PASTEL ZONE-15

接続された心

 下界は八月も下旬だった。強い日光に冷房は不可欠でも、蝉の声はほぼ消えている。昼下がり、樹里はひとりで昼食を取っていた。日秀はずいぶんさっぱりした俺の部屋で荷造りをしている。頬の曲線をわずかに取りもどしたかあさんは熟睡中だ。
 俺は日秀の荷造りを眺めて、そうかと初めて気がつく。あいつは別の街に住んでいるのだ。だとしたら、樹里とくっついてもそばにいてやれない。
 日秀も樹里も心の中から無言で、あのあと関係がどうなったか窺えない。ただふたりとも、ひと月前より表情がしっかりしている。日秀はともかく、樹里がそうなっているということは、何かはあったのだろう。
 樹里が食器を片づけ、リビングのカウチで前髪を冷房にそよがせていると日秀が訪ねてきた。樹里は日秀に牙を剥かなくなっていて、でも甘ったれることもなく、ごく普通にリビングに通す。
 樹里は麦茶を淹れ、『ありがとう』と汗をぬぐいながら日秀は受け取った。『何かあったの』と樹里が問うと、『今週末に向こうに帰ろうと思って』と日秀は返す。ひと置きして日秀の隣に座った樹里は、『そう』と背もたれに寄りかかる。
『いたほうがいい?』
『……うぬぼれんなよ』
 日秀は咲い、『今度の週末は稜久の四十九日だね』と言う。
『その日までここにいたら、帰るよ。学校もあるし』
『………、稜久があたしにあげようとしてたチケット、あったじゃない』
『え、ああ、サイコミミック、だっけ』
『あれ、ちょうどあいつの四十九日なんだ。バカだよな』
 バカですか。えらく立ち直ってるじゃねえか。やっぱ何かあったな。
『まだ稜久が好きなんだね』
『ずっと好きだよ。特別』
『うん』
『日秀くんとか、玲美子さんの言うことも分かったし。稜久への気持ちもひっくるめて分かってくれる人、探すよ』
 日秀はうなずいて麦茶をすする。樹里にしては大人の判断だ。何かあっただろ、と思っていると「俺じゃダメかな」と日秀は樹里を見る。
『え』
『俺は君の稜久への気持ち、よく分かってるよ』
『……あんたは、ダメだよ。稜久が泣くよ』
『俺は稜久とつきあってた頃の君には、何の興味もなかった。あいつを亡くしたあとに惹かれたんだ。同じときに君に惹かれたんじゃないから、奪ったことにならないって言い訳かな』
 言い訳だよ。と言いたいところだが、許そう。親友のよしみだ。
『樹里ちゃんは、俺のこと、やっぱり何とも思えない?』
 樹里は日秀を一瞥して、空中を眺めた。日秀は麦茶の水面に目を落とし、『俺と寝たの後悔してる?』と訊く。
 寝た。やはり。覚悟はしていたものの、事実として突きつけられると耐えがたく息苦しい。しかし、これを許容しないと何も始まらない。
『嫌いじゃないけど』と樹里は膝の上で手を握る。
『日秀くんは稜久に近すぎるよ。逆に稜久を思い出しちゃって』
『………、そうだね』
『ごめん』
『いや。正しいよ』
 噴水に頬杖をつき、くっつかないのか、と仏頂面になった。何だよ。くっつけばいいじゃねえか。
 樹里が日秀に心を揺らしているのは、彼女の本音が聞こえるから分かる。もしかすると、俺の存在より日秀が常にそばにいないことに不安があるのだろうか。
『樹里ちゃん、新学期には学校に行く?』
『ん、まあ。行ってみる。日秀くんは……行くよね。当たり前か』
『複雑だけどね。学校を楽しいって思わせてくれたのは、稜久だったから』
 言葉では直接触れないが、お互いがお互いの過去を思っているのが見える。話したのか。樹里も日秀も、たぶん、俺にしか打ち明けてこなかった胸の内を。
 樹里は堕落しかけ、日秀は閉塞しかけた。思いのほか、このふたりには精神面で近いところがあるのかもしれない。遠恋はダメなのかよと俺は開き直ってもどかしくなる。
