家族のような
年末だからと実家に帰るとか、このアパートの住人には少ないようで、聞こえてくる生活音に変わりはなかった。
その中にはやっぱり天斗の泣き声が混ざっていて、大丈夫かなあと心配になる。ちゃんとごはん食べてるかな。お風呂には入れたかな。
奏弥さんにあの泣き声が落ち着くことはないのか訊くと、「だいたい毎日聞こえてくる」と返ってきた。
「あれ、虐待だよね。たぶん」
「たぶんね」
「誰も通報とかしないのかな」
「巻き込まれたくないんじゃない?」
ベッドサイドに腰かける私は、隣に座る奏弥さんの肩にもたれている。暖房がきいて、テレビではどこかの国の映画が流れている。
年末はさすがにあの女も来ないそうで、日曜日だけど奏弥さんとふたりだった。奏弥さんは私の髪を撫でて、「あの泣き声、気になる?」と問いかけてくる。
「何か、自分と重なっちゃって」
「重なる」
「あんなふうに泣いてたわけじゃないけど。親には愛されてなかったし、いらない子だった」
「……俺も、親に愛されてたのか分からない」
「十五で家出たんだもんね」
「出ろって言ったんだ、あの人が」
「あの人」
「俺が抱いてる人」
「そう、なんだ」
「全部面倒見るから、そんな家は離れろって」
「あの女の人に感謝してる?」
「分からない。ただ、セックスも俺のためだって言われる」
「奏弥さんのため?」
「いつか好きな人ができたら、ちゃんとできるように教えるからって」
私は奏弥さんとつないだ手に力をこめた。「しなくていいよ」とつぶやくと、「うん」と奏弥さんはうなずく。
「奏弥さん、好きな人ができたとは言わないの? そしたら、しなくていいかもしれないよ」
「まだ佳琴を養う力はないから。あの人に金はもらわないと」
「……そっか」
「佳琴は、俺があの人を抱くの嫌かな」
「ん……セックスしてる奏弥さんを気持ち悪いとは思わないけど。私じゃない人を抱いてるのは、ちょっと悔しい」
「悔しい」
「やきもちだね」
奏弥さんはわずかに面食らい、私ははにかんで咲うと、やっぱり届いてくる天斗の泣き声を聞いた。また来てもいいかと尋ねていたけれど、その様子もない。あの日、アパートの前で母親に手ひどくされていたようだから、怖くて部屋を出れないのかもしれない。
かといって、天斗の部屋に迎えにいったら──。しょせん私も、天斗の母親に関わりたくなくて放ってるのかな、と胸がちくりとした。
夜になると、私と奏弥さんは一緒にベッドにもぐりこんだ。今日は明かりとテレビをつけたまま、年が変わるのをふとんに包まりながら待っていた。「初詣行ってみたいな」と言うと、「近くに神社があるよ」と奏弥さんは私の髪を撫でながら答える。
「林檎飴あるかな」
私が顔を上げると、「明日DVD返しに行くし、神社も行ってみる?」と奏弥さんは首をかしげる。私はこくんとして、「林檎飴食べたことない」と奏弥さんの匂いにしがみつく。奏弥さんも私を抱きしめて、お互いの体温を感じているあいだに年が変わった。
テレビから歓声が聞こえる。「あけましておめでとう」と奏弥さんの胸に頬を当ててささやくと、奏弥さんは同じ言葉を返してくれた。
その夜はそのまま寝てしまった。朝目覚めると、テレビも明かりも消され、奏弥さんは朝食の焼き鮭とたまご焼き、ごはんを並べていた。ふたりで朝食を取ると、奏弥さんは昨夜の約束通り、借りていたDVDをレンタルショップに返すついでに初詣に行こうと誘ってくれた。
身なりを軽く整え、唇にリップだけ塗ると奏弥さんの手を握った。感覚を失うほど空気が冷え切った外に出て、まずはDVDをレジでなくポストに返却する。奏弥さんの腕にくっついて、神社への車道沿いの道を歩いた。
寒いけど空は透き通るように晴れていて、冬陽が緩やかで心地いい。神社へとお参りに向かう人、お参りを終えて帰る人、けっこう人も車も行き来している。やがてがやがやと人混みが聞こえてきて、神社に到着した。
鳥居まで列ができている。「並ぶ?」と訊かれてこくりとすると、奏弥さんは私と手をつなぎなおして最後尾に並んだ。並んでいるあいだ、いろんな出店のいい匂いがただよってきて、そわそわと目を向けてしまった。「あとで何でも食べていいよ」と奏弥さんは言って、「うんっ」と私は温かい手に力をこめた。
じりじり進む列にずいぶん長いこと並んで、やっと順番が来ると私はひとつだけ願った。
奏弥さんのそばにいられますように。
これ以外、今の私に祈りたいほどの願いはない。
そのあと、林檎飴だけでなくベビーカステラやたこ焼きでお腹いっぱいになって、ゆっくり歩いてアパートに戻った。
「……あれ」
