PASTEL ZONE-6

遺した人々【1】

 子供の頃はもっと一日が長くて、年を重ねるにつれ、時間が早くなった。その感覚で、ここに来てもう何週間も経ったものだと思っていたが、下界時間では一週間しか経っていなかった。この世界でのびのびしていた心身が、幼い頃の緩やかな感覚をよみがえらせたのだろうか。
 俺は葬式に参列したことがない。よって。人が死んだ慌ただしさをよく知らないのだけど、とりあえず対客的なことは落ち着いているみたいだった。
 下界は夜だった。俺が真っ先に覗いたのはかあさんで、仕事に出ず部屋にいた。それは忌引きという奴なのだろうが、酒を飲んでいるのはいただけない。「何やってんだよ」と天から息子が言っても虚しく、最後に出勤を見送ったときよりぐんと老けたざまで、グラスに焼酎をそそいでストレートであおっている。
 部屋には誰もいない。せめて男がいればいいのに、確か今はいなかったはずだ。座卓に伏せって喪服のまま酒を浴びるかあさんは、孤独を体現していた。酒につぶれたかあさんの行動は、俺が一番知っている。仕事だって何だって、かあさんがいろんなことにやりがいを感じていたのは、俺のたしになるからだった。その俺を失ったかあさんが、酒に無尽蔵な勇気を借りてすることといえば──
「ああ!」と俺は頭を抱えて叫んだ。ワンパターンな主人公の映画を見ているみたいだ。先が読めて、こちらのほうが焦れったい。「やべえよ」とつぶやきながら再び金砂をかざすと、視覚が遮断されて、幻覚効果で見たい光景が視界を占める。
 広くない部屋は散らかって、留守電もケータイも伝言が溜まっているのかLEDが赤く点滅している。おぼつかない手がグラスをたぐりよせる。
 かあさんは取り残されてしまったのだ。男に裏切られ、親に見捨てられ、息子に先立たれ──ありえない崖っぷちだな、と息子ながら蒼ざめて、その一升瓶を取りあげられない歯がゆさに駆られていたときだった。
「水に触ってみな」
 顔を上げた。ルウが腕組みをして俺を見下ろしていた。俺は金の粒子がしたたる水面に触れる。
《あのバカ野郎!》
 突然指から神経を貫いて耳に届いた音声に、びくりと手を引き上げた。冷えた銀の雫が指先について跳ねて水面に散らばる。ルウはげらげらと笑って、「触ると心の声が聞こえるんだよ」と言う。
「それなら、こういうの先に言えよ」
 俺は手首からこめかみにかけて痺れた腕をさすりながら言う。
「怒鳴ってなきゃそんなに刺激はないんだ」
「今、バカ野郎って聞こえたぜ」
「お前のことだろ」
「………、嬉しくない言葉なんですけど」
「まあ聞けよ」
 本気で電流が抜けたようにじんじんする腕を労わり、俺は水面に金砂をかざす。水面に金色が届くと、じかに眼球に視覚効果が流れ、外界は閉ざされる。
 かあさんは、はしたなく酔いつぶれている。子供の頃が思い返った。俺がまだ無力すぎた頃、かあさんはしょっちゅうああして壊れていた。俺が成長して受け止められるようになって、初めて頼ってくれるようになった。
 悔しかった。やっとかあさんの支えになれるまでになったのに、こんなことで逆戻りなのか。
 ルウが隣に腰かける。俺はこわごわと水面に指先を浸した。
《何やってるのよ!》
 聴き慣れた声が、直接に神経に流しこまれる。
《どうしてぼさっとやられちゃうのよ! 喧嘩みたいにやりかえしなさいよ、それであんたがあのイカれたガキを殺したって、あたしはいくらでも味方したわ。あんたがやられたんじゃ、あたし何もできないじゃない。あんなクソ一家にやつあたりするぐらいしか……》
 唾を飲みこんだ。それはざらざらした喉に引っかかって、痛みが走った。
《何でなの。どうして稜久なの。何であたしの息子が、被害者面した気違いの犠牲にならなくちゃいけないの! 稜久があのガキに何の関係があるっていうの。イジメられてたからって何なのよ。あのバカな親、自分の息子が殺されたならそう言われても許せないくせに。あんなガキ、自殺すればよかったのよ。そしたら稜久は、今もここに──》
 思わず手を引いた。たまらなかった。胸が苦く乾燥して、壁を殴りつけたくなった。視界がすりかわり、言い知れない重さにうつむく。
 物音で隣を見るとルウが立て膝をしていた。
「すげえな」
「……何が」
「愛されすぎ」
