そして、たどりつく世界は
『ほんとに稜久なの』
《違う。何訊いてんだよ。脳の作りごとに決まってるじゃないか》
〈そうだよ〉
『稜久……』
〈すごいな。奇跡だ。無理だと思ってた〉
『稜久の声がする』
〈だって俺だもん。へへ、久しぶりだな。痩せただろ〉
『……うん』
〈いつも、あと三キロって言ってたもんな。よかったじゃん〉
『バカ。何なんだよ。今どこにいるの』
〈どこだろ。天国かな〉
《天国なんてありきたりだ。やっぱり、この会話はあたしがひとりで考え出してるだけなんだ》
〈お前のこと、ずっと見てたよ〉
『え』
〈お前、援交に戻ろうとしただろ。何やってんだよ。俺のせいでお前がそんなんに戻ったら、俺、浮かばれねえじゃん。絶対やるなよ〉
『うん……』
〈ずっと言ってたのに。あのときは聞いてくれなかった。今は聞こえてんだよな〉
『うん』
〈よかった。もっと自分を大切にしなさい。ま、俺もいきなり死んで悪かったけど〉
『そうだよ。何で死んだんだよ』
〈俺も気づくと死んでてびっくりしちゃったよ。ま、殺した奴は許せないけど、死んだのはじたばたしてもしゃあないし、受け入れてきてる。お前もさ、俺みたいないい男に未練垂らしたいのは分かるけど、そう突っぱるなよ〉
『うるさいんだよ。お前なんかとっとと忘れてやる』
〈はは。けっこうけっこう。その調子で、日秀とできちゃえよ〉
『え』
〈日秀が好きなんだろ〉
『す、好きじゃねえよ、あんなの』
〈じゃ、誰が好きなんだよ〉
『誰も好きじゃない』
〈かわいくねーっ。そんなお前には、愛想つかして天国で浮気するの刑〉
《……稜久なの? 何か稜久みたい。でもまさか。稜久は死んだ。ありえないよ。信じられない。……信じられたら、いいのに》
〈俺のことは気にすんなよ。もう死んだんだ〉
『あんなの嫌いだ』
〈じゃあ何で寝たんだよ〉
《どうして知ってるの。やっぱり幻聴かな。自分で自分の気持ち探ってんのかな》
〈日秀はお前が好きみたいだぜ〉
『あんなの同情じゃないか』
〈同情でそこまでしねえよ、日秀は。あいつのことはよく知ってる〉
『稜久じゃなきゃ嫌だよ』
〈俺のこと忘れるって言ったじゃん〉
『忘れられないよ。稜久じゃなきゃやだ』
〈泣かすねえ。ま、別に日秀とつきあっても、俺を忘れたとか裏切ったとかにはならないと思うぜ。お前言ったじゃん、俺のことは特別で、忘れないって。俺はそれでいいよ。お前の新しい幸せまで邪魔しない。好きだから〉
『稜久……』
〈俺はお前のことずっと好きだけど、お前はそれにつきあう義務はない。お前は生きてるんだ。生きてるってことを、俺の死にすがって台無しにすんな〉
『………』
〈樹里?〉
『……ごめん』
〈え〉
『あたし、ダメなの。信じられない。あたし、ほんとに稜久と話してるのかな。そんなのありえないよ。あたしの頭の中が、好き勝手に自己弁護してるみたい』
〈………、〉
『ごめん』
〈……それでもいいよ。まあ、だったら、これはお前の本心ってことにはなるんだよな。認めていいんだぜ。日秀は律儀だしな。会いたいって言えばわがまま聞くと思うし、遠距離ってことにビビる必要はない〉
『……うん』
〈あいつにも樹里が必要だと思う。あいつにも仮面つけなくていい、素顔見せれる奴が必要なのは聞いただろ〉
『うん』
樹里がうなずいたところで、俺は背後に気配を感じて振り返った。ルウだった。腕組みをしたルウは、黙って水面に優美な顎をしゃくり、俺は噴水に向き直る。
〈なあ、樹里〉
『ん』
〈あのライヴ、日秀と行けば〉
『えっ』
〈俺があれを取るのに、どれだけ苦労したと思ってんだ。無駄にすんなよ〉
『……うん』
〈あー、あと避妊しろよ〉
『……うるせえよ』
〈俺は緑とか空気を通していつもお前のそばにいる。自然の中にいるんだ〉
『自然』
〈そう。だから、自然汚すと、そばにいられなくなるんだぜ〉
『そっか。分かった。大切にする』
樹里の声は咲いを含んでいた。もう大丈夫だろう。〈じゃあな〉と言っても、樹里は素直にうなずく。
〈話せてよかった〉
『あたしも』
〈こういうのって、似合わないんで、言ったことなかったけど。愛してるよ〉
『え……』
〈樹里を愛してる。俺に心を開いてくれてありがとう。もうお前は、俺がいなくても大丈夫だよ〉
『稜久──』
〈俺なしでやってみな。頑張れよ〉
樹里は涙をこぼしていた。彼女の心には相変わらず猜疑が渦巻いている。けれど、信じてもらえても、もらえなくても、樹里がこくんとうなずいたことで俺は満足だった。〈じゃあな〉といつもみたいな挨拶で締めくくると、俺は噴水から身を引いた。