廊下に踏みこみ、鍵を取り出した奏弥さんがつぶやいた。夜に食べようとおみやげにした回転焼きを抱える私も、部屋の前にうずくまっている影に気づいた。
私はすぐにはっとして、「天斗?」と声をかける。すると、丸くなってしゃがむ影が動いて、のろのろと頭をもたげた。
「……おねえさん」
頬の殴られた痕に、涙が伝っていた。私は奏弥さんを見上げ、奏弥さんは怪訝そうだったものの手を放してくれる。私は天斗に駆け寄り、「おかあさんいないの?」と声をかけた。
天斗は奏弥さんを気にしながらも、こくんとして、「男の人と出かけちゃった」とかぼそく言った。奏弥さんが背後まで歩み寄ってきて、私は振り返って見上げる。
「この子──部屋に入れちゃダメ?」
奏弥さんはまじろいだものの、ややびくついて嗚咽を抑える天斗を見て、「佳琴が入れたいなら」と鍵をまわした。
私は天斗の肩を抱いて立ち上がらせ、すると天斗は甘えるように私にしがみついてくる。今日も服は薄汚れていて、髪も肌も荒れている。私は天斗の頭をぽんぽんとして、部屋に招き入れた。
「その子と面識あったんだ」
奏弥さんは私と天斗が部屋に上がると、玄関の鍵をかける。
「前に、ちょっと話したの」
「懐いてるね」
「ん、まあ。お菓子あげただけなんだけど」
「ふうん」
奏弥さんがどこかそっけなく答えるのを見つめて、もしかしてやきもちかな、なんて思っていると、天斗は私のお腹から顔を上げて奏弥さんを見た。奏弥さんがやや困ったように目をそらすと、「おにいさんは」と天斗は首をかしげる。
「おねえさんの、こいびと?」
「……さあ」
「もうけっこんしてるの?」
「してない」
「おねえさん、僕のママになってくれるって言った」
「え」
「だから、おにいさんはパパなんでしょ?」
私が思わず噴き出してしまうと、奏弥さんは困惑を見せながら「俺と佳琴は、」と言いかけて、口ごもった。天斗は大きな瞳に奏弥さんを映し、「パパじゃないの?」と突っ込む。私は天斗の頭を撫でた。
「そうだよ、この人はパパだよ」
「佳琴──」
「天斗、パパ欲しかった?」
「うんっ」
奏弥さんは参ったように息をついたものの、「ここ寒いから」と部屋へと廊下を抜けた。私と天斗もついていく。
奏弥さんは暖房をつけて、私は天斗とカスタードの回転焼きを半分こにした。奏弥さんは白餡の回転焼きで、部屋が暖まるまで私たちは天斗を挟んでベッドサイドに並んで座り、温もりを残す回転焼きを食べた。
「昨日、いつも泣いてる子のこと気にしてたけど」
「うん、この子のこと」
「お菓子あげたって、いつのまに」
「奏弥さんがケーキとチキン買ってきてくれてるあいだに」
「……あのとき」
「ここに逃げこんでたから、余計におかあさんに怒られてたみたいで」
あの日、天斗が母親にひどくされているのは、奏弥さんも見かけたようなことを言っていた。
あっという間に回転焼きを食べてしまった天斗に、奏弥さんは手の中の回転焼きを見て、「半分いる?」と訊いた。「いいの?」と天斗は大きな瞳をきらきらさせて、奏弥さんは少し齧った回転焼きをちぎって半月を天斗に渡した。天斗は嬉しそうに咲うと、「ありがとう」ときちんと言って白餡にかぶりついた。
「天斗、あれからぜんぜん来なかったけど、部屋抜け出せなかった?」
私が尋ねると、天斗は首を横に振った。
「このお部屋の前に来ても、ピンポンに手が届かなかった」
「……あ、」
それは考えなかった。じゃあ、逃げてきていたときもあったのか。「ドアたたいたら、うるさいし」と言った天斗に、「そんなことないよ」と私は回転焼きを飲みこむ。
「こんこんってくらいならいいよ。私、気づくようにする」
「ほんと?」
「うん」
「おにいさんもそうしていい?」
「ん、まあ……」
奏弥さんの返事が歯切れ悪いので、天斗は不安をちらつかせる。私も、奏弥さんが迷惑だと言えば、あまり心強く天斗を受け入れることはできない。私と天斗のふたりがしゅんとしてしまうと、「俺は」と奏弥さんが慌てたように言葉を継ぎ足す。
「佳琴が好き、だから。佳琴がそうしたいなら、別に君が部屋に来てもいいけど……」
天斗はじっと奏弥さんを見つめてから、ふと、「おねえさんとおにいさんの邪魔はしないよ」と言った。奏弥さんはどきりとした様子で天斗を見て、天斗は奏弥さんに身を乗り出す。
「だって、パパとママが仲良くしてるのは嬉しいもん。僕がいても、おにいさんはおねえさんと仲良くして?」
「……それは君を外してるみたいじゃないかな」
「そんなことないよっ。おねえさんが好きっていうおにいさんはかっこいいよ。だから、僕はそれを見れてたらいい」
奏弥さんは面食らっていたけど、「……そっか」とつぶやいてから、ようやくはっきりうなずいた。
【第七章へ】