遺した人々【2】
俺はつらくて、視点を日秀に切り替えた。日秀は喧騒の夜道を黙々と歩いている。
俺は水面に触れた。
《樹里ちゃんにも挨拶していったほうがいいのかな。でもあの子、何か俺のこと嫌ってるし》
気づいていたのか。体裁上では樹里は日秀に愛想咲いはしていたのだが。
《まあ、挨拶だけでもいくか。いるか分からないし》
どういう意味だ。俺は手を引いてルウを見る。そういえば、なぜか手は濡れていない。
「樹里の奴、やっぱ戻ってんの」
「どうでしょうね」
「あのバカ! んなことやったって意味ねえって、あのときさんざん言い聞かせたのに」
「樹里ちゃんにはそんな事実より、執念深く想われてる実感のが重要だったんだろ」
「………、何で俺、死んだのかな」
「金属バットで殴られたから」
「俺は死んでる場合じゃなかったんだ」
「死んだもんはしょうがねえだろ」
「はあ!? それが天使の言葉か」
ルウは鼻で俺をあしらうと、機嫌悪そうに羽の風に消えた。あいつは、かあさんの恋人を半殺しにした俺より短気だ。
そういうことはあった。俺は十五で中坊だった。その男はとにかくかあさんに暴力を振るった。かあさんが暴力に怯えながらも、男を愛しているのは分かっていたので、俺も短気なりに耐えていた。だが奴の浮気を知ってついに切れた。
男をかばったかあさんとも喧嘩して、俺は二週間、日秀の家に世話になって帰らなかった。俺から折れて帰ると化粧をするかあさんがいて、かあさんはアイラインを引きながら「別れたわ」と言った。
そんなことをぼんやり回想してから水面に金砂を落とすと、ちょうど日秀が樹里の家のドアフォンを鳴らしていた。
応答はインターホンだった。『はい』という樹里の声に、日秀は自分の名前を名乗る。何秒か沈黙があって、がちゃっと無愛想にインターホンは切れた。「こら樹里」と俺がここからしかっても、声は届かない。面食らった日秀は、参ったように息をついて重そうなベルトを肩にかけなおした。
一度家を仰ぎ、樹里が出てくる気配がないのを確かめると、仕方なさそうに歩き出す。俺という義理がなくなった樹里は、日秀にも敵意を隠さないことにしたらしい。「短絡者め」と俺はつぶやく。
住宅街を抜けて駅前に出た日秀は、特急電車に乗って自分の町に帰った。いつも俺を暖かく迎えてくれた日秀の家族を想い、面倒かけたばっかだったな、と唇を噛む。まったく、俺はいろんな人に中途半端なまま死んでしまった。
いったん手を引いて深呼吸する。さて、こいつが一番心配なのだ。心配すぎて見るのが怖いのだが、やっぱり放っておけない。水飛沫が香ばしい空気で肺をなだめると、俺はいよいよ樹里の視点に入った。
彼女は思いつめた顔で、リビングのベージュのソファに座っていた。水面に触れても音声は来ない。ただ、彼女の心象が俺の心に映写された。
挑発的なワンピースを着た樹里が、鏡の前で化粧している。そばにはホコリをかぶったセーラー服がかかっている。黒いベロア生地で、襟元や裾がひかえめに金糸で縁どられている──その服には見憶えがあった。身なりを整えた樹里は革のコートを着て、エナメルのリュックを取ると家を出た。
駅前に出たところで──そう、このとき見たのだ。彼女はコンビニのふくろを提げた俺に鉢合わせた。俺のすがたに樹里は刹那怯み、その刹那に俺は背伸びしすぎの樹里の格好に噴き出した。
──な、何だよ。
──お前こそ、その格好何だよ。似合わねーっ。
──うるせえな、どけよっ。
──どこ行くの。
──関係ねえだろ。
──すごい言葉遣いだな。俺よりすごいじゃん。
──お前、鬱陶しいんだよ。あたしにつきまとうな。
──片親になったぐらいで、そこまで捻くれんなよなあ。ださいよ。
樹里は俺を押しのけて、人混みに紛れこんだ。そのとき俺は「しょうがねえな」とひとりごちて部屋に帰った。
このあと樹里がどこに行ったかはあとで知った。樹里はお小遣いをくれるおじさんに会いにいったのだ。
それからの俺に落とされるまでの半年近くを、樹里はぼんやり追想した。俺は、保護者ぶって道徳的に樹里を説得したわけではない。そんなふうに、似合わない上に報われないことをやる樹里を笑っていただけだ。
──何でこんなにあたしに構うんだよ。ほっとけばいいだろ。
──俺は似合わないものを似合わないって言ってるだけだけどな。
──お節介野郎。
──まったくです。
──………、どっか行けよ。あたしは親にだって見捨てられてるんだ。
──見捨てたくなるよなあ、今のお前なら。
──なら、お前も見捨てろよ。
──無理だよ。俺はお前の親と違って、お前が好きだもん。