『ときどき来るよ』と日秀は言い、樹里はうなずいた。ふたりは一貫してぎこちなく、ひかえめだった。あれだけ否定していたくせに、そんな光景を見せられていると違う意味で歯がゆくてムカつく。
 というか、樹里の気持ちも日秀の気持ちも、もはや俺の死が割りこめる領域ではない。俺のことなんか気にすんなよ、と言ってもこれも下界には届かない。死ってあつかいようがないな、と手を引いて天を仰ぐ。
 日秀が帰ったあと、樹里はリビングで麦茶のコップもそのままにして日秀や俺をぼんやり想って過ごした。そのとき樹里は、はっきりこう思った。俺はその内心のひとりごとを、しっかりと聞いた。
《日秀くんとつきあってもかまわない》
 そのひと言が、タイムリミットを告げる秒針のように、急激に俺のいろんなものを吹っ切っていった。生も、心も、存在も──怨めしい意味ではない。転生に廻る覚悟を決めるために、むしろ俺には、そういうものがずっとしがらみだったのだ。捨てきれなかった執着が、力尽きてほどけていく。
 夕方には夕立が降った。樹里は慌てて洗濯物を取りこみ、陰干しをするものとたためるものを仕分けた。
 今日も父親は帰ってこないようだ。樹里はひとりで夕食を取り、シャワーを浴びると二階の部屋に上がった。
 その頃には雨は上がり、月と星が窓に濡れていた。雨の名残でひんやりとした空気に樹里は冷房より窓を開け、ベッドに仰向けになる。
 夏の夜風が樹里の前髪を揺らしている。遠くに風鈴が聴こえ、その音色に秋へと目覚めていく澄んだ虫の声が重なる。樹里は力を抜き、睫毛を下ろした。
《芝生の匂いがする。雨降ったからかな》
 樹里を見つめた。心の声の伝わりかたが、何か、変だった。いつもは、指先から神経を通って耳元に届くのに、その声は直接俺の鼓膜に響いてくる。こないだのルウからのテレパシーに似ている。
 テレパシー。
 え、と俺はその場を座り直した。
《四十九日か。もう稜久がいなくなってそんなに経つのか。あたし、このひと月半、何してたっけ》
 俺は生唾を飲みこみ、恐る恐る、水面に浸す手を引いてみる。
《四十九日過ぎたら、魂は生まれ変わるとか聞いたことあるな……》
 聞こえる。
《ほんとに、稜久いなくなっちゃうんだ》
 聞こえるぞ。何で。水に触っていないのに。というか、今、俺は樹里とつながっているのか。交信できるのか。
《まだ、稜久がいなくなったなんて信じたくないのに──》
〈樹里〉
 ダメ元だった。心を覗きすぎて、神経に言葉が流れる感覚に慣れただけかと思った。
 だが、奇跡は起きた。樹里の思考が停止し、空白が流れたのだ。
〈樹里。聞こえてるのか〉
『……うそ』
〈俺だよ〉
『稜久?』
《嘘。幻聴だ。あたし、寂しすぎておかしくなったんだ》
〈聞こえてんのか。返事しろよ〉
『き、聞こえる……』
「すげえっ。何で。ま、いいや。すごいよ」
《……何? 聞こえなくなった。何で。稜久の声だった。やばいよ、あたし》
 こっちが声を出しても伝わらないのか。〈樹里ちゃん〉と心を使って呼びかけると、『また聞こえた』と樹里は泣き出しそうに起き上がる。
〈あ、バカ。寝てろよ。よく分かんないけど、そうしてたらつながるのかも〉
『え? え?』
〈寝ろっつってんだよ〉
『何で』
〈いいから〉
 樹里の声がかすれ、よく聞こえなくなっている。心の安静が乱れると、線みたいなものが切れそうになるみたいだ。樹里はベッドに横たわった。〈落ち着けよ〉と俺は言う。
〈深呼吸して〉
 言われた通り、樹里はたっぷり肺を使って呼吸する。孤独感で変になったと頭は混乱している。俺は樹里が平静になるまで黙っていた。樹里の鼓動や息遣いがやすらぐと、〈落ち着いたか〉と訊く。

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