天使の傷口
ルウはすでにそこにいなかった。暗い海に続く闇が広がっているばかりで、羽に消えたのかと拍子抜けしていたら、引き攣ったうめき声がして視線をおろす。すると、木目細やかにきらめく砂浜の上に、ルウがうずくまっていた。
「おい」と思わず駆け寄ると、ルウは顔を上げ、「行けっつってんだろ」と泣きそうにとげとげしく吐き捨てる。
「で、でも」
「今なら間に合う。早く」
「大丈夫なのか」
「大丈夫だよ。俺のことなんか気にすんな」
言いつつルウは喉を痙攣させ、しゃくりあげるように息を切らしている。金砂でうっすら見取れる白い肌は真っ蒼で、総身が何かこらえるように震え、喘ぎに咳きこむとべとついた汗がこぼれている。
「やばいよ」としゃがみこむと、「行けよ」とルウはほとんどうめくように言った。
「ほっとけないよ」
「偽善野郎」
「言ってる場合か、つかまって──」
「触るなっ。自分のことだけ考えてりゃいいじゃねえか、それが人間なんだろっ」
振り絞るルウの声には、憎しみがたぎっていた。人間。人間、のせいなのか。人間が破壊したいろんなもののせいで、ルウは異常を起こしているのか。天使なのに黒い羽を持ち、闇を白い光でしりぞけることもできず、食いつぶされそうに痙攣して──
だったら、なおさら放っておけない。「一緒に行こう」と介抱しようとすると、ルウは俺を脱力した手に何とか力をこめてはらいのける。
「分かんねえ奴だな。早く逃げろ」
「俺たちのせいなんだろ」
「でも、お前のせいじゃない。お前のことは殺したくない」
「殺すって──」
「もうあいつが来るんだよ。逃げないとやばいんだ。あいつ──……」
ルウは急に悲鳴を上げて、えぐるように喉元をつかんだ。そして、俺は見た。見てしまった。あんなに神聖な光を放っていた雫の首飾りが、どろどろに濁って芋虫のようにうごめいている。ついで、ルウは砂浜に崩れ落ちた。
砂ぼこりの中で、一度どくんとその全身が脈打つ。
「……ルウ?」
返事がない。ぴくりともしない。ぐらつくような沈黙に、波の音が広がる。死んだのか。まさか。でも動かない。
うそ、と俺はルウを揺すぶる。
「おい。ルウ。冗談きついよ。ルウ──」
「俺はルウではない」
手を止めた。声が違った。あの澄んだ声じゃない。地底に轟く金属的で低い声だ。
「ルウ……」
「俺はルウではないと言ったのだ。この俺を、あんな偽善の出来損ないと一緒にするな」
ルウ──いや、そいつは反重力的に軆を起こした。俺は目を開いた。眼が赤かった。いや、黒いのだ。しかし赤い。黒い瞳が赤い光の被膜を張っている。いつのまにか体格が骨張ってがっちりして、喉に絡みつく黒い芋虫をちぎろうとする指は──鉤、だ。
はっきりした顔立ちは、この暗闇で見取れないが、眼は血を吸ったかのように鮮紅だ。いらだたしげに芋虫をちぎるのをあきらめたそいつは、その眼でぎろりとこちらを見る。
「……人間か」
「え、あ……」
「まだ若いな。あいつの管理下か」
「え、えと……」
「そうなら夭折も仕方ないな。あいつが天使の真似事などやめれば、お前のような不幸な魂も減るだろうに」
そいつは冷笑し、俺は混乱に眉を寄せる。真似事。どういう意味だ。だいたいこいつは何だ。ルウは二重人格なのか。
「あいつは天使ではない。俺を封じる忌ま忌ましい蓋に過ぎん。この軆と力に相応しいのは、俺だ」
地響きの声は、不快な振動で脳を痛めつける。赤い瞳は頭痛と畏縮に硬直する俺をねぶり見た。
「お前は人間にしてはずいぶん魂が美しいようだな」
「え、そ、そんなことは」
「俺には見えるのだ。人間ほどまずい魂はないが、清らかな人間ほど食べごたえがある魂はない」
悪い予感に後退ろうとしたら、素早く腕をつかまれた。すごい力だった。身動ぎしたら、それで骨まで折れてしまいそうに強い。そのまま捻りあげられ、引き寄せられ、生身で腕をもがれるに等しい強烈な痛みが全身をつんざく。
