もう俺はいないこと
光がのぼるまで、闇に尾を引く淡い発光を眺めていた。桃色、水色、若草色、灯火のようなそれらは舞い残る残像が鮮やかだ。そんな光が数えきれないほど噴水の飛沫の中で揺らめき、光の雪の儚げな明るさは静的で落ち着く。
死んだことはつらい。だけどこの世界に来れたのはよかった。あの世とこの世のはざまだというけれど、ほとんど天国に思える。
闇を仰ぐと、真っ暗だった空が薄く蒼い空気をおろしはじめていた。
立ち上がり、手すりの向こうを臨む。この角度だと草原の地平線がある。夕焼けより朝焼けが繊細だと思う。蒼い空気が金色や桃色、橙色を入り組ませた光で切り開かれていく。一瞬金色が強烈に広がるものの、ほとんど淡い光のみで空は塗り替えられていく。移行が曖昧で、夕焼けほど鮮明ではない。風になびく草原は、のぼっていく光を柔らかにそよがせていた。
そうして光は天にのぼり、南中で動かなくなると、あたりは一日ぶりに開放的な晴天を取り戻した。
俺は塔を降りると、真っ先に海に出向いた。すでに光がふわふわ舞っているが、ルウのすがたはない。あいつもいない。どうなったのだろう。砂浜には、あのことらしき足跡も残っていない。
夢だったのか。──まさか。
そういえば、ルウに会うのはいつも向こうがふらりとやってきたときで、俺は奴が普段どこに戻っているのか知らないのだ。仕方なく広場に引き返し、そこを横切って野原に行った。
あのセピアの人々は、あのままほとりにいたのだろうか。そんなことを思いながら草に腰かけ、駆け寄ってきたうさぎを撫でたりしていると、背後に草を踏む足音がした。
ルウだった。「よお」とにやっとしたルウは俺の隣に腰かける。ルウの雫の首飾りは、透いた青にせせらいで、ひかえめな光をこぼしている。
「大丈夫だったのか」と言うと、「あんなのに負けてたまるか」とルウは毒づき、俺もやっと笑えた。
「怖かったか」
「まあ、ちょっと」
「だから逃げろって言ったのに」
「逃げたら、ルウの人間不信に磨きがかかるだろ」
「お前みたいな真摯な偽善者は初めてだよ」
「褒めてないな」
眉を顰めた俺をルウは見つめる。「何」と気後れすると、ルウは長い睫毛を伏せて湖を見おろした。
「聞きたい?」
「え」
「あいつのこと」
「…………、どうせ、人間には知る資格もないんだろ」
「うん」
「じゃあいいよ。お前が戻ったんならそれでよかった、ってことにしとこう」
ルウは下を向いて笑い、「あのとき、俺はお前を助けただけじゃないんだ」とうさぎの頭を撫でる。ルウの肌とうさぎの毛は、一目では見分けがつかないほど純粋に白い。
「あいつにお前の魂を食わせたら、マジでやばかった」
「俺の魂なんかまずいよな」
「うまいと思うよ。味わい深くて。力になると思う。何か、お前は違うんだよ。お前は大切なものを持ってる。別にそんなこと大したことじゃないんだぜ。普通のことだよ。でも人間ってだいたいは普通のことも分かってなくて最低だ」
「俺、自然のこととかぜんぜん考えなかったよ。人のこと傷つけたし、嘘もついたし、今だって嫉妬してるし。汚いよ」
「人間って、そうやって自分の悪いとこを自覚しないだろ」
俺は口ごもり、そうなのかなと首をかしげる。卑屈なだけでは、と思っても謙遜しまくるのも何なので黙っておく。ルウはうさぎを逃がすと腕を伸ばし、「俺ね」と目を細める。
「あいのこなんだ」
「え」
「あいのこ。純粋な天使じゃない」
「………、」
「母親は天使なんだ。父親は──悪魔だ」
ルウを見た。ルウは湖に瞳を放っている。あいのこ。母親は天使。父親は悪魔。天使と悪魔の──
「天使も悪魔も、普通は魔力で子孫を残す。地上の生き物みたいに、汚く交わったりしない。でも、俺はそんなふうに生まれた。地球で自然がめちゃくちゃになってて、その綻びの中から悪魔がこっちに降りそそいできて、逃げおくれたひとりの天使を……」
「……何で、そんなこと」
「俺のこの力を造り出したかったんだろ。魔力で天使と悪魔をかけあわせても、性質が反発して絶対に融合しない。けど、俺は天使と悪魔が交わって生まれた。天使の力と悪魔の力が、無理なく溶けあってるんだ。そりゃあすごい力だよ」
「じゃあ、あいつは」
「この力で王になろうとしてる、二番目の悪魔の部分。一番目の天使の部分は深くで眠ってる。今の俺は、三番目の封印のために造られた部分なんだ」
「封印」
