PASTEL ZONE-8

最後まで

 ときどき、塔に登って気になる人の様子を見守るようになった。殺した奴も気になるが、怨霊にはなりたくないのでやめておいた。怨霊になって喰い殺せるならけっこうでも、ルウ曰く、そんなことをすれば地獄行きだそうだ。
「お前らの想像してる地獄は生易しいよ。本物の地獄は出来合いじゃない。悪夢に柔軟だ。そいつが苦しむことを、あつらえて絶え間なく与えてくる」
「オーダーメイドですか」
「そう。虐待されてたら虐待してきた奴の幻影につきまとわれるし、食べることが幸福なら飢餓に叩きこまれる。苦痛が快感なら吐きそうな幸福に満たされる。お前なら樹里ちゃんが援交でエイズになるとかだな」
「怖いですよ」
「あとは、いきなり父親が親面してくるとか──」
「怖っ」
「恐怖は誰にでもある断末魔なんだ。地獄はそこを踏みにじる」
 そんなわけで、俺は地獄には行きたくなかった。わざわざそいつを見に行き、憎しみを覚えるなんてしないに越したことはない。
 夏休みに突入した。引きこもりの樹里は暗惨たる状態だが、かあさんは外面だけでも繕う気が出てきた。
 水商売の世界は、競争心まみれで信頼なんかくそくらえだ。ぼやぼやしていたら、後輩に出し抜かれる。そんな厳しい世界であるために、一度信頼が芽生えると手堅さもある。かあさんは店をたたみ、かわいがる妹分たちの未来までたたむわけにはいかなかった。かあさんに懐く人たちは、俺とも親しい人が多かった。みんなそれぞれにショックを受け、かあさんをさりげなく励ましている。
 ここから何もできない俺は、妹分がいればかあさんは大丈夫だと信じ、彼女たちにかあさんを託すことにした。手を合わせて拝んでいたりしたら、両親の承諾を得た日秀が俺の部屋に泊まりはじめた。
 日秀と俺の想い出を共有して、かあさんは思ったより早く気丈でいられるようになった。内心は乱れていても、人に醜態をさらすことはやめた。日秀もひとりになったり俺の遺品を眺めたりすると、心に暗雲を落とすものの、傍迷惑な鬱は見せなかった。
 問題は樹里だった。引きこもりだし、日秀にも父親にも牙を剥くし、そのわりにひとりになると俺を想って泣いている。自殺や売りが頻繁に頭をよぎる。「やめなさい」と叫んでも彼女には伝わらない。
 どうしても交信できないのかとルウにつめよったら、「人間には無理だね」と天使は鼻であしらった。まったく、こうしてなりゆきを見守るのが神の仕事だとしたら、大変な度量の仕事だ。歯がゆさの絶頂で、俺ならとっとと切れて、すべての人間の意思を束縛している。
 じゅうぶん地獄を味わった気分で、死んだことを後悔していると、日秀に樹里のざまを聞いたかあさんが彼女を訪問した。
 夕暮れどきで、蝉の合唱がかすれはじめていた。日秀は容赦なく締め出していた樹里も、かあさんなら家に招き入れた。家には樹里ひとりで、彼女はかあさんをリビングに通した。
 二週間前には喪服でつぶれていたかあさんは、夜の美人に戻っている。怜悧な目はアイラインで縁取り、わずかにこけた頬はチークでごまかし、甘い言葉も汚い雑言も操る唇には深紅を引いている。鼻筋や頬の線の切れ味が俺と似ている。胸元や耳たぶ、指先は宝石で彩り、ほつれていた髪もといている。樹里に出された麦茶も、「ありがとう」と上品に受け取った。
 樹里はかあさんが腰かけたソファの垂直に置かれるソファに腰かける。冷房の風音が流れる沈黙を「日秀くんに話を聞いて」とかあさんがおっとりと破った。
『え、……ああ、あの人、また来たんですね』
『夏休みはこっちにいてくれるそうよ』
『………、あたしに構うなって言っておいてくれませんか』
『心配なのよ』
『あの人に心配されたって。……稜久じゃないと』
 樹里はそっぽを向き、ほっそりした顎に並ぶ長さの黒髪を頬に落とす。樹里は人前では、そのきつい印象の顔を壊さない。釣った眉に、虐待された動物のようなかたくなな瞳、つんとした口元は、不細工ではなくても近よりがたい。俺の前でだけ、それらをほどいて甘えてくれた。全体的にすらりとしていて、特に脚が長くて綺麗だ。
「ずっと稜久を思って暮らすの?」とかあさんは麦茶に口をつける。
『玲美子さんもそうなんじゃないですか』
