PASTEL ZONE-2

まわる走馬燈

 俺には父親がいない。接したこともなければ、顔も知らない。俺のかあさんは妻子持ちとのあいだに俺を授かった。男は責任を取らずに家庭に逃げ、両親にも不道徳だと締め出され、かあさんはひとりで俺を生んだ。つまり俺は私生児で、かあさんの夜の稼ぎでここまで成長した。
 俺を生んだ当時は下っ端ホステスだったかあさんも、今では自分の店を持つママになっている。そのおかげか、ずいぶん落ち着いたけれど、昔はひどいものだった。
 酔っぱらってお触りする客にもにっこりして、さりげなく化粧室に立っては、ハイヒールで便器を蹴たくったり、涙で化粧を壊したり──そんな二面性にストレスが溜まり、永年、自殺的なアルコール中毒だった。
 ひとり酒で酔ったかあさんはとにかく凶暴で、俺もいくらか被害を受けた。でもしらふなら優しかったし、愛情もじゅうぶんあったので、家庭に不快感はなかった。
 かあさんのことは、怖いというより心配だった。だから、俺はいつもかあさんを受け止めて守れる強さを求めていた。“複雑な家庭環境”だったものの、さいわい、その希求が俺をまともに成長させた。人には「変わった奴」と言われるが、別に捻くれちゃいない。俺がしっかり育ったことが、何よりかあさんに安定を与えた。
 かあさんは、水商売以外の仕事はしたことがない。だから、幼い頃から俺には夜は孤独なものだった。本当に幼い頃は託児所に預けられていたが、分別がついたら部屋に取り残された。朝、俺を学校に送り出したあと眠りについたかあさんは、帰宅した俺に揺り起こされて仕度を始め、夕方に巻き髪とスーツで出かけていく。
 夜なんて、眠っているだけだけど。静まり返った部屋と、人の気配のそばで眠るのは、安心感が違う。夜更かしを覚えたときから、俺はしょっちゅう友達の家に泊まり、もっと成長すれば街で過ごしたりするようになった。
 現在はだいたい、彼女である樹里の家に行く。そしてこの週末も、化粧を決めてまず美容室に向かったかあさんを見送ると、樹里の家を訪ねることにした。
 樹里は俺のひとつ年下で、彼女になる前は幼なじみだった。昔、私生児としてくだらない偏見がつきまとっていた俺に、彼女はごく普通に俺に接してくれた。
 彼女も家庭に欠陥があったせいかもしれない。樹里の両親はやたらと仲が悪く、俺──娘の友人の前でも喧嘩を厭わないほどだった。
 実は俺は十歳のとき、自分の店を持つと決意したかあさんの荒稼ぎについて引っ越し、数年間、樹里と音信不通になった。そのあいだに樹里の両親は離婚が成立し、仕事づくしの父親に引き取られた彼女は、ひどいことになった。
 十六歳と十五歳のときに再会し、彼女は俺にすら牙を剥くようになっていたけれど、そんな樹里を単純に見ていたくなかった俺は、しつこく彼女に更正をうながし、気づくと恋人同士になっていた。今は樹里は俺には心を開き、昔の素直さを取り戻してきている。
 俺が彼女の家に泊まれるのも、そういうわけだ。彼女の家を訪ねて親が不在なのは、男としては気が楽だ。俺は遠慮なく樹里の家で飯を食い、シャワーを浴びて、彼女を抱く。樹里としても、俺と眠れるのは、ほっとするみたいだった。
 俺は街中のマンション暮らしでも、樹里は住宅街の一軒家暮らしだ。昔は住宅街に隣接したアパートに暮らしていたのだけど、例の荒稼ぎのあとにここに戻ってきたかあさんは、アパートでなくこのマンションを選んだ。ワンメーターでかあさんの店が入ったビルに着く通りだから、部屋を出るとしばらくきらびやかな街並みで、樹里のいる閑静な住宅街は遠い。
 俺はオートバイを持っているが、金がなくて給油できずに放っている。夏休みになったらまたバイトしなきゃなあ、と頭をかきつつ、今日は徒歩で行くことにした。
 七月に入って十日が過ぎようとしていた。じめついた梅雨が明けて期末考査も終わり、やっと残るは夏休みだ。蝉の声が孵化するのもまもなくだろう。日射しはすでに真夏のぎらつきをまといはじめている。その強さは夜まで残像し、落ちた日に代わってあふれる電飾のもと、空気は生温く重い。
