PASTEL ZONE-9

それぞれの暗夜

 そして日秀は、いつか見つけるだろ、と俺が踏んでいたものをつくえの引き出しに見つけた。封筒に入ったライヴチケット二枚だ。八月末の樹里の誕生日付近、俺はそれに彼女を誘おうと思っていた。『樹里へ』なんてメモはわざわざなくても、日秀はそれが俺の樹里への贈りものだとは察したのか、翌日、片づけを中断して樹里の家に向かった。
 真夏の陽射しと蝉の声の中、何度もインターホンを切られるのを経験している日秀は、しばしチャイムの前で躊躇った。郵便受け封筒を投げこんでいくだけにしようかとも思ったが、心を決めてチャイムを鳴らす。
 が、今日はインターホンの応答もない。俺も気になって樹里に目を移そうとしたら、いきなり玄関のドアが開いた。
『あ……』
 声をもらした日秀を、芝生の庭越しに睨みつけたのは樹里だった。かなり厳しい眼で、色合いは怒りを通りこして憎悪じみている。
『あんた、あたしの何様のつもりなんだよ。しつこいんだよっ』
『あ、いや──今日は用事が』
『あたしはあんたに用事なんかない。帰って、もう来ないでっ』
『稜久のことで』
『あんたと稜久の話はしたくない』
『稜久が君にプレゼントしようとしてたみたいなものが見つかって』
 樹里はタンクトップの腕をこまねく。日秀は焦った仕草でポケットにさしこんできた封筒を取りだし、門の上にかざす。
『サイコミミック、ってバンドのチケットで、二枚入ってて』
 樹里は不審をたっぷり目に溜めたあと、腕をほどき、ゆっくり階段をおりる。庭を横切って門越しに日秀と向かい合うと、さしだされた封筒をもぎとるように受け取った。中を覗いて、本当にチケットが入っているのを確認すると、一瞬かすかに瞳を弱める。
『………、よくあたし宛てって分かったね』
『夏休み、君と出かけたい日があるって聞いてたから』
 言ってたのか、俺が。
『……そう』
『君に渡したほうがいいと思って』
『まだこのライヴ終わってない。嫌がらせじゃん。誰と行けっていうの』
『……いらない?』
『あんたが彼女と行けば。使われるほうが、稜久も浮かばれるだろ』
 日秀に女はいないはずだが。
『稜久は君に受け取ってほしいと思う』
 樹里は日秀を見て、視覚はその先の空に飛ばし、刹那的に回想する。もともと、サイコミミックを樹里に教えたのは俺だ。俺が好きならと樹里も好きになった。そんなわけで、俺はこの人気バンドのチケットを何とか手にいれた。
 樹里はチケットに目を落とし、手の中に収めると、敵愾心の鋭い眼に戻って日秀を睨む。
『用はこれだけ?』
『あ、まあ』
『じゃあ、二度と来ないでね』
『あ、あの──俺のこと、そんなに嫌い?』
『稜久以外、人なんてみんな嫌い』
『ずっとそうやって強がってるつもり?』
『あんたには関係ないだろ』
『稜久がいなくなったつらさなら、俺、すごく分かるし』
『分かって何?』
『………、俺、君の敵ではないよ。ほんとに──俺だって、稜久のおかげなんだ』
 樹里は強い陽射しを介して日秀を眺め、『稜久をだしにあたしに何かする気?』と腕に止まろうとした蚊をはらう。
『そういうのじゃなくて、』
『あんたなんか、稜久の存在感に敵わない。あんただって稜久が大切だったなら、自分が稜久に較べてどれだけちっぽけか、分かるでしょ』
『………、』
『あたしに構わないで。あたしに構うヒマがあったら、自分でもなぐさめてたら』
 樹里は突慳貪にきびすを返し、家に戻っていった。それを見届けた日秀は息をつき、俺は水面に触れる。
《すごい子だな。それだけ稜久を想ってるってことだろうけど》
 いい奴だな、君は。俺なら首を絞めている。ムカつくと言ってさしつかえない捻くれ具合だ。俺が死んだせいなんだよなあ、と思うと、また責任重大でへこむ。
《あの子、あのままどんな人間も稜久と較べて切り捨てていくのかな。俺が稜久に及ばないのは確かだけど、やっぱ危ないよな》
 同感だ。いや、俺は日秀は日秀で価値のある奴だと思うが、比較に関しては同じ不安がある。俺としては忘れられたくないが、生きていく上で死人にすがりついているのは、やはりよくない。
 俺の死を受け入れ、自分の生を受け入れ、遊離したことを受け入れて新しい世界に踏みこまないと、樹里はああして小癪なままなのだろう。
