縺れる関係
「何してんだ」と俺が天上から叫んでも、彼女には聞こえない。「俺はここにいるんだ」と水面を殴っても無意味だ。俺がじたばたしているのをよそに、樹里は着々と淫売婦に化していく。「神様のバカ」とわめいたら頭をはたかれ、振り向くとルウがいた。
「誰がバカだよ。その子が選択したんだ。俺たちに止める権利はない」
「そんな。交信は? 交信させろ。させてくれ」
「人間には無理だってつってんだろ」
「偏見天使っ」
「向こうに受ける気がなきゃ、絶対に伝わらないんだよ」
「侵入できないのか。何つーの、電波ジャックみたいに」
「樹里ちゃんの感性をイカれさせる気か」
俺は情けなくうめき、「静かにしてろよな」とルウは薄情に消えた。頭から堕ちるような絶望感に、俺は自分の死を憎む。俺が死にさえしなければ、殺されさえしなければ──。
怨霊になってやろうか、とヤケになりかけていると、樹里はついに家を出た。俺が名状しがたい悲鳴を上げ、死の無力感に手を引こうとしたときだ。「樹里ちゃん」と聞き憶えのある声が指先に流れた。
水面に煌めきをかざしなおすと、幻覚作用が戻った。道路に出た樹里の数メートル先に、日秀がいた。
日秀。何だ。すごい偶然だな。街燈で相手が日秀だと認めた樹里は、瞳や肩を疎ましげな憎悪に染めて乱暴に門を閉める。
『何だよ』
『どこ行くの』
『関係ないだろ。何でこんな時間にここにいるんだよ。あたしにつきまとうなって言っただろ』
『今日のことで』
『は?』
『スーパーで、君の気に障ったんじゃないかって』
樹里はかすかに面食らい、視線をそらすと、『気にしてねえよ』と小さく言う。
『謝りにきたわけ? お節介だよ。やっとあんたが賢くなったと思ったのに』
『君が稜久に助けられた状況にあったのは、知ってるよ。どういうふうに壊れてたのかは知らないけど』
『あたしの稜久になるつもり? ふざけんなよ』
『稜久がいなかった頃に戻るわけ?』
『関係ないって言ってるだろ』
『そうだね。関係なくそうとここに来たんだ。俺のせいにされたらたまらない。もし、昼間の俺の態度が気に食わなくて、おかしなことしようとする切っかけになったなら、ごめん』
虫がたかる街燈越しに樹里と日秀は睨みあう。沈黙が夜に張りつめる。偶然の説明はついた。律儀だからな、と俺は親友の性格を考える。樹里が先にアスファルトに目を落とし、無造作にリュックを肩にかけなおす。
『稜久に聞いたんで、そうやってあたしの性格が分かるんだろ』
『稜久がいなきゃ、君なんか知ったことじゃない』
『だったらあたしに構うな。もう稜久はいないんだ』
『稜久が死ぬのと稜久がいなくなるのは、別のことだと思うよ』
『同じだよ』
『稜久はそこにいただけの奴じゃない。俺たちにいろんなものを遺してくれた。もし過去に戻ったら、君は稜久の存在を、死にかこつけて否定することになるんだよ』
樹里は日秀を睨みつけ、駆けよって素早く平手を飛ばした。その音は虫の声だけの夜の静けさに反響した。眉を寄せて殴られた頬に触れる日秀に、樹里は張りさけそうに厳しい目を向けた。
『あんたに何が分かるの、ただの友達じゃないか。あたしは恋人だったんだ。稜久に触れてもらえなくなって、名前を呼ばれなくなって、どんなにつらいか分かる!? 気持ちだけで片づく友情と一緒にしないで!』
今度こそ本物だった。日秀の瞳に暴力的な光が走った。しかし日秀の行動は、屈折していた。反射的に上がった腕は、樹里の頬に弧を描くのではなく、樹里の腕にまっすぐ伸びた。そして樹里を引き寄せ──
はい!?