うめくより叫びたい衝動をこらえて眉をゆがめると、そいつは喉の奥で嗤う。内臓が冷えこむ、真の恐怖がのしかかってくる。
「お前を喰えば、この呪縛を解く力になるかもしれんな」
「じゅ、呪縛」
「この首飾りだ。こいつが俺の解放を邪魔している。お前には糧になってもらおう。あいつの元に流れたのが不運だったと──」
血に浸したような深紅の舌を覗かせてそいつがささやいたとき、不意に骨まで粉砕しそうな怪力が緩んだ。え、ととまどうとそいつはみずから俺の腕を振りはらって、苦しげに喉をかきむしる。凝視すると、黒い芋虫がそいつの喉を絞め上げていた。
泥が混じったような声が飛び散り、俺がすくんで動けずにいると、〈稜久〉とあの澄んだ声が聞こえる。捻じられた腕をかばいながら顔を上げて周囲を見まわすと、〈どこにもいねえよ〉と声はじかに脳に響く。
〈え、あ──テレパシー〉
〈ああ。今のうちに逃げろ。そいつは俺じゃない〉
〈こいつ──〉
〈説明はあとだ。霧に入ったら中で追いつかれる。海に入れ〉
〈俺、泳げないんだよ〉
〈ちょうどいいじゃねえか。沈んだら海底に扉が開く〉
納得した俺は、そいつが芋虫に扼されてのけぞっているうちに、波打ち際に走った。「待て」と砂利を踏みじったような声が聞こえ、だが振り返らず、そのまま海に駆けこむ。腕に残る痛みが、躊躇はさせなかった。
水飛沫を上げて浅瀬を駆け抜け、深みに飛びこみ、苦しいかも──とあとから気づいたが、なぜか息ができた。死んでいるから、息も何もないのか。
海の中は冷たかった。凍てつくほどではなくも、ひんやりと心地いいわけでもない。目も開けるけれど、岩や海藻ばかりだ。夜に備え、魚たちは竜宮城みたいなところにでも逃げこんだのだろうか。追いつかれる焦りに背中を気にしながら、俺は降り立った海底に金砂を当てた。すると、緑の光に縁取られながら扉が現れ、俺はその中に身をくねらせてもぐりこんだ。
途端、塔の扉の前に弾き出された。あたりを見まわすと、いつもの広場だった。水の床はほのかに明るく、さまざまな色の淡い光もたくさん行き交い、それは闇の中で幻想的に明るい。
助かった、とほっとして、でも念のため安全だと言われた塔に登っておく。そこでも花の芳香に惹かれた蝶たちのように澄んだ噴水を光が囲み、夢の中みたいにぼうっと明るかった。水を見てはっとしたが、俺の服は濡れていない。そういえば腕の痛みもなぜか消えている。
でも、深く考える頭がもうなかった。「はあ」と声に出して息をつくと、手近の手すりもたれ、そのままずるずると白い床にへたりこんだ。
あれは何だったのだろう。まるで悪魔だった。あれはルウなのか。違うと奴は言っていた。ルウもそう言った。とはいえ、ひとつの軆に収まった人格ではあるのか。天使が悪魔になるほど、俺たちは自然を──壊してるよなあ、とうなだれる。しかし、分裂するにしたって、あんな悪魔みたいにならなくてもいいではないか。いや、穢れに犯されて生まれるものだからこそ、天使を冒涜する悪魔じみた人格なのか。自然破壊が、あんな倒錯的なことにつながっていたなんて──ルウの人間への憎悪が痛い。
ルウはどうなったのだろう。あいつに食いつぶされていないだろうか。呪縛。気分が悪くなると、あの首飾りがどろどろにほどけそうになるとルウは言っていた。
あいつが呪縛を破ろうと暴れて胸が濁り、ちぎろうと首飾りを貶めるのだろう。天使が心に痛みを受け、闇に怯えている。そんなことになっているのか。神秘の悪夢に俺はまぶたを緩め、ルウが負けないのを祈った。
あたりに浮遊する魂を見渡し、魂が美しい、というあいつの言葉を思い出した。美しい。そうだろうか。俺は──樹里と日秀のことで、こんなに卑しいことばかり考えている。醜いよ、と膝を抱えると、額をうずめた。
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