 あいつ俺みたいに器用じゃねえしなあ、と噴水の縁に頬杖をついていると、気分を切り替えた日秀も帰路に着いた。
 それからも、日秀は受験勉強のかたわらに俺の部屋を片づけ、かあさんは生きがいを仕事にしようと努力し、樹里はつくえに頬杖をついてチケットを眺めたりベッドに横たわって思考に死んだりしている。
 俺を殺した奴はどうだか知らないが、まあ、少年院に入って数年後に出てくるのだろう。そいつのことは気にしない。考えれば考えるほど、怨霊化しそうだ。俺を殺したのは絶対に許せなくても、怨みはそこに留めておく。そいつがこれから生きて、自己満足の悲劇を上演することは、気にかけるだけ俺が地獄に堕ちる。これ以上、俺はそいつのせいで自分を貶めたくなかった。
 かあさんは俺が死んだ直後よりずいぶん気丈になったし、日秀も冷静でいられている。俺が見守るのは、樹里が主になっていた。
「いまどき、希少価値だよな」
 俺の隣にヒマつぶしのようにやってきたルウは、雫のペンダントをいじりながら言う。
「人間なんて死んだらすぐ忘れられるのに」
「俺、変わってるって言われてたもん」
「っとにな。ま、いい方向にだろ。お前はわりと点数いいと思うよ」
「点数」
「命あるあいだってのは抜き打ちテストみたいなもんだ。死後が結果発表。だいたい人間は赤点で、永遠を脱落」
「永遠ってのもつらくなりませんかね」
 俺は水の香りが立ちのぼる晴れあがった空を見上げる。
「つらくならないように、実体の魂と方向性の精神が調和するまで、追試で転生を繰り返すんだ」
「どうしても調和しなかったら見切ってつぶすってある?」
「ないね。こっちはいつだってお前たちを尊重してる。潰すのはそっちが自殺で試験を投げ出したときだ。白紙でも不正解でも、とりあえず受けたら悪いようにはしない。合格したい意思があるなら、いつまでもつきあうよ」
「死んだあとにこんなのがあるって分かってたら、もっといいことしてたのに」
「カンニングじゃねえか」
「あ、そっか」
 あっさり納得する俺にルウは笑い、「知ってる奴もいるよ」と言う。
「マジ」
「言っただろ、自然とつながってれば俺たちの声も聞こえるって。人間は自然をつぶして、閉鎖的なんで頭が悪いんだ。ま、知ってて合格したさに偽善やったって、そのくらいこっちは見破るし。人間って生きるっていう基本忘れて、いろいろしたがるだろ。それがこっちから見るとみっともない」
「俺はけっこうシンプルに生きてきたと思うんですけど」
「うん。だからお前は、いなくなったのを惜しまれるんだろうな」
 ルウは噴水を見下ろし、俺は水面に金砂をかざす。樹里は今日もベッドでぐったりしている。今は夏休みなのであれでいいのだろうが、学校が始まってどうするかが明暗だ。
 ルウはちょっと神経質に雫のペンダントに触れている。
「気になるならはずせよ」
「ふざけんな。外したら時間に犯されるだろ」
「それファッション?」
「何でしょうね。きらきらしてる?」
「してるよ」
「濁ってない?」
「青くて水が流れてる。何で」
「気分悪くてさ。こういうときって、これが泥水みたいになってほどけそうになるんだ」
 俺はルウの首元のペンダントを覗きこむ。何も影はない。雫の中で透いた青い光がせせらいでいる。「変わんないよ」と言うと、「そっか」とルウは少し疲れたまぶたで息をつく。
「天使でも気分悪くなったりするんだな」
「お前らが緑を守って水を透き通らせてたら、ヤク打つより気分いいんだぜ」
「下品な喩え」
 ルウはそっぽを向いたあと、天を向いて「もうじき夜だな」とつぶやいた。
「ここ、夜ないだろ」
「あるよ。あの光が閉じるんだ。メンテナンスで」
「メンテですか」
「頻度はお前の世界で言うと月一くらいかな。で、一日じゅう暗い」
「真っ暗になんの」
「ここにいれば他人の魂が明るいよ」
 なるほど、と俺は周囲をうろつく淡い光を見渡す。「夜になる前は気分が悪いんだ」とルウは立ち上がって転移の扉をひらく。
「怖くて?」
「そうだね。食いつぶされそうで」
 あしらった笑みをよこしたルウは緑の透明色の扉に消える。肩をすくめた俺は、その日も情緒不安定な樹里を見守るのに徹した。

第十章へ

error: