PASTEL ZONE-10

迷い込むように

 神経症の恋人を見守って、心理的過労が重なった俺は、しばらく塔を避けて自然に没頭した。潮を嗅いで波を聴き、草に包まれて昼寝して、心なしか増えたセピアの人々を見つめる。
 雄大な自然は精神療法に大きな効果がある。何も考えずに、自然に心を開いて気力を充電すると、俺は数日──感覚的には数週間ぶりに光の舞う塔にのぼった。
 下界では七月が終わろうとしていた。南中過ぎの昼間で、かあさんは寝ていて、日秀は俺の部屋にいない。どこかな、と確かめる前に樹里を見て、ぎょっとした。樹里が外出している。どうした。まさか援交に行くのか。慌てて水面に触れると、指先に樹里の心が伝う。
《しばらく家を出なくていいように、たくさん買わなきゃ》
 脳には駅前のスーパーが浮かんでいる。買い物か、とほっとしたあと、樹里が野郎に購入される格好もしていないことにも気づく。Tシャツにデニムのショートパンツ、髪はといていても化粧はしていない。これはこれで野生的でいい感じだが。脳内によると、どうやら昼食を食べようとしたら冷蔵庫が空っぽだったらしい。
 スーパーに着いた樹里は、カートにかごを設置し、無作為に食料や日用品を投げこむ。貧乏な俺には真似できない豪快さだ。愛情の代用として、樹里は父親に金はうんざりするほどもらっている。「もっと安くつくものでいいのにな」といつだか俺が言ったら、樹里は複雑そうに咲っていた。
 しばらく家を出なくていいように、か。まだ引きこもるのかとため息をつく。どうにかならんかなあとぼんやりしていると、《あ》という音声が来て、瞳に意識を戻した。
『……こんにちは』
 かごを提げた日秀だった。留守は買い物だったのか。樹里はあからさまに嫌な顔をして、カートを軽く自分に引き寄せた。日秀は樹里のかごを見る。
『何』
『……すごいね』
『あんたには関係ないだろ。あんた、こんなとこで何してんの』
『買い物だよ。稜久の部屋を貸してもらってる代わりに、家事やってるんだ』
『何で稜久いないのに、だらだらこっちにいるんだよ』
『………、俺が目障り?』
『目障りだね』
『じゃあ無視しろよ』
 お、と俺が身を乗り出すと、日秀は樹里のかたわらを通り過ぎていった。
 日秀が怒ったぞ。初めて見た。俺と日秀は喧嘩したことがない。喧嘩するには日秀が冷静だし、俺がへらへらしているのだ。
 残された樹里は何やら唇を噛んでいて、俺は水面に触る。
《何だよ、立ち止まったのそっちじゃないか。あんたのほうが無視すればよかったんだ。何であんなのが稜久の親友だったの!?》
 逆怨みですよー、と言ってもしょうがないのか。樹里の奴、やばいな。そうとう人を見る目が捻じくれてきている。
 樹里の牙のような不信感は知っている。彼女は愛情をくれるはずのふたりに、喧嘩がいそがしくて放置されて育った。潤滑のない心が、かたくなになるのは分かる。
 でも日秀にはビビることないんだよー、と言っても届かない。日秀の良さは生前語ってやったつもりなのだが。いやもしかして嫉妬か、と思い当たり、だとしたらいよいよ、どうしようもない。
 今の樹里に周囲を気遣うゆとりがないのは分かる。彼女はどん底に堕ち、そこから自分を救った俺を、突然喪った。うぬぼれでなく、俺は樹里のすべてだった。俺が隣にいるから、生きていくつもりになったようなものだった。
 そう思うと、あいつが俺を想ってるのは、危険なんだろうなと考えさせられる。結婚し、長年苦楽を共にして喪ったのなら、未亡人として想いつづけていいと思う。だが、樹里は十七歳だ。生者として、彼女には新しい支えが必要なのだ。
 こんなに早く消えてしまうということは、運命的にも樹里には俺ではなかったのかもしれない。樹里がほかの男にかたむくのは悔しくても、死者となった俺には、身を引くしか愛情表現にならない。樹里がそうしてかわいらしくない女でいるのもつらい。
 樹里は弱い。恋人にせよ、友人にせよ、誰かいてやらないといけない。
 日秀の視点に飛んだ。日秀はレトルトコーナーにいた。カレーとシチューで迷い、結局ハヤシにしている。日秀はたぶん俺ほど料理に長けていないので、そういうものが無難ではある。
 これもまた「変わってる」と言われる要素で、俺は料理がうまい。かあさんが下手なので、俺がうまくなるほかなかったのだ。
 日秀はルーの箱に書かれた材料を参考に、野菜売場で材料を選び、「よし」とつぶやくと、少し気になるように振り返る。
《樹里ちゃん、あれでよかったのかな》
 その心に、俺はしばらく考えた。それから、日秀だ、と実感した。あの樹里には誰でも切れて当然だが、やはりあの態度は日秀らしくなかった。わざとだったのか。
《稜久に聞いてる話の感じだと、裏目に出るかな……。でも、俺にはあれしかできないもんな》
 思いながら日秀はかごを持ち直し、主婦がざわめくレジへ向かう。
 よく分かっている。樹里は癪に障ることに耐久性がない。子供の頃に両親の怒鳴り声に耐えつづけていたのが、今頃爆発して神経過敏になっているのだ。
 その頃の樹里はと言うと、いらだち混じりにまだ無節操な買い物をしていた。
《何で稜久死んじゃったの。稜久みたいな人なんて、どこにもいないのに》
 何分か日秀視点に入ったあいだに、ずいぶん思考が飛躍している。
《あたしなんかにつきあう奴がいないのは分かってる。稜久以外にあたしを見てくれる人なんていないんだ。あたしなんか面倒だし厄介だし、死んでちょうどいいんだ。稜久がいるから頑張れたのに、稜久がいなくなったんなら、どこにいたらいいのか分かんない》
 そう、か。樹里が閉じこもるのは、外界へのいたたまれなさもあったのか。焦慮で泣きそうな樹里の心の感触に、俺も息苦しくなる。
 本当に、申し訳ない。俺だって思う。なぜ俺は死んだのだろう。俺さえ死ななければ、こんなことにはなっていなかった。
 混乱した心をせめて表に出さず、樹里は怒ったような顔で心を守っている。昔、俺が構いたくなってつついていた顔だ。俺がいなくなった樹里は、二度とその強がりをほどけないのだろうか。
 精神の安定が次第に崩れはじめた夜、樹里はもやつきに任せてケータイを開いた。俺のかあさんの言葉がちらつきもしたが、牽制にはならなかった。むしろ、俺を忘れるなら自分にはこれしかないと樹里は思った。
 寂しかった。でも誰も信用ならなかった。だったら上辺と分かりきった関係に温もりを求めるしかない。
 俺とつきあいはじめて以降、奥に押しこんで手をつけなかった、背伸びの服を樹里は引っ張りだした。

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