黒い翼
「分かったか」
「………、」
「お前はそれで死んだ」
うなだれるまま起きあがり、水面の床に脱力した。床は一見ガラスなのだが、ガラスのように硬くなく弾力がある。ほどよくひんやりとしていて心地いいが、今の俺はそれどころではない。
死んだ。
視界が真っ暗に途絶えて、声帯がイカれたみたいに声も出ない。ただ、あやつり人形が糸で引かれるように、ぎこちなく美少年を見上げた。彼を逆光する太陽の光は、そういえば、確かに俺が十八年間浴びてきたものとは違う気がする。柔らかで穏やかだ。美少年はこまねき、かったるそうに右足に重心をかけた。
「……嘘だ」
俺がかろうじてかすれた声を発すると、美少年は鼻で笑って切り捨てた。「だって」と俺は息苦しかった喉に、急に言葉を通せるようになる。
「何で俺がそんなので死ぬんだ」
「運命さ」
「ふざけん──」
「変えることはできた」
「……え」
「でも、いろんなものが重なりすぎた。芸術的だよ。ひとつでもミスがあれば、完璧に進むことはなかったんだ」
「いろんなものって」
「お前は恋人に会いにいこうとした。イジメられてきた少年はついに切れた。スポーツショップで金属バットを買った。バイクがガス欠で歩いてきたお前は駅前にいた。赤信号で立ち止まっていた。少年がバットを振りまわしはじめた。お前は反応が遅かった。背中を向けていた。お前が五秒早く振り返るだけで、運命は生まれ変わってたのに」
美少年はバニラアイスのようになめらかそうな腕をほどき、すっと伸びた指先を無造作に陽光にかざすと、「人間ってのはバカだよな」とつぶやく。
「俺たちはいつも、自然を通してお前たちに呼びかけてるんだ。だけど、お前たちは自然を壊して、俺たちのことも否定する。いつだって事が起きてから慌てふためく。自然はそこにあるだけのものじゃない。肉と魂の媒介なんだ。俺はいつもお前の中にいて、お前の魂に尽くした。けど、さっき言った願掛けと同じように、肝心なところはお前自身のもので、お前しか操れなかったし、お前しか操っちゃいけなかった。お前の望みが間違ったものだろうが、俺にそれを禁止する権限はないんだ。せいぜいできるのは、お前の魂に自然の力がそそぐのを止めること。俺の仕事は、お前の魂と自然をつなぎ、お前に自由の力を与えることだ。ま、人間なんて精神的な第六感どころか、肉体的な五感も腐ってるから、力を流したってたいてい受け取ってもらえないんだけど」
睫毛を透かして指先に集まった光を見つめていた美少年は、その光をつかみとるような仕草をすると、「信じないか」とまた俺を見下ろした。
「……え」
「まだ俺を、夢の中の気違い登場人物と思うか」
「………、突拍子ないよ」
「認めないか」
「あんたが言ってることは、胡散臭い。けど、死んだのは、分かった。つっても、そんな簡単に『死にました』って」
「気持ちは追いつかなくても、死んだのは認めるんだな」
「……うん」
「よしよし」
美少年は満足そうに俺の正面にしゃがむと、何かをつかんだ仕草をした手の中から金色の細い鎖を生んだ。金砂が繊細に絡み合ったような、光がさらさらとこぼれる紐だ。美少年は冷たくも温かくもない不思議な体温の指で、俺の手首を取って紐を巻きつけると、つなぎ目をそっと撫でて留め具のないブレスレットにした。
「何、これ」
「手錠」
俺が眉を寄せると、美少年はにやにやする。
「それがあれば、一時的に俺たちみたいな力が使える。扉を開いたり、テレパシーを感じ取ったり」
「何で、こんなの」
「保留だからさ。お前は魂を全うしなかった。すぐに処理が決まらないんだ。回収か永続か、ま、消滅とか監獄はいかないだろうから安心しな。決まるまでここで待ってるんだ。あ、下界が気になるなら、この塔の最上階の噴水から見下ろせるぜ」
振り返ると、そこには最上階までうずまき状に坂道を登るかたちの純白の塔がある。五階建てぐらいだろうか。
「じゃあな。あ、俺はルウって言うんだ。ちょくちょく様子見に来るから、悪いことはすんなよ」
美少年──ルウは軽くみずからの背後に触れ、風に乗せて羽を出現させた。
俺は目を剥いた。羽が黒かったのだ。ふさふさの羽毛だが、カラスのように真っ黒だ。
羽ばたきに消えようとしたルウを、「待て」と俺は呼び止める。
「何だよ」
「その羽」
「何か変か」
「天使っつったら、白いだろ」
「ああ、最近天使のあいだでは、羽を染めるのが流行ってるんだ」
「はあ!?」
「人間が細かいこと気にすんな。じゃあな、稜久」