「………。かあさんの言う通りだ。何で俺、やり返さなかったんだろう」
「振り返るのが五秒遅かったんだ」
「……ふん」
 ルウは噴水をかえりみて、黒髪を艶やかに揺らす。
「品のある感情じゃねえな」
「るさい。分かるよ、すげえ分かる。俺もかあさんと同じ気持ちだよ。そう思ってることだけでも伝わればいいのに」
「無理だね。──お、ちょっと見ろよ」
「何」
「母親。誰か来たぜ」
 少々滅入った動きで水面に金色をしたたらせた。透いた煌めきが瞳を通過し、瞳孔に下界が映る。
「あ」と俺も声をもらした。日秀だ。
『お邪魔でしたか』
『……いいの。上がって。ごめんね、お酒臭いけど』
 日秀は何も言わず、ただ痛く微笑む。
 日秀は典型的な優等生的美形だ。黒髪の短髪、切れ長の穏やかな目、筋肉質とは言えない細身──ただ、アイテムが眼鏡でなくコンタクトレンズだ。
 肩にかかるでかい旅行かばんと共に、窮屈そうに日秀は部屋に入る。
『何か飲む?』
『いえ、ゆっくりしてられないんで。俺、このまま向こうに帰ります』
『……そう。そうね。ごめんなさいね、本当に。急の呼び出しがこんなことで』
『いえ……。夏休みになったら、また来ようと思うんです。何か──いろいろ』
 かあさんはくせっ毛の波打った髪を払って、座卓のかたわらに座りながら乾いた笑いを零した。
『あたしが心配?』
 突っ立っている日秀はしばらく言いよどんだが、『まあ』と曖昧に答える。かあさんにうながされて、日秀はその正面に腰と荷物をおろした。その視線が、一升瓶とグラスをかすめる。
『変なこと、考えないでくださいね』
『………、それ以外、何したらいいか分からないわ。あの子もバカね、何を簡単にやられてるのかしら。あたしの恋人を半殺しにしたこともあるくせに』
『……稜久に聞いたことあります。それで、玲美子れみこさんに引っぱたかれたって』
『うん。あたしがバカだったの。ひどい男だったのに、捨てられたくなかった。あの子に甘えてたわ。ないがしろにしてばかりだった』
『稜久は玲美子さんの気持ち、けっこう分かってましたよ』
 かあさんは哀しく微笑し、くしゃくしゃになっていた煙草を取って、日秀に断ってから火をつける。
『稜久は、玲美子さんが壊れることは望んでないと思います』
『……そうね』
 かあさんは隈が染みついた目を陰らせながら、曇った煙を吐き出す。いつも「煙いんだよ」と文句をつけてはあしらわれていた、あの匂いが思い返る。
『樹里ちゃんにも近いこと言ったら、突っぱねられました。あんたに言われたくないって』
『樹里ちゃんね。あの子、心配ね』
『気にしてないんですね。いや、その……稜久はたぶん、樹里ちゃんに会いにいこうとして』
『ふふ、樹里ちゃんは関係ないわよ。元はといえば、稜久をいつもここにひとりきりにさせてたあたしが悪いの。土日も同伴ばっかりでほったらかし。樹里ちゃんには、本当に、「気にしないで」って言っておいたけど、どうかしらね。誰かいてあげたほうがいいわ』
『俺もそう思うんで。こっち来ようかって』
『そうね。よければここに泊まってちょうだい。稜久の部屋に』
『いいんですか』
『日秀くんなら稜久もきっと構わないわよ。あ、だけど、今年受験生よね。大丈夫なの』
『それは大丈夫です。安全圏って言われてるんで。もちろん勉強道具は持ってきますけど』
 かあさんはうなずいて、引き寄せた灰皿に灰を落とした。その匂いも思い出せるが、実際伝わってくるのは映画のように視聴効果のみだ。感触や味はともかく、匂いが遮断されていることが、絶対的にあちらとこちらを隔てている。
 日秀とかあさんはかぼそくぎこちなく想い出話を交換し、日秀が腕時計を覗いたところで、その張りつめた沈殿はおひらきになった。
『すみません、慌ただしくて』
『いいのよ。来てくれてありがとう』
『今度はゆっくりお話させてください。俺も、稜久にはたくさん支えられてきました』
『………、ありがとう。あの子を生んだ母親としては嬉しいわ。ご両親によろしくね』
『はい。じゃあまた』
 日秀は入ってきたときと同じく荷物で窮屈そうに部屋を出た。日秀を送り出したかあさんは、いっとき物思いにふけり、やはり酒に舞い戻った。

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