ポラリス-2

気がふれて

 百六十もない私より、ずっと背が高い。いくつぐらいだろう。二十代半ばくらいかな。三十にはなっていないと思う。綺麗な顔立ちなのに、無表情だからマネキンみたいで不気味に見えた。
「……あの、」
 私が言いかけると、男の人は暗いホームを歩き出した。手をつないでいる私は、否応なくそれについていく。改札が近づくと、屋根があって電気が明るい。まぶしいな、と顔を背けながら、私も男の人もICカードで改札を抜けた。
 小さな駅は、改札を抜ければすぐに商店街に面していた。もちろん、お店は残らずシャッターが下りている。道には白い電燈だけついていても、静まり返っている。
 家に帰らなくていいのは気が楽だけど、かといって、私はどうするの? まさか、この人についていく? さすがにそれは怖い。本当に、見憶えもない他人だし。何で私を引っ張っていくのかも分からない。
 何なのだろう、この状況。胸騒ぎがこみあげても、手を振りほどくことができない。手はそこまでぎゅっとつかまれているわけではない。嫌がって振りほどくことは、たぶんできる。なのに私は、その人との熱の残る手をはらえなくて、無言でついていった。
 商店街を抜け、しばらく車道沿いを歩いた。ほかに歩行者はいない。車さえほとんど通らない。街燈とすれ違うたび、男の人の短い髪が風に揺れるのが見えた。
 冷えこんでいく軆を緊張させ、生唾を飲みこみ、危ないよな、と次第にとまどってくる。何か言葉をかけてくれたら、この人が何を考えているかも分かるのに。黙って手をつかんで連れていくって、誘拐みたいだ。私はつながった手を見つめて、私なんか誘拐されても誰にも心配されないけど、と思う。
 脇道に入り、すぐ建っていた三階建てのアパートに男の人は入っていった。アパートのどこかの部屋で、子供が泣いている。三階までのぼった階段は暗かったものの、廊下は電気がやけに燦々としていた。307号室のドアを開けた男の人は、私を部屋に入れて鍵を締める。
 男の人はスニーカーを脱ぎ、やっと手を離した。ぱっときびすを返して逃げ出すべきなのだろうけど、私はのろのろと靴を脱いで部屋に上がっていた。
 知らない人の家のにおいがした。ワンルームで広くなく、毛布とふとんがぐちゃぐちゃのベッドが床のほとんどを占めている。隣の部屋の物音が微妙に聞こえる中、「そこ座って」と言われて、私はそろそろとしめされたベッドサイドに腰かけた。
 足元に荷物を置く。男の人はリモコンで暖房をつけ、電気ポットで紙コップにお茶を淹れると私にさしだした。私は男の人を見上げて、「ありがとう」と小さな声で言うと、受け取って冷たい軆に熱いお茶を染み渡らせた。
「何か、あったの?」
 男の人を見た。男の人の目は静かだ。何か、って。あったけど。それを話したら、この人が私を助けてくれるとも思えない。
「……少し。仕事で」
 微妙に目をそらして言うと、男の人は一度まばたきした。
「学生じゃないの?」
「大学は行ってない」
「いくつなの」
「十九歳」
「そうなんだ」
「………、大学くらい、行ってればよかったのかもしれないけど」
 男の人は私を見つめる。
 しばし、沈黙が流れた。お茶をすすっていたけれど、普通に訊いていいのかもしれないと何となく思って、まだこちらを見つめる男の人と瞳を重ねた。
「何で……連れてきたの。私のこと」
 男の人は表情を動かさず、「たまに君をあの終電で見かけてた」と言った。私は眉を寄せる。
「ストーカーなの?」
「そうかもしれない」
 ストーカー。私はぜんぜんこの人をあの終電で見た記憶がない。一方的に見られていたのかと思うと、少し気持ち悪い気もした。
「いつもつらそうにしてたけど、今日は泣いてたから気になった」
「……言われたの」
「言われた」
「しゃべらないし、暗いし、ソープで働いたほうがいいって」
 男の人がかすかに怪訝を浮かべ、ああ、と気がつく。堅気のバイトでそんなことを言われるわけはないか。
「水商売なんだ」
「水商売」
「ホステス」
「似合ってないよ」
「知ってる。向いてないし。ママにさっきのみたいなこと言われて、怒られてばっかり」