と、俺が真っ先に驚いていると、「あーあ」と背後で澄んだ声がした。
「また運命を裏切れなかったか」
かえりみると、またもやルウが現れている。「つらいな」とルウはわざとらしく俺に同情して、俺はとまどい混じりに幻覚を取り返した。
日秀は樹里を抱きしめている。何だこれは。どういうことだ。何やってんだよ日秀。違うだろ。お前……裏切り者──!
樹里は意外にがっしりと感じる日秀の肩と腕に収まり、放心している。日秀もまた、自分の行動に茫然としている。「何こいつら」と俺は泣きそうにルウを見て、「よくある話」とルウは俺の隣に腰かける。
「よく……」
「共通の知り合いが死んで、それが絆になるって奴」
「俺の死が引き立て役か」
「ぶっちゃけ、そうだな」
「むごいっ」
「俺たちは前々から予想してたぜ。お前が逆らえずに殺されたみたいに、このふたりも運命に逆らえなかったわけだ」
ルウは愉しげに高く笑って、俺はもう一度殺されるような気分でのろのろと金砂を映した。『何で』と樹里の声がする。
『……分からない』
『同情?』
『………、君が心配で』
『………、』
『俺は分かるよ。俺だって、稜久がいなくなって、どうしたらいいのか分からない』
それはくどき文句か。単なる本心か。後者なら抱きしめたまま言うことないだろ。くそーっ、死んでるって実に歯がゆい。
『稜久の匂いがする』
『稜久のベッドで寝てるんだ』
『………、稜久じゃなきゃ』
『分かってるよ。稜久に代わりがきかないのは、よく知ってる』
『じゃあ、何でこんなのするんだよ』
『俺は君の敵じゃない。すごく近いと思う。ひとりで溜めこむのは、やめたほうがいいよ』
『……あんたなんか嫌いだ』
『俺だって、君のことは何とも想ってない。ただ、稜久のことでは君が必要なんだ』
ルウはげらげらと『芝居にも使えねえ台詞だな』と笑い、俺は甘い反語に消沈した。
まさかこんなことになるとは。日秀がいい奴なのは知っている。樹里に誰かいなくてはならないのも分かっている。樹里をほかの奴に任せようとして、日秀ほど安心できる奴はいない。でも、だからこそ、日秀には一番樹里を渡したくなくて──
「死んだほうがマシだ」とうずくまると、「もう死んでるじゃん」とルウが億劫そうに突っこむ。
『くだらないことなら、しにいかないほうがいいよ』
『………、行く気失せちまったじゃないか』
『よかった』
日秀は微笑んで軆を離した。樹里はうつむく。日秀は切れ長の瞳で樹里をじっと見つめ、身をかがめて彼女に口づけた。樹里は日秀を突き飛ばした。ふたりは街燈を頼りに見つめあい、『責任取れよ』と樹里は言った。日秀はぎこちなく突き飛ばされた体勢を直すと、黙ってうなずいて──
それ以上は耐えがたかった。俺はルウも置いて塔を駆けおり、「神はサドだ!」と吠えた。「うるせえんだよ」と瞬間移動してきた天使に後頭部を殴られ、俺は泣き面でルウを見る。
「あれはあのふたりの意思だ。神の意思なんて絡んでねえよ」
「………、誰かにやつあたりしたいんだよ」
「自分殺した奴でも憎んでろ」
「あ、そっか。そうだよなあ。くそっ、もう怨霊になろうかな」
「ふん。よく考えて堕ちろよな。怨霊になった時点で、お前は地獄の一部になるんだぜ」
ルウは穢された羽を取り出して、起こした風に消えた。俺はため息をつき、虚しいほど水色に澄みわたった空を仰ぐ。海原にも草原にも行く気力がなく、近場の野原に行った。
セピアの人々を見おろし、怨霊になって、みすみす自分を否定するのもなあと思う。だが、樹里と日秀のあのあとを想像すると、理性より感情が勝って、この存在を貶めたくなる。
俺はいったい、何のために生まれてきたのだ。死ぬためか。殺されるためか。死によって、あのふたりを結びつけるためか。そんなの──
抱えた膝に顔をうずめ、本当にそうなったら嫌なくせに、死を肯定できない代わりに自分の死後を知らずに済む、あの色褪せて虚ろな人々がわずかにうらやましくなった。
【第十二章へ】