 すれちがうのはキャミソールの女の子やタンクトップ野郎だ。二十時だからかあさんみたいなスーツ女の出勤もラッシュだ。
 夏休みか、と俺は伸びをしながら人混みを縫っていく。夏休みには、日秀が遊びにくると言っていた。
 日秀は転校先で知り合った親友だ。タメで、俺が加入したクラスの委員長をやっていた。頭が切れて顔もいいが、彼が集めるものは厚い人望でなく歪んだ羨望だった。日秀はそれを自覚していたから、人と深くつきあうことを避けていて、転校生の俺の面倒を見たのも、始めは委員長としての義理だったと言っていた。
 だけど、俺がずうずうしく懐いたせいか、次第に打ち解けて話してくれるようになった。昔から嫉妬の目が重いこと、仮面を被っているようで疲れること、学校なんか大嫌いなこと。日秀の家が一番よく俺を泊めてくれた。おじさんとおばさんはいい人だったし、弟も生意気だがおもしろかった。
 中学卒業が別れ道だった。俺が元の町に戻ることになった。そもそも俺には、日秀が合格した高校に行ける頭も経済力もなかった。だけど今でも連絡は取っているし、親友はあいつだと思っている。
 距離は特急で二時間くらいだから、そうそうつるめないが、長い休みには必ず会って遊ぶ。俺が日秀を訪ねるときもあれば、日秀が俺を訪ねるときもある。
 ちなみに、樹里と日秀は俺をはさんで顔見知りだ。日秀はだいぶ対人に柔らかくなったのだが、樹里は俺以外の人間には不信感が強く、愛想咲いしかしない。そんなわけで、最近──冬休みと春休みは俺が日秀のところに行っていたわけだが、今回は「そろそろ俺が行くよ」と日秀が言い張った。俺の親友だから疑わなくてよさそうだけどな、とやや頑固な恋人を想っていると、駅前の交差点に着いていた。
 赤信号だ。この横断歩道を渡ると、商店が増えてきて、その先に住宅街がある。夜遊びの同世代、仕事帰りの中年、この暑さでも手をつないでいる男と女──
 行き交う車の排気や誰かの香水でむっとしていた。歩いてきただけなのにこめかみを伝う汗に、樹里んとこでシャワー浴びなきゃな、と思ったときだった。
 声がした。歓声ではない。動揺と恐怖が混じった悲鳴。それがいくつも重なって聞こえた。何だ、と眉を寄せ、俺は振り返ろうとした──
 ……あれ。ここから思い出せない。今までのことは、走馬燈のようにくるくると思い出せたのに。
 走馬燈?
 いや、違う。
 そうだ。憶えている。
 突然、後頭部にひどい衝撃が破裂したのだ。そしてまた悲鳴が聞こえた。聴覚が狂ったように、何だか聞こえる音が異常にゆがんでいた。そのゆがみを最後に、感覚がほとんど吹っ飛んだ。
 ただ残された意識が、めまいと痛みを綯混ぜにして、吐きそうな感じを訴えた。
 何なのか分からない。
 何をされた?
 何が起きた?
 分からない。
 認識するより早く、五感が消え入りはじめた。耳がかすれ、匂いが浅まり、視界が遠のき──再びどこかに強くたたきつけられ、生臭い血の味がたっぷりしたあと……
 俺は、真っ暗になった。
 ついで、はっと目を開けると、どこかに倒れていた。どこだ? 顔が伏せっていたのは青い床──透明な床の下を、水が流れている。水族館の水槽のトンネルみたいに、水面の模様が青く揺らめいている床だ。
 生唾を飲みこんだ。茫然としていた。
 今見ていたあれは、何だ?
 現実だったのか回想だったのかも分からない。ただ、鳥肌が立つくらい生々しい。
 いや、あれが現実“だった”のは分かっている。言われてみれば思い出す言葉のように、見せられたら思い出した。
 そう、確かに俺は樹里の家に行こうとしていた。横断歩道で立ち止まった。赤信号だった。そこまでだ。あのいきなり襲ってきた打撃に打ち砕かれたように、赤信号のあとの記憶がない。
 それは、憶えていないのではなく、そこで俺の人生が終わったからなのか。
 怒りより恐怖じみた虚しさに襲われていると、額をスニーカーでつつかれた。顔を上げると、さっきの美少年が俺を見下ろしていた。

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