「あ──」
俺の名前、と言おうとしたら、ルウは羽ばたきが起こした風に消えていた。残った風で、ただよう空気の芳香が頬に当たる。
俺は息をつき、いっとき視線を水面に放置すると、相変わらずへたりこんだままのろのろと虚脱した。
右手首の金色のきらめきが目に入る。左手で触れてみると、まるで次元のゆがみに踏みこむように、指が飲みこまれるような感触がして、ビビって手を引いた。
床では水が青く泳いでいる。改めて触ってみると、つるつるとはしておらず、しっとりした触り心地だった。人間が知らない物質なのか、と分析をあきらめた俺は、今度は無垢に澄んだ高い天を仰いだ。
鬱だ。たぶん、こういう気分を鬱と呼ぶのだ。今まで感じたこともないほど重苦しい感情が、土砂降りのごとくのしかかってくる。
信じたくなかった。信じられないという衝撃が去ったあと、心はそう変化している。
信じたくない。死んだなんて。まだ十八なのに。高校も卒業していない。死ぬなんてもっとずっとあとだと思っていた。まともに意識もしていなかった。
俺はこのまま、消えるのだろうか。ルウは何やら、消滅ばかりが行き先ではないようには言っていたが、俺は“魂を全うしなかった”し、“自然の声を聴かなかった”し、“バカな人間だ”し──
だいたい、何だ。通り魔などという、この世でもっとも理解できない殺人で、すべて失ってしまうなんて。
俺の命は、道端に落ちた空き缶か。偶然そこにあったから、ドブに向かってシュートされたみたいだ。俺は殺されるために生きてきたわけではないのに、何でそいつの気紛れで、取り返しがつかないほどへこまされなくてはならない?
リサイクルできるだけ空き缶のほうがマシだ。俺は空き缶じゃない。死んだら──終わりだ。
キレたとか殺してみたかったとか、そういう輩が増えているのは知っている。他人事だと思っていた。思うだろう、普通は。まさか自分が獲物になって、しかも殺されてしまうなんて。
俺を殺した奴は、反省なんかしないのだろう。むしろ「あんがい手応えがなかった」とかほざき、適当なお涙頂戴演技で社会復帰して、罪を背負う悲劇の主人公として、かばわれながらのうのうと生きていくのだ。俺の死を脚光にして!
はっきり言って、俺は無駄死にした。大バカ野郎のピエロになった。
終わった。問題はそこだ。俺は終了したのだ。華々しく悲劇を開演するそいつに反し、俺の幕は降りた。横断歩道で人生を中断してしまった。
耐えがたい不条理にうめいて神秘的な床に伏せる。俺が死んだら、かあさんはどうなる? あの人の支えは俺だった。俺のために生き抜いてきてくれた。俺が死んだとなれば、またアル中になって、もしかして自殺とか──。俺が死んだことはもう伝わったのか。泣いているだろうか。今は恋人もいなかったはずだ。誰がかあさんを慰めるのだろう。
恋人といえば樹里だ。あいつは俺がいなければおしまいではないか。俺と音信不通だった頃に堕ちてしまうかもしれない。樹里が俺に心を開いたのは、幼なじみだったという点が大きい。両親の離婚後に出逢った人間は樹里は見境なく敵視している。樹里はひとりで生きていくには、あまりに社会性がひよわよぎる。
日秀は、かあさんや樹里に較べれば自殺とかの心配はないが、俺を必要としてくれていたし、やはりショックは受けるだろう。もう遊べないし、ふざけられないし、話すことすらできない。何かしらその心に消えない影を落とすことにはなるだろう。
その他にも、友達や知り合いはたくさんいた。俺の死が壊したものは “俺自身”だけではない。
身を起こして、純白の塔を仰いだ。下界が気になるなら。みんなのことは気になっても、まだ、自分の死を受け止めきれていない。こんな状態で、自分の葬式なんか見る勇気はない。落ち着いたら見にいこう。
一面に広がる水面の床を見渡す。そうして気づいたのだが、あたりにはパステルカラーの柔らかな光がふわふわとただよっている。塔以外にも、いろいろと造形物があった。床と同じ水面模様の煉瓦でできた花壇、芝生の小道、小道沿いには塔に似た純白のベンチ──水音がすると思ったら、おなじく純白製のアーチがかかった広く澄んだ池もある。さっきの野原は緑に満ちあふれていたが、ここはさわやかな水に満たされている。
地球じゃないんだよなあ、と俺はゆっくりと立ち上がると、気分転換もかねて、そのへんをぶらついてみることにした。
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