PASTEL ZONE-4

はざまの世界【1】

 自分の死はともかく、今踏みしめている世界が地球上ではないのは、しばらく歩けば嫌でも分かった。その証拠は瞬間的な空間移動だったり、浮遊する淡い光だったり、のびのびした自然だったりした。
 ここには山も海もあるし、常に穏やかな天を仰げる草原もある。山は植物が生き生きとして、海はプールより透き通って潮が香り高く、草原は草がふかふかで昼寝には打ってつけだ。死んでいるせいか、眠くならないし、食欲もないのだけど。
 どこに行ってもうろついているのは俺ひとりだったが、ルウ曰く、ほかにも魂はうようよしているのだそうだ。「どこに」と首をかしげると、「それ」とルウは淡い光を指さす。波長が合わない限り、ほかの魂は淡い光としてしか見取れないのだそうだ。
 そもそも、魂の感性が違えば、瞳が捕らえるこの世界の造形すら一変するらしい。つまり、性悪野郎にはこの世界に大自然でなく暗黒世界を見るわけだ。俺は今のところ、空の鳥や野原のうさぎ、たくさんの植物しか見ていない。そういう柄なのか。何というか──ちょっと寂しいのだが、性悪野郎が見えるよりいいのか。
 ここに昇ってくる魂には、人間だけでなく、動物や植物の魂もあるという。
「植物も」
「当たり前だろうが。あいつらだって生きてんだぜ」
 そうだけど。植物を手厚く葬る場面を想像すると、アホらしさを感じる。それを言うと、「人間様の感覚だな」とルウには思い切り軽蔑された。
「あいつらの魂は、人間よりずっと重要だよ。精霊だって植物に宿るだろ。人間に宿ったって快適じゃないんだよ」
 俺はしばし黙りこんだあと、「精霊ってほんとにいるのか」と根本的なことを訊いた。ルウはうんざりした顔をして、つきあいきれないとでも言うように羽に消えてしまった。
 ここにいてすごく感じるのは、色鮮やかな自然に囲まれてなごむ精神だ。正直、意外だった。学校で自然保護の授業を受けても、自然があってどうしたと思っていた俺だ。俺はコンクリートの中で、ジャンクフードと育った。自然なんかなくても生きられるじゃねえか、というのが本音だった。
 だが、それは肉体的な話だったのだ。精神まで気遣って生きようとすれば、葉が茂った木や柔らかな草や澄みきった空気は不可欠なのだ。新鮮な草花や、青く突き抜ける空の匂いと触れあっていると、不思議な自覚が生まれて心が落ち着く。自然は肉体と精神の媒介だというルウの言葉は、教科書的な暴言ではなかったわけだ。
 ところで、この世界には時間という概念が希薄だった。時計なんてないし、太陽は輝きっぱなしだし──ルウが言うには、あれは太陽でなく植物のための発光現象だそうだが。時間については、「一応存在してる」らしい。
「でも止めたりできるからな」
「え、マジ。時間って止められんの」
「人間は自覚してないけど。何だろ、いつまで経っても忘れられないこととかあるだろ。ショックなことで、そのとき見たり聞いたりしたものが体験したときのまま色褪せない。ああいうのは時間が止まってる一例なんだよな」
「ふうん」
 俺は足元に懐いてきたリスを眺めた。ちなみにここはルウと会った野原で、ふもとに例のセピアの人々が望める。
「こっちは意思で止めたりできるけど、お前らは時間を操作できるわけじゃないから、勝手に焼きついて記憶につきまとわれて。脅威だろうな」
「………、俺の恋人はそういう子だったよ」
「知ってる。下界見てみろよ。お前が実はどう思われてたか分かるぜ」
「やな言い方すんな」
 顰蹙を浮かべてルウに顔を上げると、「人間の死後っておもしろいぜ」とルウは不謹慎ににやつく。
「自分が死んだあとの周囲の反応に、たいてい愕然とする。それに傷つきながら、感情そのものを奪われる。永遠になれる魂なんて、ほんの一部さ。だいたいは回収されて転生にまわされて、思考も感情も違う別者として生き直す。悪い奴は地獄行きで、最悪は魂ごとの消滅だ」
「地獄と消滅の境目って何?」
「本人の意志だよ。地獄に行くのは生前に罪を働いた奴。消滅は自殺した奴。死ねば天国で幸せになれるなんてのは甘ったれだね。ま、死にたい奴には消滅が幸せなのかもしれないけど」
「………、俺の恋人って自殺しそうなんだよな。かあさんも危ないかも」
 ルウは俺を見、「知ってる」とまた言った。俺もだいぶ慣れてきたルウのヒキそうに美しい顔を見る。「自殺してないよな」と訊いても、そこは「知るか」とルウはつれない。
「自分で見ろよ」
「俺に地獄を見せる気か」
「地獄なんか知らないくせに。あ、そろそろほかの担当が死ぬ」
 さりげなく怖いことを言い、ルウはいつも話をぶったぎって扉や羽に消えてしまう。
 ところで、ルウのあの黒い羽だが、染めるのが流行っているというのはやはり冗談だった。何でも、下界の汚れに感染して、元の純白を奪われているのだそうだ。
「俺たちはすべての自然とつながってる。この羽はお前たちがめちゃくちゃにした自然の表出なんだ。醜いだろ。これはお前たちの醜さなんだぜ」
 言葉こそ汚くても、ルウの発言はきまじめなものだった。自然破壊が当たり前の中で成長した俺は、清らかな言葉で自然保護を訴えられても綺麗事に聞こえてしまう。ルウの口汚い自然への愛情はかえって凄味があり、はっとさせるものがあった。
 ルウは俺の性格は嫌いではなさそうでも、人間ということを多少軽蔑している節があった。人間の暴挙で白い羽をあろうことか黒く犯されたのだし、気持ちは分からなくもない。「人間のせいだけなのか」とある日訊いてみると、「決まってんじゃねえか」とルウは一蹴した。
「地球はタチが悪いよ。管轄が地球なんて貧乏くじさ。ほかの世界にはもう少し秩序がある」
「ほか」
「ほかの星とか次元とか」
「ほかの星って、えっ、宇宙人? 宇宙人ってほんとにいるのか」
「格好悪い質問してるぞ」
「……いないのか」
「お前らって、見えなきゃ信じないだろ。世の中には、目に見えない生命体もあるんだぜ」
「………、前から思ってたんだけど、何で宇宙人って、いさぎよくすがたを現さないんだ?」
「地球人は明らかに友好的じゃなくて、警戒されてるからだろ」
 否定できずに頬杖をついた。今日いるのは水面広場で、大理石に似た光沢のベンチに座っている。見かけは石なのだが、座るとふっくらとした心地があって不思議だ。
「こういう世界って、ほんとにあったんだよなあ」
「まだ信じてねえのか」
「あまりにも非科学的だろ」
「期末の理科は二十三点だったくせに」
「うるさいんだよ」
「お前って、理科系統の試験、どんなに頑張っても満点の半分越えなかったよな」
「何で知ってんだよ」
「ずっと見てたもん」
「………」
「お前がいつ童貞捨てたか、何回オナニーに励んだか、樹里ちゃんちに泊まってていきなり親父が帰ってきて、何時間樹里ちゃんの部屋で息ひそめてたか、そういうの俺は全部──」

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