樹里は気張ろうとした。けれど、ついに泣き出してしまった。俺もそのときはへらへらせず、まじめに腕に受け止めた。
そうして、樹里は俺には心を許すようになった。不格好も不毛もやめた。「何で俺に処女取っとかなかったの」と揶揄うと気まずく口ごもる。
あのときの“好き”は恋愛というより、幼なじみや友達としての“好き”だった。つきあいはじめて女の子として愛するようになった。口ごもられたときも、かわいくて抱きしめて、そのまま押し倒してしまった。
樹里は自虐的な回想を打ち切り、うつむいて唇を噛んだ。水面を通し、俺は彼女の心を体感している。圧倒的な闇が、はちききれそうに混沌とふくれあがっている。これが樹里の俺への想いなのか。愛情、絶望、孤独、喪失、不安、自責、後悔──取り返しのつかないさまざまな傷口が錯綜し、樹里の心を痛めつけている。
樹里は俺が死んだことを想う。“死”というものを一瞬理解できず、ゆっくり噛み砕いてみる。俺が死んだということは、つまり、俺に二度と会えないということだ。言葉をかけられることもない。抱きしめられることもない。触れることも見ることさえできない。
俺は停止した。俺から何か紡がれることはない。俺は終わった。古びていく。もういない。名前をささやかれて、髪を撫でてもらうことはない。その軆にもたれて、心を口づけで癒されることもない。世界中どこを探しても、絶対に俺は見つからないのだ。
入り乱れていた感情が、突然強烈な“恐怖”に収束する。
《もうあたしは、ひとりぼっちなんだ。稜久がいなくなったら、あたしに誰がいるの。稜久よりあたしを想ってくれる人なんかいない。あたしはここにいるのに、稜久はいなくなっちゃったんだ!》
喉に走った、えぐれるようなひりつきに思わず手を引いた。しばらく動けなかった。猛烈な罪悪感が襲ってくる。
やばい。やばいではないか。冗談抜きで俺は死んでいる場合ではなかった。どうしよう。あのままでは樹里はかあさんより何をするか知れない。何もできないのが歯がゆい。まだ俺はここにいる。いなくなっていない。きちんと見守っている。何で伝わらないんだよ、と硬い床にやつあたりで蹴りを入れてしまう。
これ以上、絶望の連発を見ていられなかった俺は、よろよろと塔を降りた。水の床を敷いた花壇の長椅子にぐったりしていると、「よお」と何気なくルウが現れる。
「もう飽きたのか」
「……耐えられん」
「喜べよ。お前、かなり幸せだぜ。死んだ途端、歓迎パーティ開かれる奴もいる」
「………、俺ひとりの感情で片づかないよ」
「偽善者だねえ」
ルウは俺のまくらもとに腰かけ、花壇に頬杖をつく。そして「自分の死はリアルになっただろ」と俺を見下ろす。
「え。まあ──いや、そんなこと考えてる余裕は」
「のんきだな。自分のことまず考えろよ」
「自分が死んだのは分かってるよ。日秀は大丈夫そうだな。かあさん、も。樹里がなあ。やばいよ」
「死んだんだし、気にすんなよ」
「そんな簡単にいくか」
ルウは鼻で笑い、「お前にはどうしようもないよ」と寄ってきた淡い光を指先にまとわせる。その光もルウの担当なのだろう。
どうしようもない。悔しくても真実だ。
俺は半眼になって、柔らかな大理石に沈み、目に染みそうな青空を眺める。いろんな花の香りが、けして雑多ではなくしっとり絡みあい、その香気を風に乗せている。
「そういうのも受け入れていけよな」とルウは言う。
「自分に生前の力があると錯覚するな。そうやって見切りをつけて、死後の世界に切り離されたことを受け入れるんだ。お前とあいつらは住む世界が違うんだよ。命を救えるのは命だ。お前は命あるものには無力で、むしろ枷で、あいつらはお前を切断することで救われる。お前がいなくなった新しい世界で癒されるんだよ。お前にすがりつくほど、あいつらは痛みを深める」
「………、」
「つらいけどな」
ルウは指先から光を放した。光は光に紛れ、一瞬にして見分けがつかなくなる。
「ほんとに強いつながりなら、永遠ってわけじゃないよ。あいつらがこっちに来たとき、また会えるさ」
「……うん」
「もともとは、こっちとあっち、かけはなれてても交信できたんだぜ」
「えっ」
「こっちがどんな細工しても無理だよ。あっちがある行動をしないと」
「………、お祈り?」
ルウは喉で笑って立ち上がると、「交信もできない絆なら、再会はあきらめとくんだな」と転移の扉を開いて消えた。俺はしばらく、ルウが消えた空間を見ている。
交信。虚脱して長椅子に横たわりなおすと、期待しないほうがいいんだろうな、と息をついた。
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