はざまの世界【2】
俺は天使の後頭部を引っぱたいた。ルウはすぐさま俺を引っぱたき返し、「好きで知ってるんじゃねえんだよ」と毒づく。
「生を受けたときから、行動はすべて魂に影響する。死後に鑑定して処理する。汚れてりゃいいってもんじゃなくても、美しいとか清らかなだけでも回収だから、むずかしいよな」
「いいよ、俺は転生なんだろ。オナニーしましたよ。息ひそめましたよ。怖かったんだよ。見つかったら殺されるかと思った」
「玄関にスニーカー置きっぱなしだったのあとで気づいて、焦ったよなー」
「ほんと──もういいって」
ルウは愉しそうにからからと笑って、俺は息をついてしまう。こんなことになるなら、生前、もっといいことをしておけばよかった。誰も見てないから何したっていいや、という気休めは、こうして死後に恥辱と共に崩されるのだ。しかし、俺の場合はこの担当天使の性格が悪すぎる気がする。
「なあルウ、俺を殺した奴ってどうなった?」
「自分で見ろって言ってんだろ」
「自分で見たら怨霊と化すかも」
「勝手に化してろ」
「魂が怨霊化したら、神様からお咎めとかないのか」
「ないよ。あの人はそんな権力者じゃない。ただすべてを見守ってるだけだよ」
「けっこうしけてる──」
ルウは素早く俺の額を弾いた。「痛い……」と俺が素でうめいて上体を折ると、「お前を殺した奴はな」とルウは肘かけにえらそうに寄りかかった。
「イジメられてた過去が発覚して、悲劇の主人公だよ。復讐したかったそうだ」
「復讐で何で俺なんだよ。本人殺せよ」
「それは怖いんだろ」
「無関係の人間巻きこむほうが怖いんですけど」
「そいつの親は、息子も一種の被害者なんだって、お前の母親に言ってたぜ」
「かあさんには逆効果だな」
「ご名答」
「かあさんか。こんなことになるなら、やっぱ高校行かずに働けばよかったな。何にもできなかった」
ルウは俺を眺め、あしらうように笑った。
「何だよ」
「お美しいなと」
「うっせえ」
「お前のことは、よく知ってるけど。死んでる場合じゃなかったよな」
ルウをちらりとして、「うん」とスニーカーのかかとで水面の床を引っかいた。確かに俺は、死んでいる場合ではなかった。もっと生きて言葉をかけたり、抱きしめたりしなくてはならなかった。台無しになってしまった。
ルウとの軽口や絶大な自然に徐々に死を捕らえはじめた俺は、ようやく、自分をぶちこわした奴へのやりきれなさにたどりつきかけている。
こういう事件で勝つのは、しょせん加害者なのだ。主役は加害者、俺は引き立て役にされた。目の前にいたら、殺している。自分のためにも、樹里たちのためにも。俺には、置き去りにできない人がたくさんいたのに。
いつか塔に登ろうと思いつつ、なおもそのへんをふらついた。水面広場の何気ない壁や霧からまったく違う空間に飛べるのだが、どこがどこに繋がっているのか把握しきれないほど、いろんな景色に出逢う。
個人的には霧を抜けた先の海が気に入って、ここは憶えた。砂浜でぼんやりしたり、透き通った渚の魚や貝を眺めたり。泳ぎたければ泳いでもいいそうだ。深海から広場に戻れるらしいが、カナヅチの俺は死んでまで水に喘ぎたくないので、それは遠慮しておいた。陽射しもぎらぎらしていなくて心地いいし、からりとした風が涼しくて何時間でも過ごせる。天然の海は香りも良くて、砂浜に転がって波の音に聴覚を休ませる。
幻想的に浮遊する光の向こうの無限に青い空を見ていると、自分がこの世界をこんなふうに捕らえる感性でよかったとは思う。ほかにも動物がいる山や深い森、雄大な草原や轟音の滝壺、色鮮やかな花畑、のんびりした田んぼ──ビビって引き返したところだと、断崖や密林。海以外でよく過ごす場所は、水面広場とルウと逢った例の野原だった。
ふもとの湖畔では、相変わらずセピアの人々が溜まっている。しかし、あれが見えるのは微妙だなと思っていたら、ルウ曰く、彼らのことは見える奴と見えない奴の真っ二つに別れるらしい。「見えたら何?」と訊いても天使はにやつくだけだった。よく見ると動物や植物のセピアもいるのだが、人間が圧倒的で、地球製ではないものは俺には見えない。
野原には広場の小道をたどれば普通に行けるのだけど、野原から広場に行くことはできない。どういうふうに行けないのか試したら、延々と斜面が続いて、本当に戻れなかった。ちょっとホラーだなと内心つぶやいて、あきらめた俺はブレスレットの金砂で扉を開いて水面広場に帰った。
ルウは扉や羽で好きな場所に飛べるようだが、俺が扉で広場に帰ると、弾き出される場所は必ず純白の塔にある扉だ。この扉はこちらから開けることはできなくて、外から戻ってきて振り返る前にばたんと閉まってしまうから、中を見たことがなくて不気味でもある。
広場にいるだけでもじゅうぶんくつろげる。橋や花壇は風変わりな美術館のようだし、犬や猫が現れればまず飽きない。池の水を飲んでさわやかな甘味に驚いたり、展望台みたいなところから広場を俯瞰したり。
めいっぱい自然で気分転換して、「ここも悪くないじゃん」と得意のお気楽な順応を持てるようになってきた頃、俺はやっと塔に登った。
塔を渦巻く坂道を登って屋上に行った。何回か塔の周りをまわり、ときおりトンネルを抜けたりしながら屋上に到着する。思ったより広くないそこの中央には、確かに白い飛沫を上げる典型的な円形噴水があり、いろんな色の光が遊んでいた。
これだけいれば見える奴もいるか、ときょろきょろとしてみたが、やはり人間は見えない。それは、俺はちょっと変わった奴だと言われていたが、ここまで変わった奴だったとは。へこんでしまうではないか。
塔を囲う手すりの向こうには青い水平線が見えた。「すげえ」と360度見渡そうとしたら、背後にあった景色は緑の地平線だった。「え」と正面を見なおすとやはり海で、でも振り返ると草原で──深く考えるな、とここに来て得た教訓を繰り返すと、塔と同じ白い縁取りの噴水に歩み寄る。
下の長椅子の純白は柔らかくても、塔は石のようにひやりと固い。噴水もそうだった。水源のような瑞々しく澄み切った匂いが、馥郁としている。
俺は波紋が泳ぐ水面で久しぶりに自分を見た。変わっていない。軽く脱色した焦げ茶の髪も、筋肉でごつくはなくてもしっかりした骨格も、犬みたいで親しみやすいと言われた瞳も。髭も生えていなくて、本当にあのときのままだ。
俺は縁取りに腰を下ろすと、ルウに教わっていた通り、手をかざして揺らめく水面に金砂の煌めきをこぼした。
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