PASTEL ZONE-12

夜が落ちて

 衝撃が過ぎた俺は、一時、塔にのぼらないことにした。怨霊になりたくなければ、現実逃避しかあるまい。
 ゆっくり考えたかった。できるならふたりを祝福したい。樹里の心に、死んだ俺より生きている日秀の方が効果的なのは明らかだ。私情が落ち着けば綺麗ごとを本心にできるかもしれない。
 俺は草原に伏せり、緑のそよ風や空色がおろす陽射しに五感を任せた。
 傷心の俺を察しているのか揶揄いたいのか、ルウは俺に構ってくる。「ほかの担当はいいのか」と訊いたら、いくつか処理が決まって手が軽いのだそうだ。「だったら湖の奴に情けかければ」と言うと、「お人よしだな」とルウは天に目を細めた。今も俺は草原に寝転がり、ルウは隣に腰かけている。
 青く透き通るルウの首飾りは、向こうに空が映ったりすると色合いがなじむのだが、その日は違った。雫が灰色がかり、せせらぎも澱んでいる。俺はルウを見た。ルウも俺を見て、「もうすぐ夜だ」と言った。
「塔にいろよ。あそこが一番安全だ」
「暗くなるだけだろ」
「昔はな。今は違う。闇の隙に破壊が襲ってこようとする」
「物騒ですね」
「お前らが物騒にしたんだ。つぶれたくなきゃ避難してな」
「……つぶれてもいいかも」
「愚か者め」
 言いながらルウは首飾りに触れ、舌打ちする。ちらりとして、俺は目をみはった。青い雫が固まりかけた血のように緩くねばり、ルウの指先に絡みついている。
「それ……」
「溶かそうとしてる」
「それも、……破壊」
「ああ。結わないとやばいな。いいか、塔にいろよ。ここはお前たちの罪を反映する。そして、お前が思うよりお前たちの罪はひどいんだ。もし襲われたら、つぶされるだけじゃ済まない。甘く見るなよ」     
 ルウはいつもの軽捷を避け、手をついて立ちあがった。立ちくらんだ瞳を一瞬浮かせ、「じゃあな」と転移の扉に消える。ほんとに具合悪いんだな、と俺は草原に転がり直す。
 しかし正直、今はルウの不調より、樹里と日秀の接近だった。あのあと、ふたりはどうしたのだろう。寝たのだろうか。「ああ」と死後の不条理に胸を穿たれ、俺は綯混ぜの絶望感でふかふかの草に顔を埋める。
 樹里がひとりぼっちでは危ういのは承知している。日秀が親友でなければこうも拒否はしなかった。たぶん。樹里と日秀がくっついたら、俺は死を利用されて裏切られた気がしてならない。
 俺は、あのふたりを出逢わせるために樹里の恋人となり、日秀の親友となったのか。出逢ったら、お役御免で運命に殺されたのか。俺は引き立て役として生を受け、主役が見せ場になれば追放されて死んだと、こういうわけなのか。俺でなくても、「ふざけんな」と絶叫するだろう。
 死んだらどうあつかってもいいわけか。だったら、自分が死んだあとなんて知らないほうがマシだ。死は感情を拷問する。死人に口なし。確かに。俺は声を届けられないばかりに、甘い汁だけ吸われ、親友と恋人に一挙に裏切られてしまった。
 生きていく者が死人にすがりつくべきではないのは分かっている。死にほだされた人間は、煩わしく不健康だ。樹里にも日秀にも、新しい支えを持つ権利はある。でも、俺の存在を要にするふりで、ないがしろにしているその立ち直り方は皮肉が過ぎるのではないか。
 ふたりが俺を想っているのは分かる。だからこそいらつく。根っからないがしろにされたほうが、俺の悲嘆も正当化されるだけマシだ。あのふたりは愛しあった暁に、俺に感謝するのだろう。俺を愛おしむのだろう。愛によって、俺の苦痛を単なる心の狭さに見せるのだ。
 塔にいると噴水を覗きそうな俺は、いざ夜が来たら塔に行くとして、ぎりぎりまで自然をふらついていた。その日は砂浜にいた。樹里と日秀を呪うために怨霊になってもいいななんて、そんなどす黒い思惑を、揺るぎない波がすすぎおとす。さらさらの砂に虚脱し、俺って醜い、と空に顔を向けたところで気がついた。
 日々青空を広げていた空が、どこか陰っている。軽かった水色が重く、陽射しが細くなっている。これがうわさの夜か。塔──行くのだるいなあ、と思っても、ルウの形相も半端ではなかった。噴水見なきゃいいんだよな、と立ち上がったとき、今まで定位置を動かなかった太陽のような発光体が、かたむきはじめた。
 弾けるとか閉じるとか消えるとか、電気みたいになくなると思っていたのだが、光は太陽と同じように沈んでいった。濃くなった水色に淡い桃色が差し、桃色が橙色と入り混じって、光が水平線に浸る頃には空は真っ赤になる。透き通った海は光を反射し、茜の水面は銀の波間に陸離とした。ついで緋色の端々に濃紺が滲みはじめ、光が沈むごとに空は暖色から寒色にうつろっていく。そして寒色が深まり、ついに真っ暗に──
「やば」と我に返ったときには、夜になっていた。
「美しすぎるんだよ」と見蕩れた空に責任転嫁しつつ、焦って広場に走り出す。あたりに魂の光は皆無だった。みんなまじめに広場に避難しているのか。広場へと抜ける白い霧が前方に見えたとき、「何やってんだよ」と腕を取られてびくっと立ち止まった。
「塔に行っとけって言っただろ」
 この澄んだ声の汚い言葉遣いは、ルウだ。月も星もなく、視覚では完全に判別がきかない。「夕陽が綺麗すぎて」と我ながら間抜けなことを言うと、「バカ」とこんなときでもしっかりののしられる。
「早く塔に行け」
「ルウは」
「俺といるとやばいんだよ。とっとと失せろ」
 何だよ、とその言い草にむっとしながら、霧に駆け出そうとして、右手首に金砂の光が残っていることに気づいた。こういうのは明るいのかと思って、ふと怪訝になる。だったら、ルウのあの雫の首飾りも心強い青い光を放っているはずだ。だが、ルウは声だけだった。
 よく分からない。直感的に、気にしないほうがいいと思った。そして、その直感を不愉快なまでの不安が妨げる。俺は一度唾を飲みこみ、金砂をかざして振り返った。

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