「俺の力は物騒だ。ほんとは俺なんか、とっとと消滅すべきなんだよ。でも、できない。力がそれを拒絶する。俺自身もその力をあつかいきれなくて自殺もできない。力を解放したら最後、俺は永久に死ぬこともできずに暴走しつづけるんだ。俺が悪魔の手に渡ったら、すべておしまい。だから、こっちが保護して、どうにか力を封印だけしたんだ。この首飾りで。神様は犯されて死んだ天使のために、破壊される自然のために、そして俺のために泣いてくれた。その涙がこの雫なんだ」
ルウは首飾りに触れる。もうねばつきもしない。おとぎ話にもならない禁忌の神話に、俺は口をつぐんでいる。
「俺は禁断の存在って奴だ。で、俺を生みだした綻びは、人間の暴虐なんだ。これまで俺たちは、お前たちを善意に解釈してきた。そろそろ限界かもな。地球とは手を切るかもしれない」
「………、手を、切ったら」
ルウは虚ろに俺を見て、「自然がなくて、生きていけるんだろ」と抑揚なく言う。
「水が涸れて、緑が消えて、土を踏めなくなって、人間には生きていける自信があるんだろ。俺たちはそう取ってるぜ。それ以外にどう取ればいいんだ?」
「………、」
「人間は、大雨や地震でこっちがどんなに訴えても、自然を殺すばっかりだ。人間の魂を受け持つのはつらいって天使、多いよ。そもそも魂の管理は、天使じゃなく先祖が受け持つものだった。天涯孤独の奴が、恵みとして天使の導きを受けてたんだ。だけどお前ら、自然と同じくらい、人とのつながりもダメにしてるよな。残した人を守ろうって奴は、ほとんどいない。まあ、そんな奴はどっちみちこっちに来たって回収処分だし。人間は見捨てられた奴であふれかえってる。それでまた、天使に人間がまわってくる。どんなに祈っても無視されて疲れて、天使が魂を放り出すなんてことも起きはじめてる。あの中には、そうやって天使にさえ見捨てられて死を知れない奴もいる」
ルウはセピアの人々に目をやる。それは初めて会ったときに聞いた。が、そういう事情があるとは今知った。そうなのか、と俺はセピアにくすむ人々に苦いざらつきを感じる。
「俺を消滅させる方法はひとつしかない」
「……方法、あるのか」
「ああ。俺を生みだした綻びが修繕されて、その力を受けること。つまり、地球の緑がすべて生き返って、その生命力がゆいいつ俺を打ち砕けるんだ」
「………、地球に、よみがえってほしい」
「決まってんだろ」
「消えちまうんだぜ」
「俺なんか消えたほうがいい。俺はいつも、あいつがいつ出てくるかって怯えてる。自分が怖くてたまらないよ」
ルウの傷んだ横顔を見て、湖を見やった。ルウは瞳を放置してぼんやりしたあと、息をついて立ち上がる。俺が見あげると、「俺の担当はお前だけじゃないんだ」とルウは黒い羽を出現させる。
「ルウ」
「ん」
「あいつ、俺が早死にしたのはしたのはお前のせいだって言ってたけど」
「………」
「俺は、ルウが担当でよかったと思うよ」
ルウは俺を眇目で見おろし、「偽善者」と鼻であしらうと風に消えた。俺は咲い、咲いながら複雑なため息をついて、そうか、と草原にぱたんと仰向けになる。
天使っぽくないなとは思っていたが、まさか本当に天使ではないものが混じっているとは思わなかった。天使と悪魔のあいのこ。純粋な天使たちの中で、ルウは穢れたあいのことして偏見を受けてきたのかもしれない。
本物の天使がもはや人間を見放しはじめているのだ。そんな中で、ルウはせっせと俺に構ってくれる。偏見を受けているのかは俺の邪推かもしれないが、少なくとも、劣等感がルウを天使より天使にしているのは確かだろう。
もちろん、俺が死んだのはルウのせいではないと分かっている。天使と悪魔のハーフに守護されているなんて、変わり者の俺らしくていいではないか。
ルウの人間への憎悪も、やっと飲みこめた。いや、ある意味分からなくもなった。自分を生みだしたのは人間の傲慢なのだから、一歩間違えれば、ルウは人間を母なる破壊として支持してもおかしくはない。力を解放して人間の破壊力を宇宙に蔓延させてもおかしくない。
しかし、ルウは自分の存在を真っ向から嫌悪し、身を切るような憎悪で人間を否定している。すごい正義だ。天使の清らかで美しい純潔より、ルウの血みどろの唾棄のほうが真実を訴えている。
青空に半眼になり、樹里と日秀を想った。俺の魂のどこが清らかなのだろう。こんなに心が狭いのに。俺は自分の死を受け入れなくてはならない。受け入れたら、自然とあのふたりの関係も受容できるはずだ。俺はルウに見守られてきた。偽善とたたかれたって、大切なことを実行できる性根はあるはずだ。
受け入れよう。樹里も、日秀も、自分はもういないことも──
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