「そんな仕事、辞めなよ」
 あっさり言われてむっとして、「簡単に言わないでよ」とつぶやく。男の人は「君がつらいなら辞めたほうがいい」と繰り返した。私は手の中の紙コップの水面を見つめ、「お金が欲しい」と言った。
「お金」
「家を出たいの。両親は私のこと好きじゃない。家にいると息が苦しい。だから、早くたくさんのお金が欲しいの」
「………、」
「役立たずで時給減らされてるけど。ほんとは全部逃げたいよ。家も仕事も逃げたい。でも、そしたら行くところがないの。居場所がない。そのために──」
「ここに来る?」
「はっ?」
「俺のとこに逃げてくる?」
 男の人はなおも私を見つめて、私はその瞳を見返す。何を言っているのだろう。いや、ストーカーの思考なんて私には分からなくても。
「ここにいていいよ」
「何で……」
「君のこと、かわいいって思ってたから」
 目を開いてから、ぱっと顔を伏せる。湯気を失っていく紙コップに口をつける。これは、目の前で淹れてもらったから変な薬は入ってないと思うけど、とか思う。
「……もし──ここに来る、なら」
 おそるおそる仮定を口にすると、「うん」と男の人はうなずく。
「私は、あなたに何かしなきゃいけないの?」
「何かって」
「……触る、とか。触らせるとか」
「しなくていい」
 男の人の声に裏は感じなかったものの、やはり胡散臭かった。何とも答えずに、ぬるくなったお茶をすする。男の人はふと掛け時計を見た。時刻は午前一時をまわっている。
 立ち上がった男の人は、「何か食べるけど、一緒に食べる?」と訊いてきた。私は考え、一応こくんとした。了解した男の人は廊下に出ていき、私は無意識にふうっと小さな息をついた。
 気にならなかった時計の秒針の音が大きくなる。暖房は狭い部屋をすぐに巡って、室内は暖まっている。その中でひとりでぼんやりしていると、何やってんだろ、とようやく自分の非現実な状況に気づいてきた。
 名前も知らない大人の異性の部屋で、愚痴って、優しくされて、変な仮定をして。普通に考えて、この部屋に逃げこむなんてありえない。何をされるか分からない。どうせ始発で家に帰って、土日ぐったりして、月曜日にはしれっと出勤するのだ。
 逃げたいけど、逃げられない。お金も貯まらなくて、だから家も出れなくて、私はしょせん燻っている。
 一方的に見られていたのは気味が悪くても、あの人は心配してくれたのだ。そのことにはお礼を言って、この部屋は出ていって、タクシーでも拾えば家にも帰れてしまう──
 男の人が部屋に戻ってきた。「ん」とお椀と割り箸を差し出されて受け取ると、ふわふわとしたたまごと鶏肉の親子丼だった。湯気からおいしそうな匂いがほかほかと立ちのぼる。
 隣に座った男の人も、同じものを箸ですくって息を吹きかけて食べはじめた。私もお腹が空いていたので、おとなしく息で冷ましながらごはんを口に入れた。汁が染みこんで柔らかい。
「おいしい?」と訊かれるとこくりとした。「食べたいものがあったら作ってあげるから」と言った男の人を見て、私はとまどったものの、「私、ほんとにここにいていいの?」と問う。
「行くところがないなら、俺のとこでもいいと思う」
「私、迷惑だよ」
「俺は君がこの部屋にいてくれたら嬉しい」
「え……」
「君と一緒にいたい」
「……私たち、他人だよ?」
「俺は君のこと見てた」
「でも──」
「家とか仕事で君が泣くくらいなら、俺は君をここで守りたい」
 困惑を浮かべて、男の人を見つめる。私にはこの人は他人だけど。この人には、私はずっと見守ってきた存在なのかもしれない。だとしても……
「君は、ここにもいたくない?」
「……分かんない」
「じゃあ、嫌になるまでここにいたらいいよ。ここにいてもつらくなったときは、引き止めないから」
「何でそんなに優しいの」
「君のことが好きだから」
 目を見開いて、思わず言葉に詰まる。
 好き。好きって。見てただけじゃん。いや、ストーカーだからそんなものなのか。そう、この人はストーカーだよ? 否定しなかったよ? つらくてここを出ていったって、物陰からついてくるんじゃ──