ルウは右隣に腰掛けていた。「交信しちゃった」と言うと、ルウは黒い瞳でこちらを一瞥して肩をすくめる。俺は背中にかぐわしい水飛沫を感じつつ、「何でできたのかな」と踊る淡い光たちを見上げる。
「あの子が自然を感じたんだろ」
「自然」
「風を聴いて、芝生を嗅いだ。それがあの子の第六感を広げたんだ。たったそれだけで途切れずに交信できたのは奇跡だな。お前の執念深さのおかげか」
ルウをはたいた。するとルウの白い手は俺の右手をつかみ、金砂のブレスレットに触れた。ルウの繊指に、金砂が溶けて絡みつくようにほどけ、ルウはそれを握りこんで初歩的な手品みたいに消す。
「おい──」
「お別れだ」
「えっ」
「お前の魂の処理が決まった。お前は星になる」
「星」
「永遠になるんだ」
目を開いた。「立ちな」とルウは立ち上がり、「今すぐなのか」と俺は思わずとまどう。
「ここにいたってしょうがないだろ」
「そんなことも──え、永遠って何。俺は転生なのでは」
「お前なら大丈夫だ。転生っていうのは、自分を好きになれない奴がなる処理なんだ」
「で、でも──永遠って、何だよ。想像つかねえんだけど」
「ここよりいいところだよ」
「俺、樹里に見守ってるって約束したし」
「見守れるよ。お前には、もうこんなブレスレットはいらないだけだ」
「また交信できる?」
「あの子にやる気があればな。行くぜ」
ルウは歩き出し、俺はおろおろと立ち上がって追いかける。
何だ。あっさりしてるな。もっと焦らさないか、こういうことは。永遠。俺は消えないのか。消滅も転生もしないのか。俺は俺でいられるのか。とっさに思う。
よかった──
塔を降りると、こちらからは開けられない扉に連れていかれた。ルウはその扉に触れ、すると、扉が黄金と純白を入り混ぜた光をこぼしはじめる。
あたりを見まわした。水の床、若草の野原、突き抜ける青空、浮遊する魂の光──いつのまにか、ずっとここにいる気がしていた。もうお別れなのか。
ということは、もしかして──
「ルウ」
「ん」
「俺たち、これっきりなのか」
「……ああ」
「もう会えないのか」
「転生したら、その命が終わったときに会ってたけど。どうせそのときは、お前として会った記憶はもうない。お前がお前として俺と接することができたのは、今だけだったんだ」
「どうやっても」
「どうやってもだ。お前はお前でやれる。誰の管理も受ける必要はない」
「管理とかじゃなくて、何か、ただ単に会うっていうのは」
「お前の行く世界に、半分は悪魔の俺が入れるわけねえだろ。ここでお別れだ」
ルウを見つめた。ルウは俺を振り返り、「ほんとに偽善者だな」と鼻で笑う。
「あんな俺見ても、そんな泣きそうにしてくれんのか」
「あいつとルウは違うんだろ」
「………、どうだろうな。俺はそう思いたいけど。みんな信じないよ」
「俺は信じるよ」
「綺麗ごと言いすぎると、処理変えられるぞ」
「信じるとか言うまでもないだろ。ぜんぜん違うじゃん。俺、ルウのおかげで永遠なんてもんにいけるのかもしれない。お前がそうやって無神経なくらい話してくれるんで、怨霊にもならずに、死を受け入れられたんだ」
ルウは黙って正面に向き直り、光で扉を縁取っていく。金と白で織られた光が満ちたとき、扉がふっと蒸発して強い白光があふれた。
風が流れこんでくる。強くない、暖かく柔らかな風だ。花や草の甘くてさわやかな匂いが乗っている。
「ほら、行けよ」
「ルウ」
「もたもたしてると閉じるぜ」
「もし地球がよみがえって、その力にさらされても、ルウは消えないと思う」
「喧嘩売ってんのか」
「天使の部分だけ、絶対残るよ」
「………、」
「残ってみせろよ。お前ならできる。天使より天使じゃん」
白波の光に金色がうねる中、ルウは俺を見つめた。俺は光の扉にゆっくり踏み出す。
ルウは無言だったが、向こう側に踏みこむまであと一歩というところで、「稜久」と呼びかけてきた。振り向くとルウは少し泣きそうな瞳をしていて、でも何とかいつものように高ぶって笑ってくる。
「お前には、マジであきれるよ」
「……うん」
「会えてよかった。お前みたいな人間が増えるといいな」
俺は微笑んだ。ルウも咲った。やっぱり天使だ。俺は最高の天使に見守られていた。そう信じて間違いない。そのおかげで俺はこの選ばれた光に迎えられている。
視界を奪う金色の光は、手首にきらめいていた金砂のようだ。風の匂いや鳥の声がしている。ひとつ大きく息をつくと、心を決めた。
俺なら大丈夫だ。
この自分に後悔はない。
しっかりそう思うと、光に踏みこみ、死から永遠に、俺はこのはざまの世界をあとにした。
FIN