう存在?」
「お前の担当って言ったろうが」
「いや、何か……守護霊とかさ。あるじゃん」
「ああ。天使」
 天使。のくせに、黒髪なのか。口悪いのか。ストリートファッションなのか。
「じゃ、ここってどこ? 天国か」
「あの世とこの世の狭間。精神界」
「精神界」
「ここは幽体を肯定してるから、肉体を失くしたお前も存在できる。実体世界では、お前は無に等しい。特にお前がいたような世界ではな。本質的にはお前はまだ消滅してないし、存在してる。今ここでお前をかたちづくってるものは、細胞組織じゃなくて、思考や感情──つまり、心なんだ」
 胡散臭い霊能力者のようだ。俺はそういう非科学的なものは信じない。だから、余計にこんな夢を見ている自分の脳が理解できない。
 しかし、夢にしては五感も感情も鮮明だ。まさか本当に──いや、冗談ではない。第一、通り魔に殺されるなんて、そんな最期はありえない。
 野原をくだりきっていた。そばに湖の岸があるわけだが、そこを見た俺は、ぎょっと立ちすくんだ。枯れたような茶色に染まった人間が、こちらに背を向けてずらりと並び、ぼんやりと湖を眺めているのだ。何というか、カラー写真の中で、被写体だけセピア色で写っているような──
 大人もいるが、子供が多い。
「あいつらはな」
 美少年は、彼らに少しつらそうな目を向ける。
「迷ってるんだ」
「迷う」
「自分の死を知らないとか、認められないとか、最悪、俺みたいな魂を導く奴に見捨てられてるとか。子供が多いだろ。あれは、死ってものを知らないうちに死んだから、認識しようがないんだよ。あいつらは、下手したら永遠にあのまま湖に映る自分に問いかけつづけるんだ」
「………、助けられないのか」
「その魂を強く想う奴なら、助けられる。稀に天使に出逢うこともある」
「あんた、目の前に来て助けようと思わないのか」
「俺の担当はお前だけじゃない。引っきりなしに魂がのぼってきて、いそがしいんだ。片手間の情けじゃ救えないしな」
 セピアの人々を見つめた。みんな木製の手すりにもたれ、何も聞こえていない様子でこちらを振り向かず、透いた湖を虚ろに見ている。
 俺は自分を見おろし、白と黒のラグランTシャツにも、インディゴブルーのジーンズにも、色彩があることを確かめた。
「お前も」
 美少年は空中に触れて、指先に淡い緑の光を発しながら言う。
「夢だって決めつけて肯定しないと、ああなるぜ」
「いや、これ夢だろ」
「永遠のな。お前は死んだんだ」
「………、」
「言ってみれば、ここは生きてるときは目覚まし時計で打ち切られてた世界だ。お前は死んだ。だからもう、目覚めることはない。夢は永遠になり、事実上、現実になった。目覚まし時計は鳴らないよ。お前は目覚まし時計じゃ目覚めない、深い眠りについたんだ」
 俺が眉を寄せて不信感をたたえていると、美少年の指先と空中のあいだに生まれた緑の光から扉が生まれた。
「この扉を越えろ」
「え」
「お前が死を肯定すれば、上に行ける。できなかったら、あいつらと一緒に永遠にふもとを彷徨う」
「…………、」
「俺は上で待ってるよ。じゃあな」
 美少年はドアノブをまわして、扉を開いた。激しい白光に目をつぶった拍子に、俺はぐいと腕を取られ、軆を食いつぶす圧倒感に突き落とされた。

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