 黙々と親子丼を食べ、男の人は空になった食器を洗いにいった。お腹がいっぱいになって、温まって、眠くなってきた。
 もう今夜はここに泊まろうかな、なんて半分自棄に思いはじめる。あの人、本当に何もしなさそうだし。明日から土日で、帰ったって親が二日間も家に一日いるし。土日ここで過ごして、怪しいとか怖いとか気持ち悪いとか、何か感じたら出ていけばいい。一応、あの人もそうしていいと言っている。
 男の人はすぐ戻ってきて、まぶたが重い私に「眠る?」と訊いてくる。
「ん……化粧は、落とさないと」
「顔、洗う? ユニットバスだけど」
 私がうなずくと、私を廊下にあったドアの中のユニットバスに連れていった。男の人は給湯器をつけてお湯を出してくれて、私はボディソープを借りて顔を洗った。適温のお湯が気持ちよくて、こわばっていた顔がふっと楽になる。
 男の人は洗濯済みのタオルを持ってきて、私は鏡を覗きながらそれで顔をしたたる水滴を拭った。男の人は私をじっと見つめて、「何」と上目で見返すと、「中学生くらいに見える」と男の人はつぶやいた。「ほんとに十九だよ」と私がややむくれると、「ごめん」と男の人は謝って、私を部屋に連れ戻した。
「君の名前、訊いていい?」
 顔を洗って一瞬目が覚めたけど、ぬくぬくした部屋に包まれるとまた眠気が襲ってきた。重くなる頭に目をこすっていると、私が使ったタオルをカーテンの前の物干しにかけた男の人が、そう訊いてくる。
 ベッドサイドの私は、男の人に顔を向け、「佳琴かこと」と答えた。
「あなたは?」
「俺は奏弥かなや
「何歳なの?」
「二十三歳」
 意外と若いな、と思っていると、奏弥さんもベッドサイドに腰かけて電気毛布のスイッチを入れた。
「私、床で寝ればいいのかな」
「ベッドで寝ていいよ。俺が床で寝る」
「寒くない?」
「大丈夫」
 さすがに添い寝は遠慮したかったので、奏弥さんがそう言うのなら甘えることにした。すっかり泊まる気になってずうずうしいな、という自覚はあっても、何だか眠気でどうでもよくなってきた。
 ベッドの上に乗って、ふとんを腰まで引き上げる。奏弥さんはクローゼットの戸を開き、毛布を引っ張り出してきた。そして、床に座りこむとその毛布を膝にかける。
 私を見ると、「寝ようか」と奏弥さんは言って、私はこくんとした。
「電気、消していい?」
「うん」
「ゆっくり休んで」
 奏弥さんはいったん膝立ちになち、紐を引いて電気を消した。ふっと室内が暗くなって、その中から「おやすみ」と聞こえた。私は同じ言葉を返し、ベッドに横たわってふとんをかぶった。
 奏弥さんの匂いがして身動ぎしてしまう。奏弥さんは私に話しかけることもせず、先に眠ってしまった。私もだいぶ眠いのだけど、知らないベッドに神経が昂って、なかなか意識までなくならない。電気毛布がぽかぽかと体温をやわらげていく。何度か寝返りを打ち、低反発のまくらにこめかみを預ける。
 このアパートに来たときの、子供の泣き声がまだうっすら聞こえる。時計の秒針も響くし、隣の部屋はラジオかテレビをつけている。
 私が帰ってこなくても、家は気づいてもいないだろう。このままここにいて、月曜日に出勤しなくても、みんな何とも思わないのだろう。私なんていらない。必要とされてない。でも、奏弥さんは私がこの部屋にいると嬉しいと言った。
 奏弥さんのことは何も知らない。ストーカーと認めるくらいだし、いきなり危ない目にも遭うかもしれない。でも、それ以上に優しくしてくれる。
 人に優しくされたのなんて、いつぶりだろう。泣きそうになるくらい久しぶりだった。もし、奏弥さんがこのまま優しくしてくれるなら、私は──
 ぎゅっと目をつむり、ちょっとだけ、引き換えに殺されることになってもここにいたら楽になれるのかなと思った。それがバカげた幻想なのはすぐ分かったけど、ストーカーの部屋に泊まっているという危険もよく分かっていたけど、私はベッドを出なかった。
 奏弥さんは寝ている。逃げるなら今だ。しかし私は逃げずに、次第に広がっていく弛緩のまま、ようやく眠りに落ちていった。

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