『そうね。あたしにはあの子は息子で、血ってものでかけがえがなかったわ。樹里ちゃんは違うでしょう』
『あたしにも稜久はかけがえなかったです』
『精神的にね。あの子をずっと忘れないでいてほしいわ。でも、想っていてはダメ』
『何でですか』
『あの子は死んだのよ。どんなに想っていても、何も返しやしないわ』
『それでもいいんです』
『樹里ちゃんには、遺された者として次に進む権利があるの』
『いりません、そんなの。稜久じゃないと意味がないんです。稜久があたしにどれだけ必要だったか、そんなの誰にも分からないんです』
 かあさんは樹里を引っぱたくのではないかと思った。俺がそんなことを言えば、かあさんは間違いなく引っぱたいていた。だが、かあさんは樹里をたたかなかった。他人の子と見切ったのでなく、もっと深いものを確認する目になる。
『ずっとひとりでいいの』
『はい』
『あの子に身を捧げるのね』
『はい』
『だったら、最後まで生きなきゃダメよ。自殺したり堕落したりしたら、稜久を裏切ることになるわ』
 樹里はかあさんを見た。かあさんは俺をまじめにしかるときの顔をしている。ちなみに、かあさんは樹里の幼少期を知っていて、たまに俺たちの部屋に泊めたりしていた。
『稜久に少し聞いてるわ。詳しくはないけど』
『………、稜久が助けてくれたんです』
『みたいね』
『あんなことになったって、父親はあたしに見向きもしなくて。稜久が初めてあたしを見て、「やめろよ」って言ってくれたんです』
『あたしも言っておくわ。やめておきなさい。綺麗事の世界じゃないわ。男が女から買うものは穢すことなのよ』
『………』
『今はこうだけど、そういう仕事もしたわ。でも男が求めたものは愛じゃなくて、処女を演じるためのケチャップだった』
 樹里はかあさんをちらりとして、かあさんは悪戯っぽく微笑む。
『あの子を想うためにそういう世界に堕ちたり、自分で自分を傷つけたりしたら、あたしより稜久が黙ってないわよ』
 空の上にて、俺はうなずく。樹里もその意見には逆らえないのか、『はい』とかぼそく言った。『そんなに想われてるあいつは幸せね』とかあさんは微笑し、樹里はあやふやに咲う。
 俺の話を交わしたあと、俺の死に振りまわされないことをもう一度諭し、『仕事があるから』とかあさんは席を立った。見送った樹里はため息をついて玄関の鍵を閉め、俺は水面に触れてみる。
《稜久の母親だよな。いいな。あたしの母親なんて……》
 樹里は吹っ切る息を吐き、かあさんに出した麦茶のコップを片づけはじめた。樹里の母親は離婚以後、彼女と音信不通だ。「再婚でもしていそがしいんだろ」といつだか樹里は吐き捨てていた。
 樹里がどちらを選ぶか、俺は知りたかった。生きる権利として癒されるか、俺を想うために苦しむか。しかし、樹里は内心でもそれに触れず、現実を無視した思索を続けた。俺への想いは一定にあるので、苦しむのだろうか。俺の私情はそちらのほうが救われる。樹里に忘れられるなんてぞっとするし、彼女がほかの男に身を任せるのも嫌だ。
 だが、俺は死んだ。その前提で彼女を想うなら、感情は殺して、彼女に治癒を勧めるべきなのだろう。いずれにせよ、俺の声は樹里に届かないけれど──心が揺蕩うと、現金にも、本心を決定するために口を割らなくてはならない責任がないことにほっとする。
 樹里に振られてばかりの日秀は、かあさんにも頼まれ、俺の部屋を片づけはじめていた。つくえやベッドはそのまま、服や本を取っておくものと処分するものによりわける。本について、取っておくのは真っ当な本で、捨てるのは教科書や男子のいかがわしい雑誌だ。最後と明らかに縁遠い硬派な日秀は、見つけたとき頬を引き攣らせていた。「俺だって男なんだ、悪いか」と俺は天上でひとり言い訳し、羞恥にのたうち、最後には、こんなことなら見たら捨てておくんだったと泣きながら後悔した。
 俺は写真をアルバムなんてものに品よく並べていなくて、棚の引き出しにそのまま放りこんでいる。それを見つけた日秀は、アルバムを何冊か買ってきて、十八年分の想い出を一枚ずつ並べる作業にかかった。CDは聴いてみて、かあさんに許可を得ていくつかもらったりする。

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